第90話 第九章「落下する庭園」後編
砂漠基盤から、冷却水を吸った砂塊が剥がれた。
家一軒ほどの大きさ。
今の下へ落ちれば、雷雲の避雷網を破る。
「カイル!」
反射的な声が飛ぶ。
王子の右籠手が光りかける。
カイルは左手で、それを押さえた。
「待機中だ」
「でもあれを!」
「盾を出せば熱源になる」
「じゃあどうする!」
「俺に聞くな。俺以外を見ろ」
待機とは、何もしないことではない。
自分ならできるという誘惑を、他人の案が生まれるまで止める行為である。
ロロが砂塊の軌道を見上げる。
「割るな! 細かくすると避雷網へ広がる!」
「受ける?」
「重すぎる!」
ドランが旗索の結び目を数えた。
「吊るすのではない。軌道を二星尺ずらすだけなら、索二本!」
「どこへ結ぶ」
「湿地の巨木根! あれは基盤へ三点固定!」
ハルが枝の上から叫ぶ。
「俺が索を回す!」
『肩三で走るのを止めると言った』
エリアの声。
「走らない! 投げる!」
「投擲も肩を使う!」とセレナ。
「腰で振る!」
「実演してから!」
「今が実演!」
「却下!」
ノクスが旗索を咥えた。
黒い身体が回転する枝を四足で渡る。飛ばない。跳ばない。一歩ずつ、爪を樹皮へ食い込ませる。
「ノクス、砂塊の横!」
二本の尾が別方向へ伸びる。
片方が嫌がっている。
「どっちが正解?」
「正解を聞くな!」とエリア。「匂いの情報を!」
ノクスが右尾側へくしゃみをした。
「右は焦げた絶縁材!」
「左は?」
鼻を鳴らす。
「水!」
「左へ索!」
ノクスは水の匂い側へ回り、旗索を巨木根へ通した。
ドラン、ロロ、普通科の三人が索を引く。
ハルは結び目が根を滑らないか、目で追う。
カイルは盾を出さず、落下線上の生徒を退避させる。
「引け!」
砂塊は落ちる。
索が張る。
止まらない。
だが二星尺、横へずれた。
避雷網の端をかすめ、何もない空へ落ちる。
「止めてない」とカイル。
「落ちる場所を変えた」とドラン。
「それで足りることもある」
カイルは右籠手から手を離した。
「待機、継続」
誰かが拍手しかけ、すぐ索を持ち直した。
称賛はあとでよい。
現場で両手を塞ぐ感情は、感謝ですら危険になる。
密林基盤では、逆さの池が天井に貼りついていた。
表面張力と気候膜で保たれている。
回転が次の角度へ入れば、一度に落ちる。
「水量、推定三百樽!」
「受けられない」とマオ。
「逃がす先は」とティア。
「氷原へ流せば加熱器が急冷破損。雷雲へ入れば放電。砂漠なら熱泥が増える」
「中央へは」
「いま一番駄目!」
ロロの声が裏返る。
四つの区画が中央へ捨てた結果が、今の落下である。
困ったものを中央へ渡すことは、解決に見える。
中央が見えない場所にあるからだ。
「分ける」
マオが言った。
「三百樽を?」
「一か所へ流すから危険。四方へ薄く」
「境界が全部反応する!」
「同時じゃなく、回転に合わせる。今の下へ少しずつ落とす」
彼女は池の縁にある散水孔を指す。
訓練用の人工雨設備。本来は密林へ雨を降らせる穴。
「孔が閉じてる」とロロ。
「正常?」
「人工夜だから閉じる。夜間散水禁止」
「また正常」
「言うな。腹が痛くなる」
「手動で開けられる?」
「四周。回転ごとに一周ずつ」
「私が固定する」
「脚は」
「五。立位保持十息」
「十息で一周は無理」
「一人でしない」
マオは四つの手動輪へ、それぞれ人を置いた。
力の強い者ではない。
今の重力方向で、踏ん張れる姿勢の者。
「開度は一目盛り。二にしない。善意で増やさない」
「足りなかったら」
「次の回転で増やす。今すぐ全部を良くしようとしない」
ティアが順番を読み上げる。
「砂漠側、開」
一筋の雨が、回転する砂へ落ちる。
蒸気。
「閉。氷原側、開」
水は薄霧になり、加熱器へ達する前に雪へ変わる。
「閉。雷雲側――」
「待って!」
エリアが線を消した。
「放電路が移動。今開けば避雷索へ直撃」
「空白時間は」
「九息後、四息」
「待つ」
マオの左脚が震える。
「固定を替わる」とティア。
「許可する。腰を持たないで、左肘」
「左肘を支える」
九息。
「今!」
