第89話 第九章「落下する庭園」前編

落下とは、下へ行くことではない。

 支えていたものとの関係を失うことである。

 地面があれば下は一つだ。

 船なら下は甲板が決める。

 空に放り出されれば、身体は昔の下を探し、目は新しい下を信じ、内耳はどちらにも反対する。

 ハルにとって、それはよく知った地獄だった。

「吐き気」

 エリアの声。

「二!」

「本当は」

「二と三の間!」

「停止!」

「止まったら落ちる!」

「落ちない場所を探して止まりなさい!」

 砂漠が頭上から降っていた。

 砂粒は雨のように下へ――今の下へ――流れ、途中で氷原の冷気に凍り、密林の逆さの葉へ刺さる。足元には雷雲。紫の稲妻が雲海の中を走り、そのさらに下は王立星航学院の尖塔と、遠い王都だった。

 嵐庭園は落ちている。

 ただし真下ではない。外壁から離れ、四枚の区画基盤が中央炉を軸に回転しながら、学院下面へ滑っている。

 完全に止めれば、回転の慣性で基盤環が裂ける。

 回し続ければ、固定索が切れる。

「止めるな!」

 ロロが叫んだ。

「今止めると、四枚とも千切れる! 排出塔には元の順番がある。砂漠で熱を抜いて、氷原で冷やし、密林で湿度を受け、雷雲で電荷を逃がす! 輪になってたんだ!」

「四つを一本に戻す?」

 ハルは救難索へ腰環を通す。

「そう! 今は全員が中央へ吐いてる。中央を空にするんじゃなく、隣へ渡す!」

「どの順番」

「砂、氷、森、雷! でも位置が入れ替わって、弁の向きも変わった!」

「向きは変わっても右は逃げないってマオが」

「配管の右は逃げるんだよ!」

 マオが横から言う。

「配管に右はない。入口と出口」

「今それ言う!?」

「言葉を間違えると工具の向きを間違えるって、さっき自分で言った」

「覚えが良すぎる!」

 ハルは笑った。

 恐怖が強い時ほど冗談が増える。自分で分かっていた。

 羅針盤の蓋へ親指を置く。

 開かない。

 今、失われたものは明確だった。

 元の順番。

 だが零星針が示せるのは原因であって、戻し方ではない。

 しかも原因は一つではない。

「針は使わない」

「聞いてない」とロロ。

「言っとかないと、頼りそうだから」

「誰が」

「俺が」

 ハルは旗索を掴んだ。

 予備旗、救難旗、規律旗。色も長さも違う布を、ドランが帳簿順に結び直し、一本の索へしている。

「結び目、十三!」

 ドランが叫ぶ。

「十六だろ!」

「三つは飾り結びで荷重不可! 侯爵家の合唱旗を救難索へ使わせるとは――」

「役に立つ?」

「立つ! だから腹が立つ!」

「それなら合格!」

「貴様まで採点するな!」

 ハルは飛び出した。

 一、二、三。

 砂漠天井から垂れる赤旗へ足を掛ける。身体が横へ振られ、左肩が引かれる前に右腕へ替える。十息以上ぶら下がらない。足場を探す。

「赤旗、荷重可!」

 エリアへ報告する。

『位置を』

「砂漠排出塔の下――今は横! 焦げた弁が二つ。青い管が氷壁へ続く!」

『線を更新。次、左前方七歩』

「左前方に空しかない!」

『六息後に密林基盤が来る』

「先に言って!」

『今言った!』

 逆さの密林が回転してくる。

 巨木の枝が橋になる。

「三、二、一、跳ぶ!」

 ハルは枝へ着地した。

 左肩へ衝撃。痛み三。

「肩三!」

『停止条件』

「走るのを止める! でも報告はする!」

 彼は枝へ座り、息を整えた。

 止まることは諦めではない。次に動ける身体を残す行為だった。

 下――雷雲側――でカイルが盾を構えようとする。

「まだ使うな!」

 セレナが腕を押さえた。

「全員が落ちたら使う」

「全員が落ちる前に別案を」

 ティアはマオと並び、回転する足場の縁へ双規刃を刺している。

「固定は一息だけ」

 マオが言う。

「私の膝は長い着地不可。交互に支点を作る」

「私が固定。あなたが受ける」

「逆も行う」

「膝が」

「あなたの脚だけを守る配置にしない」

「……先に聞いたから、許可」

 二人が同時に踏み込む。

「固定!」

 一息、密林基盤が止まる。

 ティアの規則円が、同じ条件ではなく二つの別条件を結ぶ。

 ロロは中央軸の歯車を見ていた。

「四分の一回転ごとに保守窓が合う! 砂漠と氷原が重なる時、熱交換弁。氷原と密林で水弁。密林と雷雲で湿電弁。雷雲と砂漠で放電弁!」

「中央炉へ行ける時は」

 ハルが問う。

「全部の窓が一列になる瞬間――」

 ロロの補助腕が歯数を数える。

「十二回転に一度。今から三巡後。見えるのは六息!」

「道はどこ」

 エリアが四区画の周期を重ねる。

 淡緑の線が空中へ伸び、途中で何度も消える。

「まだ一本にならない」

「なるまで待つ?」

「待てば庭園が学院下面へ衝突する」

 ドランが高度計を読む。

「残り七百星尺! この回転率なら百八十息!」

「次の三巡は」

「百二十息!」

「間に合う」

 オルトが右拳を上げる。

「全員、役割を一つにする。ロロ、周期。エリア、路図。ティアとマオ、足場。ドラン、索と時間。セレナ、負傷限界。カイル、待機」

「待機が役割か」

「最も難しい役だ」

 カイルは右籠手を左拳で叩かなかった。

「復唱。待機」

「ハル」

「中央炉」

「違う。現場報告。行けると判断した時だけ行け」

「復唱。見て、言って、行けたら行く」

 命令ではなく、条件。

 役割を決めた直後、氷原基盤が半回転した。

 床だった雪原が壁になり、壁だった気候境界が天井になる。

 救護布に寝かされていた二人が、布ごと滑った。

「右へ!」

 誰かが叫ぶ。

「右は誰の!」

 マオの声が重なる。

「青旗側!」

 ドランが言い換えた。

 青旗側へ、三人が救護布の端を押さえる。

 ティアは逆側の支点へ双規刃を刺した。右膝で受けず、左足を一歩深く置く。

「布の角、四点確認!」

「三点!」

「四点目は」

「凍結して動かない!」

「動かないなら固定ではない。氷が割れたら消える!」

 ティアは規則円を広げかけ、止めた。

 全員を同じ条件へ入れれば、布を押さえる三人の足まで凍りつく。

「外周二名、膝を曲げられる?」

「できる!」

「内側一名、長い保持は」

「十五息!」

「では別条件。外周は滑り許可、内側は固定。互いを引かない!」

 左右非対称の円が光る。

 同じ場所を守るために、同じ動きをさせない規則。

 布が止まった。

「十五息で交替!」

 名もない生徒が名を名乗る。

「フィン、交替入る!」

「サラ、外周替わる!」

 名前は救助の速度を落とさない。

 むしろ、誰が次に疲れるかを速くする。

 大事故の記事では、名のある英雄だけが動く。

 現場では、名を呼ばれた普通の者が一拍ずつ世界を支える。