第88話 第八章「権限返上」後編
ティアは右膝へ細い支持帯を巻いた。
きつくしすぎれば痺れる。緩ければ着地でずれる。
マオが通信越しに言う。
『上から二穴目』
「見えますか」
『昔、同じ型を使ってた』
「あなたの装具と?」
『術後の固定具。嫌いだった。だから覚えてる』
ティアは留め具を一穴戻す。
「どう」
『膝を一度曲げて』
曲げる。
痛みは消えない。だが、ずれない。
「三・五」
『四から下がった?』
「痛みではなく、不安定さが」
『別々に言えてる。合格』
「あなたは試験官ではない」
『元・規律さんも』
「臨時も返しました」
『じゃあ、ただのティア』
ただの。
その言葉は、貴族社会では侮辱に使われる。
ただの生徒。
ただの庶民。
ただの負傷者。
だが今のティアには、肩書きより重かった。
命令章も家名も、判断を代わってはくれない。
「はい。ただのティアです」
『それで来て』
「行きます」
過去の事故で、幼いティアは扉の外にいた。
煙の向こうで誰かが叩く音を聞き、規則どおり救難隊を待った。
救難隊は来た。
遅かった。
以来、彼女は規則を速くすることに執着した。
規則を捨てたかったのではない。
守った人間が、守ったせいで後悔しない仕組みにしたかった。
今日、彼女は規則を破る。
それは過去の自分を否定することではない。
あの日の自分へ、「待ったお前が悪いのではない」と言うためでもあった。
悪かったのは、待たせるだけで、待っている人の時間を数えなかった仕組みである。
「ティア」
オルトが呼ぶ。
「はい」
「右膝」
「三・五。長い着地不可」
「中止語」
「『白紙』」
「聞こえたら」
「理由を問わず停止。可能なら一歩戻る。不可能なら現在位置を報告」
「お前自身が言えるか」
「言います」
「正しいと思っている最中でも」
ティアは、すぐには答えなかった。
正しさは麻酔になる。
痛みだけでなく、他人の声まで消す。
「言います」
「復唱」
「私は、正しいと思っている最中でも、中止語を言います」
「受理」
オルトは全通信を開いた。
「予備確認。中止語は白紙。意味は、失敗ではない。現条件では続行不能。理由説明は停止後」
各班から復唱が返る。
白紙。
地図に何もないことではない。
先を書き直せる状態を残す言葉。
「では始める」
オルトは右拳を床の上へ構えた。
「今は一つにする」
オルトは右拳を床へ打ち付けた。
「指定方向へ全員の足場を揃える号令〈ユニゾン・ブレイス〉。基準、密林保守扉。七拍!」
庭園全体の重力が、ほんの少しだけ同じ方向を向いた。
一拍目。
砂漠排出塔が閉じる。
熱風が弱まる。
二拍目。
氷原排出塔が半閉。
青い冷気が薄くなる。
三拍目。
密林排出塔の圧力が落ちる。
「今!」
ティアは走った。
右膝が痛む。
痛みを消さず、歩幅を左右で変える。今まで彼女は、同じ歩幅を公平だと思っていた。違う身体が同じ地点へ着くためには、違う歩幅が要る。
保守扉へ到達。
「マオ、条件!」
壁越しに声が返る。
『固定一回。左脚痛み四。右腕で解除輪。私は最後』
「私の膝四。長い着地不可。引くなら左腕」
『先に言えた。合格』
「採点はあと」
ハルが解錠棒を回す。
エリアが流向を読む。
「密林側圧、下降。中央側、上昇。開放可能は一拍半」
「解除!」
マオが内側から輪を回す。
ティアが外から双規刃を錠溝へ差し、左右別角度で押す。
扉が開いた。
熱と煙が細い刃になって噴く。
開いた幅は、人一人の肩より少し広い。
模型では半身で通れた。
本物では、熱膨張した軸が上側だけ狭く、扉は台形に開いている。
「白紙!」
ティアが叫んだ。
全員の手が止まる。
「模型と形が違う。上狭、下広。立位通過不可」
『分かってる』とマオ。「予定変更。全員、床移動」
「担架は」
『畳む。熱傷者は側臥位の板。外側、受け取れる?』
「受け取れる。高さを」
『床から二十』
「こちら十二。段差八」
『板の先を持ち上げないで。下へ布を足す』
扉の内側から、予備旗が滑り出た。
赤い布を四つ折りにして、段差へ敷く。
「帳簿外の旗」とドラン。
「今は用途」とティア。
「記録済みだ」
「なら使う」
旗は警告のために作られた。
いまは、負傷者の背を守る滑り布になる。
物の正しい使い方は、一つではない。
ただし役割を変えたことを記録しなければ、次の誰かが警告旗を探して困る。
「外側受け手、二名」
ティアは周囲を見る。
ハルは左肩三。
自分は右膝四。
ドランは右手首二。
最も元気な者を選ぶのではない。
必要な動作に、使える部位を合わせる。
「グランデ生、左腕で布端。凪野生、腰索で板の下。私は進行方向を声で」
「ティアは持たない?」とハル。
「持てます。持つと、狭い扉の全体が見えない」
「見る役」
