第101話 第三章「競技者でない救助者」前編

資格とは、何かをしてよいという許可である。

 失格とは、その許可を失うことである。

 言葉だけ見れば簡単だ。

 ところが現実では、何をした者から何をする許可を奪うのか、その順番に政治が潜む。

 競技路を外れた者から、競技を続ける資格を奪う。

 これは分かりやすい。

 人を助けるため競技路を外れた者からも、同じ資格を奪う。

 これも文章だけなら分かりやすい。

 分かりやすさは、公平の親戚ではない。

 ときどき、責任から遠い場所へ住む隣人である。

 予選翌日の午前、白環杯では地上関門競技が行われた。

 地上と呼んでも、場所は空中である。

 環嵐塔十二基の間へ細い足場、揺れる網、回転する梯子、艇が触れる接舷板をつなぎ、各学院の走者が安全札と航路符を運ぶ。

 競技艇は環内を一周する。

 地上走者は塔間を移動する。

 両者が同じ時刻に同じ関門へ着き、札を交換して初めて得点になる。

 飛ぶ者と歩く者が、互いを待たなければ勝てない競技。

 建前は美しい。

 建物は階段だらけだった。

「第一条。介助は本人の要請、明白な意識喪失、または即時生命危険がある場合に行う」

 ティアはスタート前の規則確認を読み上げた。

 今日はゼロスター号の乗員ではない。

 規則監督として、環嵐塔第四から第七までの地上区間を担当する。双規刃は腰。白い臨時札は胸。

「第二条。走者が他者の競技路へ入った場合、接触の有無にかかわらず所属競技資格を停止する」

 マオが手を上げる。

「質問」

「どうぞ、ケルン生」

「助けるためでも?」

「例外条項はありません」

「助けた後、戻れるなら?」

「競技路へ戻っても資格は戻りません」

「誰を守る規則?」

「複数走者の衝突防止。競技者を装った妨害の防止。救助を理由に有利な関門へ移る不正の防止」

「全部、人を助けない時の話」

「助ける時にも同じ動きが起きます」

「だから同じ結果?」

「現行規則では」

「ティアはそう思う?」

 他校の走者たちが見る。

 規則監督へ、規則ではなく本人の考えを聞く。

 ティアはすぐ答えなかった。

 自分の意見を公式説明へ混ぜれば、反対意見の入口を狭くする。だが公式文を読むだけなら、目の前の疑問を紙へ押し戻す。

「私は、救助者の資格停止と、競技へ戻すかの判断を分ける手続きが必要だと考えます」

「今はない」

「ありません」

「じゃあ今日は?」

「現行規則を適用します。異議と結果を記録します」

「助けたら失格にする?」

「はい」

「分かった」

 マオは怒らなかった。

 装具の留め具を一度だけ締めた。

「先に聞いた。だから私が選ぶ」

 ティアの胸元で、臨時札が急に重くなった。

 規則を説明することは、同意を得ることではない。

 だが説明されなければ、選択すら奪われる。

 マオの出発位置は第四塔下段。

 左脚の装具に合わせ、彼女は高い吊橋ではなく、低い保守梁を選んだ。距離は一・三倍。段差は少ない。公式地図には「補助路」と記され、通過時間の基準は高路と同じだった。

「また同じ時間」とハル。

 観戦足場から地図を覗く。

「落第門の外壁試験で直したのは学院内試験」とエリア。「競技連盟の規則は別」

「別だと昔の間違いが生き残る?」

「別だから、自動では直らない」

「制度って、離れた島みたいだな」

「橋を作らなければ」

「誰が?」

「今見ている人」

 ハルは答えず、下段梁へ目を向けた。

 マオは低い。

 他の走者より半身低い位置を、装具の金属音を一定に響かせて進む。左足を置く前に足裏で傾斜を測り、右手で黄色い安全札を胸へ固定する。

 高路の走者たちは速い。

 翼を短く開き、橋の切れ目を飛ぶ。

 マオは飛ばない。

 飛べないからではない。

 短距離滑空はできる。だが着地の衝撃が左股関節へ残る。十二関門を通る競技で一度の見栄を買えば、後半の歩幅を売ることになる。

「第四塔、通過!」

 彼女の声が通信鏡から届く。

「痛み」とティア。

『零。装具ずれなし。次、低路』

「受理」

 オルトは監督台から全走者の位置を読む。

「高路二名、低路一名。第五塔接舷、四十息。今は各路を維持」

「復唱、高路維持!」

「低路維持!」

 号令は一つではない。

 役割ごとに短い。

 嵐庭園の事故で、全員を同じ向きへ揃えるだけでは救えないと知った後の号令だった。

 事故は、劇的な音を選ばなかった。

 金属の短い咳。

 星岬学院の高路走者が掴んだ手すりの根元で、留め鋲が一本抜けた。

 前日の予選で右肘を痛めた、あの走者だった。

 今日も出場している。医務許可は左腕主体、右肘の頭上動作禁止。

 彼は左手で手すりを掴んでいた。

 鋲が抜け、手すりごと外れた。

 身体が橋の外へ振られる。

 安全索が張る。

 切れない。

 だから安全に見えた。

 次の瞬間、索の支点が回転梁へ巻き込まれた。

「停止!」

 ティアの声とオルトの声が重なる。

 回転梁は競技結界の周期で動き続ける。

 索が一巻き、二巻き。

 走者の身体が梁へ引き寄せられる。

 右肘が不自然に上がる。

「高路全員停止! 第五塔、赤鐘!」

 ティアが救難鐘を叩く。

 赤い音が白環へ走る。

 高路の後続走者は止まった。

 前方の走者は振り返るが、距離がある。