雷雲側の水は、落ちずに細かな霧となり、電荷を表面へ散らした。
「密林外周、最後!」
残る水は、元の池へ戻る。
全部はなくならない。
なくす必要もない。
「三百樽を四つに分けた」とハル。
「違う」とマオ。「危険な時刻を四つに分けた」
量だけではなく、時間を割る。
事故の多くは、危険が多いから起きるのではない。
危険が同じ瞬間へ集まるから起きる。
雷雲基盤の外縁で、救難索が一本切れた。
切断音は小さかった。
大きな破局は、最初に小さな音を立てる。
索に結ばれていたのは三人。
一人目が避雷柱へ手を掛ける。
二人目が一人目の脚へ。
三人目は空中へ振られた。
「盾を!」
また声。
カイルは立つ。
今度は右籠手を押さえなかった。
「守る人数は」
自分へ問う。
「三人」
赤金の火が一瞬、灯る。
「待って!」
セレナが叫ぶ。
「第三者は救難灯に誓紋なし!」
三人目はハルだった。
誓紋を持たないため、遭難者の誓紋を拾う救難灯〈レスキュー・スター〉には映らない。
カイルの盾は、誓いの人数を曖昧にできない。
見えている二人だけを守ると誓えば、ハルを外す。
三人と誓っても、術式が三人目を認識できない可能性がある。
「名前で誓う!」
カイルは叫んだ。
「フィン、サラ、ハル!」
守る人数で燃える王盾〈レグルス・ガード〉が、壁ではなく三本の赤金索になった。
人数ではなく、名。
制度の灯が拾えない一人を、王子の記憶が拾う。
「掴め!」
ハルは赤金索を見た。
左肩では持てない。
右手は切れた救難索を掴んでいる。
「手が足りない!」
「口!」とロロ。
「熱い!」
「マフラーを巻け!」とエリア。
ハルは赤い布を歯へ巻き、赤金索を噛んだ。
「食うなよ!」
「食べない!」
「喋るな、落ちる!」
「どっち!」
三本の索が縮む。
カイルの右腕が震える。
「痛み」とセレナ。
「三!」
「上限」
「四!」
「あと二息!」
フィン、サラ、ハルが避雷柱へ戻る。
盾は消えた。
カイルは膝をつく。
「待機違反」と彼は自分で言った。
「救命使用、記録」とセレナ。
「境界熱は」
ロロが盤を見る。
「増加一。次の七十息は使うな」
「了解」
カイルは笑おうとし、肋骨を押さえた。
「名前を覚えていたのね」とエリア。
「王子だからな」
「王子は名簿ではない」
「では友人候補」
「候補にする前に本人へ聞いて」
フィンとサラが、息を切らしながら同時に言った。
「保留で!」
「二人ともか」
「王子の友人は面倒そう!」
「正しい判断だ」
笑いが、回転する庭園を一周した。
ロロは中央軸の模型を、工具箱の蓋へ描いた。
四つの円。
十二個の歯。
回転するたび、窓が合う場所だけを黒く塗る。
「完全停止が駄目な理由、もう一回」
ハルが聞く。
「慣性」
「難しい」
「走ってるお前の首だけ急に止めたらどうなる」
「身体が先へ行く」
「それが四区画で起きる。中央炉だけ止めたら、花弁は回り続ける。基盤環が首だ」
「じゃあ、ゆっくり」
「ゆっくりにするには、気候の流れを戻す。熱、水、湿度、電荷。四つが次へ渡れば、回転抵抗が均等になる」
「止めるんじゃなく、順番を戻す」
「そう」
「事故も?」
ロロの手が止まる。
「事故は戻らねえ」
「じゃあ何を」
「次の一枚が倒れないよう、どこへ立てるか決める」
単独犯のいない因果事故〈ドミノ〉。
倒れた札を元へ立てても、傷は消えない。
だが次の間隔は変えられる。
エリアが工具箱の図へ淡緑線を重ねた。
「三巡後の窓。報告をもう一度」
ハルは赤旗、青管、白い尾、焦げた弁を順に言う。
彼の言葉を、エリアが線にする。
線をロロが機械へ戻す。
機械の周期をドランが時間へ換える。
時間をオルトが役割へ分ける。
誰か一人の頭に、全体はない。
全体とは、違う欠け方をした情報を、互いに渡し続ける状態である。
四つの気候が回る。
砂漠の熱と雷雲の紫が重なり、空中に一瞬だけ透明な廊下が浮かんだ。
密林の枝。
雷雲の避雷索。
その間に、中央炉へ続く一本の保守路。
「見えた!」
ハルが叫ぶ。
「次に現れるのは」
エリアが息を呑む。
「百十六息後。六息だけ」
庭園は落ち続ける。
一本路だけが、まだ存在しない未来で彼らを待っていた。