「数える役でもあります」
内側から熱傷者の板が来る。
煙で顔は見えない。
「本人へ説明」とマオ。
『扉を通ります。身体を横へ。外側で三人が受ける。痛ければ一回叩いて止める』
板から、弱い一打。
「停止!」
全員止まる。
「どこ」とマオ。
二打。
本人は話せない。
「二回は停止合図じゃない」と上級生。
「今、決める」とマオ。「一回、止まる。二回、右側痛い。三回、左側。四回、戻す」
板から二回。
「右側」
ティアは扉の右縁を見る。
熱で浮いた金具が、布へ当たっている。
「ロロ、金具」
『切るな。押し込める』
「何で」
『ピコの嘴――いや、本人がいる! 工具棒の丸端!』
ハルが解錠棒の刃を使わず、丸い柄で金具を押す。
左肩を上げない。腰から力を伝える。
「痛み」
「肩三、継続」
「板、進める?」
本人が一回だけ叩く。
「一回は止まる」と上級生。
「今のは質問への返事」とマオ。
「符号が混ざった」
「訂正。本人、進めてよければ板を握って。だめなら離して」
板の端を握る指。
「進める」
符号は便利である。
便利だからこそ、問いが変わった時に同じ音を使わない。
板が段差を越える。
ドランの左腕が引く。
ハルの腰索が重量を受ける。
ティアは金具と顔色と扉幅を同時に見る。
「通過!」
セレナの証羽が時刻を打つ。
「救命板一、通過。停止一回。右側金具接触。本人確認後再開」
成功という一語では、途中の停止が消える。
記録は、止まったことまで残した。
次は煙吸入者。
自力で這えるが、咳で呼吸が乱れている。
「急がなくていい」と上級生。
「急ぐ」とマオ。「でも速さは本人が決める。一呼吸一歩」
「矛盾」
「急ぐことと、急かすことは違う」
内側から声。
『吸って。吐いて。動く』
外側も同じ呼吸をする。
扉を挟んだ九人と救助者が、一息ずつ同じ時刻を持つ。
四拍目が近づいた。
「時間」とオルト。
「予定より一拍遅れ」とティア。
「続行条件」
「圧力差、許容。中央上昇、あと一。負傷者通過済み。続行」
「受理」
遅れを、失敗として隠さない。
遅れたまま続ける条件を言う。
「第一、煙吸入者!」
二人が這い出す。
「第二、熱傷者!」
上級生が担架を畳んだまま押し出す。
「第三、残り!」
ロロの補助腕が工具箱とピコを投げる。
『投げるな!』
ピコが抗議の音を出しながらティアの肩へ激突した。
「ロロ!」
『機械鳥は自力で飛べる!』
「飛行禁止!」
『鳥扱いすんな!』
六拍目。
オルトの号令が弱まる。
重力がまた傾く。
「マオ!」
『最後!』
マオが扉の縁へ左足を置く。
「固定!」
一息だけ、足裏が世界へ縫い付く。
右腕で解除輪を逆へ回す。
だが扉が戻らない。
熱で軸が膨張している。
「ロロ、代われ!」
『無理、肩幅が――』
「工具!」
ティアは手を伸ばす。
「触るな!」
マオが叫ぶ。
「右腕を貸す!」
「許可!」
ティアが右前腕を掴む。
マオは固定した左足を支点に、身体を扉の隙間へ滑らせる。
七拍目。
号令が切れた。
世界の下が九十度近く動く。
二人の身体が横へ落ちる。
ハルのロープが張った。
左肩を上げず、腰で受ける。エリアの地図槍が壁へ刺さる。ティアはマオの右腕を離さない。
「膝!」
マオ。
「五!」
「私の脚、五!」
「復唱した!」
「仲良く悪化するな!」
ロロの補助腕が二人を回廊へ引き込む。
扉は半開き。
マオが工具を投げる。
「ピコ、止め金!」
真鍮の鳥が嘴の割り留めを落とした。
化粧板から盗んだ、あの小さな部品。
ロロが拾い、軸の応急穴へ差す。
「役に立っただと……!」
『ピ!』
「誇るな!」
扉が閉じた。
密林班九人、救出。
歓声は起きなかった。
全員、息をするので精いっぱいだった。
ティアは床へ座り、右膝を両手で押さえる。
マオも隣へ座った。
「助けられた」
マオが言う。
「嫌?」
「聞かれたから、嫌じゃない」
「私は命令を破った」
「知ってる」
「正しかったとは、まだ言えない」
「私たちが生きてることは、正しいかどうかの証拠じゃない」
「ええ」
「でも、生きてるから話せる」
「ええ」
「じゃあ、あとで揉める」
「望むところ」
その瞬間、庭園の底から音がした。
金属が割れる音ではない。
巨大な吸盤が、長いあいだ張り付いていた壁から剥がれる音。
ごう、と空気が抜ける。
嵐庭園を学院外壁へ固定していた四本の基盤環が、過負荷で同時に解除された。
「全員、固定!」
オルトが叫ぶ。
遅かった。
庭園全体が、外壁から剥がれた。
砂漠、氷原、密林、雷雲。
四枚の巨大な花弁が中央炉を囲んだまま、学院の外へ滑り出す。
重力が消える。
次に戻った時、砂漠は天井にあった。
氷原は壁。
密林は逆さに垂れ。
雷雲は、足元の空になった。
四つの季節が、空中で入れ替わった。