第80話 第四章「氷原で燃える水」後編
氷原班は、救出した三人を雪壁の陰へ移した。
雪壁は訓練用で、内部へ細い空気管が通っている。外から見ればただの氷塊だが、遭難者が吹雪を避ける小屋になる。
「入れる人数」とカイル。
「設計八」と教官補。
「今いるのは」
「十二」
「設計を越えている」
「短時間なら」
教官補は言いかけ、セレナの単眼鏡を見て言い直した。
「短時間の実測記録がありません」
「では八人。残る四人は別の陰を作る」
カイルが盾を出そうとする。
「停止」とセレナ。
「小さい盾だ」
「能力使用全般を停止」
「では何で作る」
「雪板、担架布、壊れた橋桁」
「王子の見せ場がない」
「救難に見せ場を要求しないでください」
カイルは右籠手を見た。
盾なら一瞬で屋根ができる。自分が痛めば済む。
その速さに慣れた者は、遅い方法を無力と感じる。
王家の歴史も同じだった。
ルーメン王家は、危機のたびに一人の王が盾となった物語を好む。
初代王は千人の前へ立った。
二代目女王は火山灰を一昼夜受けた。
王太子の教本には、彼らが倒れた後で誰が水を運び、誰が盾の熱を逃がし、誰が国を立て直したかは小さくしか書かれていない。
王は前へ出る。
民は守られる。
分かりやすく、危険な構図だった。
「橋桁を二本」とカイル。
彼は左手で持つ。
本来の利き腕。王族礼法に矯正される前から使っていた手。
「殿下、右腕は」
「使わん。左で運ぶ」
「肋骨」
「二」
セレナが見る。
「本当は」
「二」
「返答速度、正常」
「人を機械みたいに」
「正常は機械の自己紹介だそうです」
「ロロの言葉か」
「マオが修正しました」
「では俺の正常は、王子の自己紹介だな」
「信用しません」
「手厳しい」
四人で橋桁を雪へ差し、担架布を張る。
王盾より遅い。
だが、作った者が交代できる。
カイルが倒れても残る。
雪壁の外へ、二つ目の避難陰ができた。
ネロが中へ入らず、盾の破片を見ていた。
「どうした」とカイル。
「僕のせいで、傷が増えた」
「盾は傷を増やす道具だ」
「守る道具じゃ」
「守れば傷がつく。無傷の盾は、使ってないか、傷を隠してる」
「殿下も?」
セレナの筆が止まる。
カイルは少し考えた。
「俺は隠す方が多い」
「どうして」
「王子が痛いと言うと、周りが止まる。止まってほしくない時がある」
「今は」
「止められた」
「嫌?」
「嫌だ」
ネロは困った顔をした。
「でも、止まってよかった?」
「それも、そうだ」
「どっち」
「両方だ。嫌でも正しいことはある」
「それ、先生みたい」
「王子より昇格したな」
「先生の方が下では」とセレナ。
「政治的に危険な発言だ」
ネロが初めて笑った。
カイルは盾の新しい亀裂へ指を置く。
「白髭峠。お前が這って渡った場所」
「僕の名前じゃない」
「地名は一人の所有物じゃない」
「でも僕、忘れない」
「俺もだ」
傷へ名前を付ける癖は、損傷評価を妨げる。
同時に、誰を守った傷かを彼が忘れないための記憶法でもある。
セレナは地名の横へ正式位置を書いた。
『盾右上。縁から三指。亀裂十八星寸。通称・白髭峠』
「通称を記録した?」
「正式記録と分けました」
「融通が利くな」
「分類です」
氷原の制御小屋へ入ると、床が濡れていた。
雪が溶けた水ではない。
管の結露が、異常な量で落ちている。
「内部が外より熱い」
カイルは左手で扉を閉めた。
壁には二つの手動輪。
青が溶雪槽。
赤が凍結防止加熱。
青い輪には八時十二分の刻印。
赤い輪には八時十三分。
「開けた順番は一分差」とセレナ。
「一分あれば相談できた?」
給水担当が首を振る。