 低路のマオは、真下にいた。

「マオ、維持!」とオルト。

 規則では、低路走者は自分の路を維持する。

 救難班が第五塔から向かう。到着予測二十八息。

 索が三巻き。

 星岬の走者が声を上げる。

「右腕、動かない!」

 マオは上を見る。

「息できる?」

「できる! でも索が首へ上がる!」

「自分で切れる?」

「左手が届かない!」

「触っていい?」

「早く!」

 答えを聞いた。

 マオは走った。

「ケルン生、競技路維持!」

 ティアは命令した。

 その声を出した自分の喉が、過去の訓練場と同じ形をしていた。

 十二歳の時。

 隊列を破って一人を助けようとし、別の生徒を混乱へ巻き込んだ。

 善意の例外が、見えていない場所の事故を増やす。

 だから止める。

 だが今、見えていない者はいない。

 高路は停止した。

 低路も後続なし。

 救難班は二十八息。

 索は五息ごとに一巻き。

「条件変更!」とマオ。

 彼女は通信へ怒鳴った。

「低路後続なし! 高路停止! 本人要請あり! 救難二十八、首まで十!」

 情報を返した。

 命令へ反抗しただけではない。

「オルト先生!」

 ティアは判断を求める。

 オルトの右眼が距離を測る。

「救難班、間に合わない」

「ケルン生を救助者へ変更する場合、競技資格停止」

「現行規則だ」

「私は規則監督です」

「なら適用しろ」

 冷たい言葉ではない。

 役割を分けた。

 オルトは救助を決める。

 ティアは、その救助が規則上何を失わせるかを隠さない。

「マオ・ケルン!」

 ティアは姓ではなく名を呼んだ。

「救助行動を認定します。高路へ入った時点で競技資格は停止。救助者としての権限へ移る。聞こえましたか」

『聞いた!』

「救助を継続しますか」

『する!』

「受理!」

 マオは低路の欄干へ左足を置く。

 高路まで高さ七歩。

 直上ではない。回転梁が横へ運ぶため、二歩先を狙う。

「滑空一回! 着地は右!」

 自分の条件を通信する。

 足裏の摩擦が黄光へ変わる。

「固定!」

 低路を蹴る。

 小さな身体が白い風へ投げ出された。

 左脚は畳む。

 右足で高路の裏へ触れる。

 一瞬だけ、そこを地面にする。

 アンカー・ステップ。

 固定できるのは足裏の摩擦だけだ。空中を止める術ではない。触れる場所、角度、本人の重心が間違えば、固定した足首を残して身体だけ落ちる。

「右足固定! 一回目!」

 マオは身体を梁の裏へ張り付けた。

 星岬の走者は二歩上。

 索が首の横まで上がっている。

「名前!」

「今?」

「呼ぶから!」

「ネロ!」

 この大会限りの競技者にも、名前はある。

 使い切る役割ではなく、今ここで呼ぶための名前だった。

「ネロ、左手で胸札を掴め! 身体を下げる!」

「右が!」

「使わない! 左だけ!」

 ネロが胸札を掴む。

 マオは右手で救難刃を抜いた。

 左手は梁。

 刃を索へ当てる。

「切ったら落ちる!」

「補助索を先!」

 腰の短索を投げる。

 距離が足りない。

「ハル!」

 ロロが叫ぶより早く、ハルは観戦足場の縁へいた。

「行ける?」とエリア。

「索なら!」

「競技者区域へ入れば、あなたも予選資格に影響する」

 ティアの声。

 ハルは腰索を取る。

 リディアの医務条件。

 次の完走審査。

 正式学生。

 全部、一息だけ頭へ入る。

 マオが怒鳴った。

「来るな!」

「届かない!」

「投げろ! 入るな!」

 助けを拒んだのではない。

 役割を指定した。

 ハルは観戦足場から救難索を投げる。

 右手。

 左肩を上げない。

 腰を回す。

 索端がマオの左肩を越える。

「遠い!」

「二歩!」

「私の二歩?」

「俺の!」

「長い!」

 マオは固定した右足を支点に身体を伸ばす。

 左手が索端を掴む。

「取った!」

 ハルは巻き柱へ索を掛ける。

「支点できた!」

 マオが補助索をネロの腰へ通す。

「切る! 首を下げて!」

 救難刃が競技索を断つ。

 ネロの身体が落ちる。

 ハルの索が張る。

 左肩では持たない。両足と腰で受ける。

 観戦足場の柱が軋む。

「荷重二人!」とハル。

「三十息以内!」とリディア。

「救難班到着まで十二!」とオルト。

 マオはネロの身体を梁から離し、索へ預ける。

「右腕、触る!」

「いい!」

「肩じゃなく胴を持つ!」

「分かった!」

 回転梁が二人の背後を通過する。

 外れた手すりが白い嵐へ吸われた。

 救難班の担架索が下から上がる。

「引継ぎ!」

 マオはネロを担架へ載せる。

 自分は高路の裏に残る。

「マオ、戻れる?」とハル。

「右足固定、あと一回。低路へ降りる」

「手伝い」

「索を張れ。引くな。私が動く」

「受理」

 彼女は自分の速度で戻った。

 低路へ右足。

 固定。

 左脚の装具を遅れて置く。

 着地の瞬間、顔が歪む。

「痛み」とティア。

「二」

「継続は」

「競技はもう停止なんだろ」

 マオは黄色い安全札を見る。

「救助者としては?」

「医務確認まで待機」

「受理」

 言葉は硬い。

 呼吸は速い。

 ティアは臨時札を握らなかった。

 握れば規則の責任を自分一人へ集めてしまう気がした。