第102話 第三章「競技者でない救助者」後編
ネロの負傷は、右肘の捻挫と首の擦過傷。
骨折なし。呼吸障害なし。
マオの左股関節は炎症一。装具の内側に擦れ。
競技続行不可ではない。
だが医務診断より先に、採点板から彼女の名前が消えた。
『王立星航学院・地上関門走者』
『マオ・ケルン 競技路外侵入により資格停止』
「助けたから?」
観客席の子供が聞く。
隣の大人は答えに困った。
競技放送は言い換えた。
『救難行動へ移行したため、競技資格を終了します』
終了。
美しい言葉である。
失ったように聞こえない。
「第一条」
ティアは審判卓へ立った。
「救助開始時刻、本人要請、予測絞扼時刻、救難班到着予測、他走者停止状況を記録してください」
「記録済みです」
「第二条。資格停止の理由へ『救難行動』だけでなく、適用条文と、競技復帰手続きが存在しないことを記載してください」
「復帰手続きがないことは理由ではありません」
「結果へ影響した制度条件です」
「規則監督は、判定文の作成者ではない」
「異議提出者です」
「所属学院の利益相反」
「私の所属を異議書の冒頭へ書きます。判断は別の監督へ」
審判は口を閉じた。
ティアは勝とうとしていない。
マオの失格をなかったことにしようともしていない。
救助が成功したから規則違反を消せば、失敗した救助だけが重く処罰される。
彼女が求めたのは、何が起きたかを一語で丸めないことだった。
マオが医務椅子から言う。
「感動話にするな」
周囲の拍手が、少し止まる。
「私は助けた。聞いて、選んで、失格になった。ティアは止めて、条件を聞いて、失格にした。ネロは助けを頼んだ。ハルは入らず索を投げた。全部書け」
「書きます」とティア。
「あと、手すりを直せ」
「それは競技委員会へ」
「ロロが触る前に証拠保存」とセレナ。
「触らねえよ!」
ロロの四本の補助腕は、既に手すりの周囲へ保全柵を立てていた。
「囲うのは触るに入らない!」
「現場改変」とセレナ。
「二次落下防止!」
「設置時刻を記録」
「書けばいいんだろ!」
ピコが抜けた鋲を嘴へ入れた。
「お前は戻せ!」
鋲は破断していなかった。
固定穴から抜けた。
穴の縁には新しい擦れ。前夜の点検印あり。締付値は規定内。
「回転梁の振動で緩んだ?」とハル。
「それだけなら抜止め環が残る」とロロ。
「ない」
「最初から付いてないか、途中で外れた」
「誰かが?」
「まだ犯人の形にするな。部品表を見る」
ドランが購入台帳を持ってくる。
「抜止め環は全数購入済み。第四塔から第七塔まで百二十個」
「現物は?」
「点検記録では百二十」
「数えた人」
「競技連盟整備班」
「同じ班が購入と点検?」とセレナ。
「購入承認は別。受領と設置確認が同じ」
「領収光を使う」とドラン。
彼の右手から細い金光が伸びる。
自分が支払い処理へ関与した物資だけを追う術。
光は部品箱、塔の足場、回転梁へ分かれた。
「百十九」
「一個足りない?」
「違う。一個だけ光が薄い。購入品ではなく、旧在庫を混ぜている」
ロロが鋲穴の金属粉を取る。
「抜止め環は?」
「旧型なら爪が短い。振動で外れる」
「予算の付け替え?」
「可能性。まだ経路を追う」
この事故は、次の大きな事件へつながる証拠ではなかった。
少なくとも今は。
まず、目の前の手すりを直すための事実である。
物語は全てを伏線にしたがる。生活は、今日抜けた鋲を今日直さなければ明日また人を落とす。
午後の競技再開前、ハルは特別審査席へ呼ばれた。
「零星針を持参してください」
白手袋の審査官。
「何で?」
「資格審査の状態確認です」
「公開項目?」
「個別適性項目」
「何を測る?」
「緊急時における固有能力の反応」
「さっきの救助で?」
「競技環境下の出来事は、総合的に評価されます」
「俺は索を投げただけ」
「零星針は反応しましたか」
ハルは配達鞄へ手を置いた。
救助中、一度だけ羅針盤の蓋が熱を持った。
マオではない。
抜けた鋲でもない。
何かが失われた、と針が小さく身じろぎした。
「少し」
「開きましたか」
「開いてない」
「今、確認します」
「確認すると何が分かる?」
「出力残留」
「資格の何に使う?」
審査官は同じ言葉を繰り返す。
「個別適性項目です」
「項目名は?」
「非公開です」
「じゃあ渡さない」
「審査拒否として記録される可能性があります」
「可能性じゃなく、規則番号」
ティアが隣へ来た。