「通信盤には、砂漠の流量要求だけ出た。加熱担当は別室。私は開けたあと避難路へ走った」
加熱担当も言う。
「凍結警報を見て上げた。流量増加は表示されていたが、規定範囲だった」
「規定範囲なら、組み合わせても安全と思った?」
「思った」
セレナが問う。
「誰が悪いと思いますか」
二人とも答えない。
「質問が違う」とカイル。
「では」
「互いがしたことを、いつ知った」
「蒸気が出たあと」と給水担当。
「私も」と加熱担当。
「相手を責めた?」
「最初は」
給水担当が目を伏せる。
「水を温めたからだと」
「私は、流量を増やしたからだと」
加熱担当が続ける。
「今は?」
「どちらもしなければ、それぞれ別の事故が起きた」
「なら、両方正しい?」
「結果は正しくない」
「良い答えだ」
カイルは制御盤へ近づく。
「二人の操作を同じ画面へ出せるか」
「設備改修が要る」
「高い?」
「小型船一隻分」
「国費で出す、と俺が言えば簡単だが」
カイルはセレナを見る。
「それも一人の盾だな」
「王室予算で即決すれば、維持費と他設備の優先順位が消えます」
「ドランに怒られる」
「国家監査にも」
「では事故報告へ費用と代替案を載せる。音声短報なら改修前にもできる」
給水担当が言う。
「毎操作を全区画へ声で流せば、通信が埋まる」
「短くする」とカイル。「『氷、水増』『氷、加熱三』。意味は事前に決める」
「誤解は」
「復唱する」
セレナが記録する。
「殿下、救難指揮の提案は報告書へ。命令としては発しないでください」
「分かってる」
「今、王室印へ手が伸びました」
「癖だ」
「癖も記録します」
カイルは左手をポケットから出した。
「王子であることは、何でも決める資格じゃない」
「知っていたのでは」
「知識としては。手が先に動く程度には、知らなかった」
小屋の奥に、熱交換槽があった。
本来、溶雪水を直接加熱せず、外側の星熱管から少しずつ温める。だが流量が増えたため、水が熱を奪い切れず、加熱側の管が高温になっている。
「逃がす場所は」とカイル。
「中央排出」
「また中央か」
「設計上、最も余裕がある」
「今も?」
「表示では安全範囲」
表示は三分平均だった。
セレナは時刻欄を見る。
「測定八時十四分。受信八時十七分」
「今は十八分」
「盤が見ている中央余裕は一分前までの平均」
「一分?」
「中央炉内計は即時。区画側の参照値は三分平均。表示形式が異なる」
「同じ『安全』なのに、時刻が違う」
「はい」
カイルは熱交換槽へ耳を寄せた。
水が沸く音。
「中央へ逃がすのを止めると」
「ここで管が破裂」
「続けると」
「中央負荷増大」
「別の場所は」
「外へ捨てれば学院下面へ熱水。氷原へ戻せば蒸気。密林へは逆流弁が閉鎖」
「正しい逃げ道がない」
「今の条件では」
設備が正常に動きながら危険になる時、しばしば出口がすべて別の誰かの入口になっている。
「時間を買う方法」
カイルは盤面を読む。
「加熱を一段下げ、流量を二割減らす。凍結までの予測は」
「現表示で九十息」
「三分遅れている」
「実際は短い可能性」
「だから一度に変えない。加熱を半段――そんな調整は」
「手動なら」
「誰が行く」
熱交換槽の手動板は、蒸気路の向こうにある。
カイルの右腕は停止中。
給水担当は指を火傷。
加熱担当は無傷だが、高熱区作業の資格がない。
「俺が」
「停止」とセレナ。
「左手で板を動かす。盾は使わない」
「肋骨痛二、右腕痛二、背部一。高熱区では呼吸負荷が増える」
「代替案」
「資格を持つ整備員が外から来るまで四十息」
「管の破裂予測」
「五十五息」
「十五息の余裕」
「予測誤差二十」
