第92話 第十章「四気候の一本路」後編

 最初の試行。

「赤旗先、通れる!」

 ハルの報告。

 エリアが線を伸ばす。

 だがロロが止めた。

「白紙! 砂漠弁、二歯早い!」

 全員停止。

 線を消す。

 二回目。

「青管、一人なら!」

 ティアが内周へ移る。

 マオが足場を固定。

「白紙!」

 ドランの旗索が湿って伸び、予定長を超えた。

「乾燥時の帳簿だった!」

「濡れた旗を数え直して!」

「重量が増えてる! 家紋刺繍が水を吸いすぎだ!」

「家紋、役に立たない!」

「さっき索になった!」

「今は重い!」

「貴族の歴史そのものだな」とカイル。

「殿下、あとで請求します!」

 三回目。

 ノクスの尾を目印に、避雷索へ線を通す。

「通れる!」

 ハルが一歩。

「白紙」とセレナ。

「なぜ!」

「あなたの呼吸が四」

「三!」

「返事まで二拍。四」

 ハルは反論しようとし、息が続かない。

「……白紙」

 戻る。

 右膝をつき、肩を下げる。

 失敗が三つ積み上がった。

 誰も責めない。

 失敗できる範囲とは、失敗しても痛くない範囲ではない。

 痛みを報告した者が、計画から永久に外されない範囲である。

「次は俺を外す?」

 ハルが聞く。

「外さない」とエリア。

「呼吸四」

「二十息休む。次の周期では観測点を一つ減らす」

「どこを」

「第二の枝。ノクスとピコが見る」

『ピ』

 ノクスは不満そうに尾を振った。

「機械鳥と組むの嫌?」

 鼻を鳴らす。

「ピコが嫌?」

 尾が二本とも上がる。

『ピィ!』

「相思相嫌だ」とロロ。

「仲が悪いってこと?」

「一緒に仕事できる程度にはな」

 四回目の周期が近づく。

 エリアは全員へ、最後の確認をした。

「地図は命令ではない」

「現場と往復する質問」とハル。

「古い線は」

「消す」と全員。

「白紙は」

「失敗じゃない。現条件で続行不能」

「帰路は」

「往路と同じ数だけ必要」

 エリアは息を吸う。

 胸の痛み三。踵三。まだ描ける。

「では、四回目」

「百息!」

 ドランの声。

「中央衝突まで百息! 旗索の耐荷重、残り九十七! なお三番結びは装飾なので信用するな!」

「装飾を外せ!」

「家紋刺繍だぞ!」

「命と家紋どっちが高い!」

「修繕費なら家紋!」

「ドラン!」

「命だ! 分かっている!」

 彼は自分で刺繍を切った。

 侯爵家の双獅子が、空へ散る。

 ロロが中央歯車へ補助腕を差し込む。

「周期、ずれ二歯! 砂漠弁が早い! 誰か、熱を七拍だけ受けろ!」

 カイルが立つ。

「俺の出番だな」

「痛み三」とセレナ。

「下がった。二」

「治療後、安静命令中」

「盾で止めない。位置を作るだけだ」

 カイルは右籠手を左拳で二度叩いた。

 赤金の盾が、今度は壁ではなく細い柱になった。

「守る人数は?」

 エリアが問う。

「庭園全員」

「広すぎる誓いは崩れる」

「では七人。中央炉へ行く七役」

「誰」

「走る者、描く者、直す者、数える者、記録する者、決める者、待てる者」

「最後はあなた?」

「今日はそうらしい」

 盾柱が砂漠基盤と中央軸の間へ立つ。

 熱を受け止めるのではない。七拍だけ、境界感知器へ「ここが固定点だ」と教える。

「七拍!」

 オルトが号令を重ねた。

「指定方向、盾柱! ユニゾン・ブレイス!」

 全員の足場が赤金の柱を基準に揃う。

「一!」

 ティアが右膝を曲げ、左側の足場だけを規則円へ入れる。

「同じ条件ではない。長い着地ができる者は外周。できない者は内周!」

