第84話 第六章「閉じた扉の向こうの熱」後編

 通信が切れると、待避所には九人分の呼吸が戻った。

 戻った、というのは正確ではない。

 呼吸は最初からあった。ただ、救助の話をしている間だけ、誰も自分の息を聞いていなかったのである。

 人は危機の最中、自分の身体を後回しにする。

 勇敢だからではない。

 身体は命令に従う部下だと、平時に教え込まれているからだ。

 だが身体は部下ではない。

 賃金も休暇も与えられず、辞表も書けない共同経営者である。無視すれば、最も悪い時刻に経営権を取り戻す。

「全員、いまの症状を一つずつ」

 マオが言った。

「さっき聞いた」と上級生。

「さっきと今は違う」

「変わっていなければ」

「変わってない、と言って」

 煙を吸った一年生から始める。

「喉、二。胸、一。目、三」

「咳は」

「増えた」

「次」

「手の火傷、二。指は動く」

「次」

「怖い」

 列の三人目がそう言った。

 症状の名ではない。だがマオは訂正しなかった。

「何が一番」

「扉が開いて、もっと火が入ること」

「開かないことは」

「それも怖い」

「両方でいい」

「答えになってない」

「恐怖は問題じゃない。答えがなくても存在する」

 彼女は記録布へ二本の線を引いた。

 開放への恐怖。閉鎖への恐怖。

 どちらかを消して勇気と呼ぶのではなく、二本とも残す。

「次」

「水が少ない」

「症状を」

「喉が渇いた」

「それは症状。水が少ないは状況。両方記録する」

 待避所に残った飲料水は、携帯瓶六本と救難水袋一つ。

 九人が等分すれば、少ない。

 煙を吸った者へ多く渡せば、さらに少ない。

 平等は割り算に向いている。

 救難は、割り算だけではできない。

 マオは水袋を中央へ置いた。

「先に配分を決めない。必要量を申告して」

「多く欲しいと言った者が得する」

「だから理由も言う」

「嘘をついたら」

「疑う理由が出た時に確認する。最初から全員を嘘つきにすると、本当に苦しい人が黙る」

 彼女は煙を吸った一年生へ二口。

 熱傷者へ一口と湿布用の半口。

 残りは一人一口より少ない。

「君は飲まないのか」と上級生。

「水路で腹這いになる。今飲むと吐く」

「それは節約の言い訳か」

「違う。戻った時に飲む予約」

「予約?」

「私の分を消さないで。善意で他人へ回さないで。戻る理由にする」

 マオは自分の携帯杯を伏せて置いた。

 空の器が、席を一つ取る。

 昔、病院では彼女の席がよく片づけられた。

 検査へ行っている間に椅子が寄せられ、食べるのが遅い間に皿が下げられ、運動に参加できない日は名簿から役割ごと消された。

 どれも悪意ではなかった。

 善意は時に、いない人間を先に諦める。

 だから彼女は、空席を残す。

 帰る場所を物に覚えさせる。

「ロロ。時刻」

「人工夜への切替から百七十二息。中央周期、前より七息短い」

「ピコ、十二秒」

『ピ』

 真鍮鳥が嘴を開く。

 録音された音が流れた。

 ごう、と排出管。

 かちり、と封鎖錠。

 その三息後に、低い唸り。

「もう一回」

 再生。

 上級生が首を傾げる。

「何を聞いている」

「扉が閉じてから熱が来てる」

 ロロは床へ工具を並べた。

「普通は危険を感知して扉が閉じる。今は命令で扉が閉じ、その後に排出熱が来た。順番が逆だ」

「なら命令が事故を起こした?」

「そこまで言うな」

 ロロの二本目の補助腕が、上級生の言葉を空中で止める。

「扉が開いてても熱が来たかもしれねえ。閉じたから助かった奴もいる。音だけで犯人を作ると、修理箇所を間違える」

「機械は正常なのだろう」

「正常だよ」

 ロロは嫌そうに言った。

「だから困る。壊れた機械は、壊れた場所を直せばいい。正常な機械が正常に人を閉じ込めると、直す場所が箱の外になる」

「箱の外?」

「誰が、何を、いつ危険と呼ぶか。そっちは歯車じゃねえ」

 彼は封鎖箱の外板を叩いた。

 澄んだ、健康な音がした。

 機械の健康と、人間の安全は同義ではない。

 アステリアの工学史において、この区別が明文化されたのは、空船が発明されてから百年以上も後である。

 初期の事故報告は、機械が設計どおり動いた場合、その事故を「操作者の過失」と記した。設計どおりという言葉が、設計の正しさまで保証するかのように。

 だが設計は未来への予言ではない。

 過去の想像力を、金属へ固定したものにすぎない。

 嵐庭園の扉は、外が危険なら閉じる。

 その設計者は、四つの外が同時に危険となり、しかも危険物が中央から押し返される朝を想像しなかった。

「外板を開ける」

 ロロが言った。

「壊さないんじゃなかった?」

「点検口。正規の開け方だ」

「工具は」

「正規じゃない」

「正規の工具を使って」

「この状況でそこ?」

「ねじ山を潰したら、閉め直せない」

「お前、正しいけど腹立つな」

「腹立つ正しさは、忘れにくい」

 ロロは正規寸法の回し具を選んだ。

 補助腕の一本が滑り、別の一本が支える。右目を細め、左目を点検灯へ寄せる。

「視界」

 マオが聞く。

「右は霞む。左は見える」

「疲労」

「二」

「本当は」

「お前ら全員、その聞き方覚えやがって。三」

「休む?」

「このねじ二本の後」

「一本の後」

「二本」

「一本」

「間を取って一・五」

「ねじを半分で止めるの?」

「そういう意味じゃねえ!」

 待避所の空気が、ほんの少し軽くなる。

 笑いは酸素を増やさない。だが、呼吸を揃える。

 マオはそれを数えた。

 一年生の咳が、笑った後に悪化しないこと。

 熱傷者の指が、杯を握れること。

 恐怖を二つ言った生徒が、入口の旗を見られること。

「役を決める」

 彼女は伏せた杯の隣へ、工具、布、水、通信筒を並べた。

「私は水路。ロロは扉と中央への技術連絡。あなたは」

 予備旗を持つ上級生を見る。

「入口旗、人数確認、煙の高さ。三十息ごとに声をかける」

「私は上級生だ。指揮を」

「指揮がしたい?」

「責任がある」

「責任と命令は同じじゃない」

「では何をすれば責任になる」

「自分が取った旗を、誰が何のために使ったか最後まで記録する。九人を九人のまま数える。私が戻らなくても八人で終わらせない」

 上級生の顔から、反論の形が消えた。

「……戻らない可能性を口にするな」

「可能性を口にしないと、準備できない」

「縁起が悪い」

「縁起で扉は開かない」

「君は、怖くないのか」

 マオは左脚を見た。

 装具の継ぎ目に、泥が詰まっている。皮膚との境が赤い。冷えれば硬くなり、硬くなれば擦れ、擦れれば帰路が遅くなる。

「怖い」

 即答した。

「水路の途中で脚が動かなくなるのが怖い。壁の向こうに誰もいないのが怖い。戻ったら私の水がなくなってるのも怖い。あと、助けてもらった後に『やっぱり何もできなかった』って書かれるのが一番腹立つ」