「足りない」
「だからといって、あなたが最適ではない」
「誰が最適」
「給水担当。左手は無傷。資格あり。ただし本人の同意と火傷手の保護」
カイルは給水担当を見る。
「できるか」
「できます」
「したいか」
男は一瞬、驚いた。
「したいか、ですか」
「できる者へ、当然のように危険を渡したくない」
「怖いです」
「なら」
「でも、自分が開けた水です。責任を――」
「責任だけで行くな」
カイルの声量が落ちる。
「行けば、何を守れる」
「管を破裂させず、中央へ行く熱を減らせる」
「戻る条件は」
「視界低下、手袋表面温度赤、呼吸三」
「補助は」
「索一。外から引ける人」
「俺が引く」
「右腕」とセレナ。
「左で」
「肋骨」
「引く力を二人で分ける」
加熱担当が隣に立った。
「私も引きます」
給水担当が高熱路へ入る。
カイルと加熱担当が索を持つ。
セレナが時間と呼吸を数える。
「五息。視界」
『良好』
「十息。手袋」
『黄』
「十五息」
『板へ到達』
「半段」
『目盛りが固い』
「戻るか」
『あと一押し』
カイルの右拳が動きかける。
盾を出せば、熱路を一瞬守れる。
止めた。
「索を張る。無理なら戻れ。板より人だ」
『……動いた! 半段!』
「帰れ!」
二人で索を引く。
給水担当が蒸気から出る。
管鳴りが低くなった。
「中央排出熱、二減」とセレナ。
小さな数字だった。
だが、その二は一人の王子が痛みを増やさず、現場の整備員が自分の技能を選び、二人が一緒に引いた結果だった。
「見せ場があった」とカイル。
「あなたの?」
「待ったことの」
「記録します」
彼は笑った。
肋骨を押さえずに済む、小さな笑いだった。
熱交換槽の出力が下がると、氷原の境界膜が反応した。
外気との差を埋めるため、冷却を強める。
冷気が中央へ流れ、中央炉は熱と冷気を別々に受ける。
「一つ下げると、別が上がる」とカイル。
「それでも全体の負荷は減っています」とセレナ。
「正しい操作?」
「現時点では合理的。結果を監視する条件付き」
「言葉が長い」
「短くすると誤ります」
「では『今は正しい』」
「時刻を付けてください」
「八時十九分、今は正しい」
セレナはそのまま記録した。
正しさには、時刻が要る。
永遠に正しい操作など、救難現場にはほとんどない。
カイルは雪壁の外へ出た。
助けた七人がいる。
さらに給水担当と加熱担当が並んでいる。
彼らを背にすれば、盾は強くなる。
だからこそ、出さない。
カイルは右籠手を左拳で叩かず、腕を下ろしたまま中央庭園を見た。
赤金の盾を使わなくても、守る方法が一つ増えた。
その時、氷原を囲む青い気候境界が赤く染まった。
王盾が受け止めた熱は消えていない。
誓星術へ変換され、盾の周囲へ放射された熱量を、境界感知器が新たな異常熱源として拾ったのだ。
青い膜が、氷原を冷やそうと出力を上げる。
隣の砂漠境界は、その冷気を異常低温として弾く。
密林境界は湿度を上げる。
雷雲境界は差分を電荷へ逃がす。
四つの安全装置が、カイルの盾を中心に互いを敵と認識した。
「これは俺のせいか」
カイルが問う。
「あなたの行為が一条件です」
セレナは答えた。
「原因の全部ではありません」
「だが増やした」
「はい」
嘘のない返事だった。
カイルは立ち上がろうとし、セレナに肩を押された。
「止まるのも救難です」
「止まった王子は絵にならん」
「事故報告書は絵本ではありません」
氷原の青い空が、赤金と紫の稲妻に割れた。
境界膜の留め輪が、一つ、二つ、順に外れる。
盾が守った七人は生きていた。
その盾の熱が、庭園全体をさらに不安定にしていた。