「二!」

 マオが内周の濡れた板へ左足を置く。

「固定!」

 一息、板が滑らない。

「三!」

 ロロが砂漠弁を一歯戻す。

「四!」

 ドランが旗索を切り替える。

「五!」

 セレナがカイルを見る。

「痛み」

「二」

「真実」

「二・五」

「受理」

「六!」

 エリアは路図を伸ばす。

「ハル、今!」

『行く!』

「七!」

 号令が切れる。

 盾柱も消える。

 その瞬間だけ、雷雲と密林の間に保守路が並んだ。

 ハルが走る。

 一、二、三。

 赤いマフラーが紫の空を切る。

 避雷索へ足を置き、密林の枝を蹴り、氷壁の取っ手を掴む。左肩は使わない。右手、腰、足。配送の道は、荷物を落とさず自分も帰るための道だ。

「路面、報告!」

『一枚目、通れる! 二枚目、熱い! 三枚目――欠けた!』

 エリアは線を引き直す。

「欠けた場所の上か下」

『下は雷! 上は砂!』

「どちらが選べる」

『砂! でも目が見えない!』

「ノクス!」

 黒い夜獣が旗索を走り、尾の光を砂煙へ入れる。

『見えた!』

「私は道を命じない。次の足場を報告して」

『白い管、強度あり! その先、中央窓!』

「線を合わせる」

 エリアの淡緑光が、ハルの報告した白管へ沿う。

 地図が現場へ従う。

 その線を見て、他の者が足場を支える。

 現場がまた地図を更新する。

 道は一方通行の命令ではなく、往復する質問になった。

「中央窓、開かない!」

 ハルが叫ぶ。

「遠隔命令が優先してる!」

 ロロが盤面を見る。

「手動解除は二鍵! 外鍵と内鍵、同時!」

「外は誰が」

「ピコ!」

『ピ!?』

「お前が盗んだ割り留め、鍵溝に合う! 嘴で右へ!」

 ピコが飛ぶ。飛行禁止はまだ生きていたが、今の空路は人用翼具に雷が誘導される条件であり、小さな真鍮鳥には地上索がある。ロロが細線を結び、飛行ではなく吊走にした。

 ピコの嘴が外鍵へ刺さる。

「内鍵はハル!」

『どれ!』

「三つある。真ん中は罠」

『何で罠を付ける!』

「誤操作防止!」

『誤操作を誘ってる!』

「左! お前から見て左!」

 ハルが左鍵を掴む。

 鍵は、冷たいはずだった。

 中央炉の外皮は氷原系統へ熱を逃がし始め、表面計は青へ戻っている。だが、ハルの掌に触れた左鍵だけが、乾いた火傷のように熱い。

「左鍵、熱あり!」

『回すな』

 ロロの声が一段低くなる。

『鍵の根元、見えるか。色じゃなく形を言え』

 中央窓の内側は、煤と蒸気で半分隠れていた。

 新しい銀色の歯輪。その下に古い黒鉄の留め具。さらに奥、四本の細い導線が砂、氷、森、雷の刻印へ分かれている。

「新しい輪が一つ。古い留めが二つ。線は四本。左鍵の根元だけ、黒い板へ触ってる」

『黒い板の端』

「欠けてる」

『丸いか、焼けてるか』

「焼けてる。たぶん」

『たぶんを外せ』

 ハルは顔を近づけた。

 庭園が揺れ、上下が一度ほどける。耳の奥で、水の入った小瓶を振ったような音がした。左肩ではなく、方向を決める感覚の方が先に痛む。

「症状」とセレナ。

「向き四。肩三。視界は見える。でも、どっちが奥か一瞬分からない」

「一人で覗かない」とエリア。

 淡緑の線が中央窓の枠まで伸びた。線は内部へ入らない。見えていない場所を、彼女は描かなかった。

「窓枠の上に短線。下に長線。あなたの上下は、その二本で決めて」

「了解」

「手を離せますか」

「離したら落ちる」

「なら腰索を二点にする。誰か、彼の水平を作って」

 外周で待機していた普通科生が二人、索を取った。