「最後だけ恐怖ではないだろう」

「怒りと恐怖は親戚」

「どちらが年上だ」

「恐怖。怒りはあとから強い顔をする」

 その答えを、上級生はしばらく考えた。

 ロロが点検口から細い導線を引き出す。

「見つけた。閉鎖命令の保持線。切れば扉は開く」

「切らない」

「分かってる。言ってみただけ」

「なぜ」

「切れる物を見ると、切った後を想像しない整備士がいるから。俺は先に言って、先にやめる」

「変なこだわり」

「お前に言われたくねえ」

「褒めた」

「お前の褒め方は刃物なんだよ」

 ピコが羽根を震わせた。

『ピ、ピ』

「何」

 十二秒録音の最後に、かすかな三音が入っていた。

 高い。低い。高い。

 ロロが中央周期表をめくる。

「人工夜の切替予告音じゃない。保守回線の受信確認音だ」

「誰かが命令を送った証拠?」

「命令を受けた証拠。送った相手は分からねえ」

「分からないを残して」

「残す」

 マオは記録布へ書く。

『封鎖前、外部保全回線受信。送信者不明。内容未確認』

 未確認。

 その四文字は、空白ではない。

 勝手な答えを入れないための柵である。

「時間」

「待機限界まで二百七十息」

「水路往復は」

「平時百四十。今の脚と傾斜なら二百」

「壁越しの作業を足すと」

「足りない」

「だから戻る道を先に作る」

 マオは救難索の端を腰環へ結んだ。

 結び目を自分で一度引き、上級生に二度目を確認させる。

「引く合図。一回、進める。二回、止まる。三回、戻せ」

「四回は」

「助けて」

「言えるのか」

 マオは少しだけ眉を寄せた。

 助けを求める時、彼女は言葉を細かくしすぎる。

 何を、どの角度で、何秒、どこまで。相手が勝手に全身を支配しないよう、条件を積み上げる。

 それは有効だった。だが、条件を言い切る前に力尽きることもある。

「四回は、説明しない。引いて」

「了解」

「復唱」

「四回は、説明を待たずに引く」

「合格」

「君は試験官ではない」

「今日それを言わない人、いる?」

 ロロが工具箱を閉じた。

「俺は言ってねえ」

「じゃあ不合格」

「なんでだよ!」

 もう一度、短い笑い。

 マオは伏せた杯へ指を置いた。

 戻った時に飲む。

 戻れなければ、誰かが捨てる。

 それでよい。

 席は永遠に空けるためではなく、帰還を待つ時間を決めるためにある。

「行く」

 彼女は水路の縁へ身体を下ろした。

 マオは水路を進んだ。

 腹這いになり、右肘で引く。左脚は伸ばし、装具が管へ当たらない角度を探す。湿った石は熱を持ち、少し先からは冷えていた。四気候の境界が、細い水路の中でも争っている。

 三十歩。

 分岐を左。

 四十七歩。

 透明な保守壁。

 向こう側に、人影が二つあった。

 ハルとエリア。

 二人とも中央庭園から退避できず、保守回廊へ逃げ込んでいた。壁越しの通信孔を開く。

「マオ!」

 ハルの声がすぐ近くになる。

「大声。煙より先に耳が死ぬ」

「元気そうでよかった」

「元気は数値じゃない」

「痛みは」

「三」

「本当は」

「三。聞き直して増やすな」

 エリアは壁の向こうで地図筒を床へ置いた。

 置いた直後、筒が横へ転がる。

「重力角、十一度変化」

 彼女は地図筒の先を、新しい下へ向け直した。

 ブーツも脱いで、踵を同じ方向へ揃える。

 ハルが見て、自分の靴も並べた。

「真似しないで」

「道を知ってる人の靴は、出口を向いてると思って」

「これは出口ではなく重力方向」

「じゃあ、起きた時に落ちない方向」