「個別適性審査を競技中に追加する場合、本人への目的説明と拒否時の不利益通知が必要です。文書を」
「あなたは対象者ではない」
「規則監督です」
「競技資格へ関わるため利益相反が――」
「同じ文を何度使っても、権限は増えません」
セレナも来る。
「星律官として、測定対象、保管期間、閲覧者、資格判定との関係を確認します」
白手袋の審査官は三人を見る。
「本日は測定を見送ります」
「理由」とセレナ。
「競技進行を優先」
「目的説明の不足ではなく?」
「回答は後日」
審査官は席へ戻る。
灰黒い帳面が一瞬開いた。
セレナの左眼では文字を追えない距離。
ティアの位置からは表紙しか見えない。
ハルは数字を読むのが遅い。
だがピコが審査席の梁へ止まっていた。
青い観測眼が、十二秒だけ開く。
『ピ』
ロロが遠くで頭を抱えた。
「戻れ! それは正式な証拠採取じゃねえ!」
ピコは戻らない。
嘴へ小さな金具を一個くわえている。
帳面の文字は撮れたかもしれない。
撮れていないかもしれない。
無断観測は証拠採用できない可能性が高い。
それでも審査官は、帳面を素早く閉じた。
その動きだけは、全員が見た。
競技再開の鐘が鳴る前、リディアはハルを呼んだ。
「確認します。今日の救助で、あなたは競技区域へ入りませんでした」
「索は投げた」
「観戦区域からの救難補助。資格停止には当たりません」
「次、入ったら?」
「白環杯の競技者資格を失う可能性がある」
「正式学生も?」
「完走条件を満たせなくなる」
「救助しても?」
「現行規則では」
「またそれだ」
「私が勝手に変えると、あなたの功績のため資格を曲げたことになります」
「曲げないで助ける方法は?」
「事前に規則を変える。救助後の復帰手続きを作る。役割を分ける。競技を停止する。いくつかあります」
「事故は待つ?」
「待ちません」
「じゃあ間に合わなかったら」
リディアは二つの時計を見なかった。
「あなたは選ぶでしょう」
「資格より人を?」
「私が答えを決めません」
「学院長なら、止めてくれない?」
「止められる範囲では止めます。届かない場所へ行く可能性も考えます」
「その時は?」
「選んだ結果を、英雄談にも違反一語にも縮めません」
ハルは羅針盤の蓋を一度弾いた。
二度。
三度。
四度目は止めた。
「助けたら資格を失うかもしれない」
「はい」
「助けなかったら、資格が残るかもしれない」
「はい」
「嫌な試験だ」
「だから試験の方も審査されるべきです」
リディアはハルだけを測っていない。
学院も、競技も、自分の判断も、同じ日に測られる側へ置いた。
夕方。
マオは左脚へ冷却布を巻き、採点板の下でネロと話していた。
「ありがとう」とネロ。
「先に用件」
「用件がありがとう」
「じゃあ受理」
「失格にして、ごめん」
「あなたがしたんじゃない」
「助けを頼んだ」
「私が選んだ」
「でも」
「借りにするなら、次に誰かが助けを聞いた時、勝手に抱えない。何ができるか聞く」
「分かった」
「あと手すり点検の証言」
「する」
「それで半分」
「残り半分は?」
「私の次の競技で、勝手に譲るな」
ネロは少し笑った。
「分かった」
マオも笑いかけ、痛みで眉を寄せた。
「痛み」とティア。
「一」
「先ほど二」
「冷やした」
「歩行は」
「できる。競技は終わった」
「救助者資格は終わっていません。医務室まで同行を」
「介助?」
「提案」
「何をする」
「荷物を持つ」
「身体は触らない?」
「はい」
「受理」
ティアはマオの工具袋を持った。
重い。
想像よりずっと重い。
「重い?」
「重量は十二・四」
「感想」
「重いです」
「それも受理」
二人は並んで歩く。
採点板では、マオの名が灰色になっている。
灰色は、存在しない色ではない。
競技者でなくなった後も、彼女は歩き、怒り、次の条件を決める。
審査席の帳面では、別の数字が書き足された。
『救難刺激、段階二』
『対象・凪野ハル』
『零星針反応――微弱。開放なし』
救助したマオの名は、その欄にない。
助けられたネロの名もない。
彼らの出来事が、別の少年の能力を測る刺激として数えられている。
ティアはまだ中身を知らない。
だが灰黒い帳面が、救助の後にだけ開かれた時刻を記録した。
規則の目的は、規則の文章だけには書かれない。
誰がいつ帳面を開くかにも、目的は漏れる。
====================================