 名を呼ばれる機会も、新聞に載る予定もない二人である。右索を一息だけ引き、左索を半息戻す。その小さな調整で、ハルの身体に仮の地平ができた。

「今、上は短線」と一人。

「下は長線」ともう一人。

「ありがとう。見える」

 ハルはもう一度、黒板の端を見た。

 溶けて丸まった縁。割れて鋭く立った箇所はない。焼けた、と言ってよい。

「訂正。欠けではない。熱で端が丸い。黒板から左鍵へ細い爪が出てる」

『遠隔優先の保持爪だ』とロロ。『命令線が死んでも、最後の状態を機械で掴んでる。鍵を回せば爪も外れる。ただし、先に回すと四本が同時に跳ねる』

「どうすれば」

『外鍵と同期。音で合わせる』

「時計じゃなく?」

『ここまで時計に振り回されて、まだ時計を信じるのか』

「時計は悪くない」

『悪くない物を、悪い条件で使うなって話だ!』

 ピコが外鍵を嘴で軽く叩いた。

『ピ。ピ、ピ』

「十二秒記録を出せる?」

『ピィ』

 機械鳥の胸から、さきほど試験した鍵音が再生される。

 軽い一音。半拍遅れて、奥の爪が外れる鈍い一音。

「二音目で回す」とハル。

『違う』とロロ。『二音目を聞いてからじゃ遅い。外鍵の軽い音がした時、内鍵へ力をかける。爪が外れるまで回し切るな』

「回すのに、回し切らない」

『開けるために、待ちながら動く』

「難しい言い方」

『難しい機械だ』

 ハルは指を掛け直す。

 力を入れる前に、左肩を下げ、腰索の張りを確かめる。外側の二人が、短線と長線をもう一度読み上げた。

 中央炉の窓には、誰が送ったか分からない命令の焼け跡がある。

 だが、いま必要なのは焼け跡へ名前を与えることではない。

 四本の線が同時に跳ねないよう、見える者、直す者、支える者の時刻を合わせることだった。

「待て」

 彼は回さなかった。

 以前なら、ここで先に動いた。

 目の前に答えがあれば、自分を最も安い代償として差し出した。

「全員、準備できてる?」

 通信へ問う。

 ロロ。

『砂漠弁、手動』

 ティア。

『氷原境界、別条件固定』

 マオ。

『密林水弁、足場固定』

 オルト。

『雷雲班、放電方向統一』

 ドラン。

『索、在庫、人数一致』

 セレナ。

『負傷限界、記録。カイル二・五、エリア三、ハル肩三』

 カイル。

『待機中。景気は悪い』

 リディア。

『訓練圏を中央炉の外周だけへ限定。失敗時の反動を一拍遅らせる。消しはしない』

 エリア。

「路図は未完成。現場更新を待てる」

 ハルは息を吸った。

「じゃあ、回す」

 内外の鍵が同時に動く。

 中央炉の表示が変わった。

『全区画同期』から。

『既定順次排出』へ。

 砂漠が熱を氷原へ渡す。

 氷原が冷気を密林へ。

 密林が湿度を雷雲へ。

 雷雲が余剰電荷を砂漠外周へ逃がす。

 四つの危険が、中央へ押しつけ合うのをやめた。

 互いの次へ渡し始めた。

 回転が遅くなる。

 基盤環が一つずつ噛み合う。

 砂漠は天井から斜面へ。

 氷原は壁から床へ。

 密林の根が下を向き。

 雷雲は再び空へ戻る。

 落下高度、残り百二十星尺。

 庭園が止まった。

 完全な静止ではない。

 学院下面の係留索へぶら下がり、ゆっくり揺れている。

 だが、落下は終わった。

「ハル」

 エリアは通信筒へ呼ぶ。

『いる』

「帰る道を描く」

『今度は完成させて』

「あなたが報告を続けるなら」

『続ける』

 淡緑の線が、中央炉から仲間たちのいる場所へ伸びた。

 一本路は、行くためだけではない。

 帰るためにも、同じ数だけ必要だった。