「それは正しい」

 ハルは赤いマフラーを丸め、エリアの地図筒の下へ挟んだ。

「転がらない」

「あなたの首が寒い」

「砂漠帰りだから暑い」

「中央は温度が混ざっている」

「じゃあ半分返す?」

「マフラーを半分に切るつもり?」

「ロロなら縫う」

「請求される」

 非常時なのに、二人はほんの少し笑った。

 マオは壁のこちらから見ていた。

 誰かに愛着を持つとは、その人が世界を救う場面を好きになることではない。

 靴を置く向きや、物が転がらないように何を挟むかを、次に見る前から想像できるようになることだ。

「見せつけるなら後にして」

 二人が同時にこちらを見る。

「何を?」とハル。

「仲が悪いところ」

「今の会話で?」

「仲が良い人は、同じ方向に靴を置く」

 エリアの右眉が上がった。

「緊急待避の基本です」

「ハルは知らなかった」

「今、教えました」

「それを仲が良いって言う」

「マオ、工具を渡して」

「話を切った」

「扉を開ける話へ戻したの」

「同じ言葉で逃げた」

 ハルが笑いを噛み殺しながら、通信孔へ手を出す。

「何を渡す?」

「細い解錠棒。右へ二回、戻して半回。力を入れすぎると折れる」

「右って今の右?」

「扉を正面に見た右」

「重力が変わっても?」

「右は逃げない」

「安心した」

 工具を渡す。

 ハルは左手で受けた。右手を使えば早いが、左肩を頭上へ上げる時間を減らすためだった。

「肩、十息」

 エリアが言う。

「分かってる」

「数える」

「一」

 ハルが解錠棒を差す。

「二」

 回す。

「三」

 壁の外で、排出塔が唸った。

「四」

 工具が重い。

「五」

 マオは向こうから手順を指す。

「戻して半回!」

「六」

「七」

 錠の表示が赤から黄へ変わる。

「八」

 ハルが腕を下ろした。

「まだ開かない」

「開けない。手動待機へ移した。外側の排出が一拍止まれば、その時だけ開く」

「一拍で何人」

「三人。順番は救助対象、上級生、最後に私」

「マオが最後」

「私が閉める」

 エリアが通信筒を取る。

「ティアへ伝える。手動待機完了。排出停止一拍で救出可能」

 返事はすぐ来なかった。

 代わりに、遠くで学院長の声が流れる。

『全班へ。中央炉許容量七十八。区画境界の自立保持を優先。解除操作を禁止。現位置待機』

 リディアの命令。

 正しい。

 今扉を開ければ、中央の熱が密林へ入り、境界が破れる可能性がある。

 マオは自分の待避所までの距離を計算した。

 煙濃度。

 火の進行。

 酸素。

「あと百四十息」

「何が」とハル。

「待てる時間」

 エリアが通信筒を強く握る。

「ティアへ再接続」

 声が届く。

『こちらティア』

「学院長命令を確認した?」

『確認』

「密林班の待機限界、百四十息」

『こちらの到達に九十。排出停止の調整に三十。余裕二十』

「規則どおりの承認手続きを通すなら」

『最短二百』

 マオは目を閉じた。

 待機命令を守れば、時間が足りない。

 破れば、庭園全体を危険にするかもしれない。

『マオ』

「何」

『あなたの選択を確認する。救助を待つか、手動解除を実行するか』

「手動解除」

『危険を理解しているか』

「理解してる。理解してない部分も言える。扉の向こうの圧力変化は分からない。中央炉の次の周期も分からない。でも、ここに残る危険は分かる」

『受理』

 ティアの声が、一語ずつになった。

『私が行く』

 その声を聞いた時、マオには分かった。

 ティアは待機命令を破るつもりだった。