第100話 第二章「三次元の予選路」後編
予選第一周の後半、最外周レーンは予定より不安定になった。
白い風が帯ではなく塊で来る。
競技門の警告板には『三分平均 安全』。その隣へ嵐庭園事故後に追加された『現在風 強』の赤札が点滅していた。
「両方正しい」とハル。
「時間が違う」とロロ。
「どっちを信じる?」
「今走ってるなら今!」
星岬艇が前方で大きく傾く。
薄翼の一枚が風塊に巻かれ、青い火花を散らす。
公式航路は白い矢印で、風塊の中央をまっすぐ抜ける線を示していた。
その少し下――今の船体では左舷下方――に、古い黄色灯が三つ並ぶ。
救難艇が白環へ入るための旧灯。競技地図では『非競技設備』として灰色に消されている。
「黄色側、風が薄い!」とハル。
「測れる?」とエリア。
ロロが風計を伸ばす。
「現在十八! 公式線三十一!」
「黄色灯はコース外」とティア。
「禁止?」
「白環内ではある。規定航路点を失う可能性」
「安全?」
「公式線より高い」
「行く」とカイル。
「船長権限?」とティア。
「操舵判断。異議は」
「なし。ただし理由を全通信へ」
カイルは競技通信を開く。
「ゼロスター号、旧救難灯側へ迂回。現在風十八、公式線三十一。衝突回避のため外下方へ移る」
審判から即答。
『規定航路を維持せよ。旧救難灯は競技路外』
「危険流三十一」とエリア。
『警告値は上限内』
「船体許容は二十八!」とロロ。
『艇ごとの性能差は競技者判断』
「だから判断した!」
ゼロスター号は黄色灯へ舵を切った。
公式線から外れた瞬間、船腹の採点札が青から黄へ変わる。
『規定航路 減点判定中』
「安全な方で減点」とハル。
「規則の目的と採点の目的がずれている」とティア。
「直す?」
「競技中は記録。今ここで私が採点規則を変えれば、所属艇だけを利する」
「でも危ない」
「だから全艇へ測定値を送る」
ティアは規則監督通信を開いた。
「外周七番。公式線現在風三十一、旧救難灯側十八。測定者ロロ・ピクス、時刻七時四十六分十二秒。各艇は自艇条件で選択してください」
星岬艇が一拍迷い、ゼロスター号の後へ来る。
北鐘艇は公式線を維持する。箱型船体なら三十一に耐えられる。どちらも間違いではない。
黄色灯の周囲は、風が落ち着いていた。
「何でここだけ」とハル。
「救難灯の基部に古い風抜き孔がある」とロロ。「競技環を作る前から使ってた。救難艇がいつでも入れるよう、局所の圧を逃がす」
「昔の道の方が安全?」
「昔の目的が救助だったから」とエリア。
「今の目的は?」
「競技」
「競技の目的は?」
誰もすぐ答えなかった。
速さ。
教育。
名誉。
観客。
資格。
利益。
適性測定。
一つの行事は、参加者の数だけ目的を持つ。
問題は多いことではない。誰の目的だけが採点欄に印刷されているかである。
赤関門は環嵐塔の外側にあった。
予選艇は一度白環を出て、塔の足場へ船腹を接触させる。地上関門走者が安全札を受け取り、再び船へ戻せば第一周完了。
マオが待っている。
ゼロスター号が足場へ横付けした瞬間、彼女は左足を低い手すりへ置いた。
「接触角二十! あと半歩!」
「半歩って船で?」とカイル。
「私の歩幅!」
「四十二センチ!」とロロ。
「単位を統一して!」とエリア。
「四十センチ寄せる!」
「二センチどこ行った!」
「波で消えた!」
船腹が緩衝布へ触れる。
マオは跳ばない。
装具の左足を手すりへ固定し、右足で船縁を踏む。足裏の摩擦を一瞬だけ固定する術〈アンカー・ステップ〉が黄い光を散らし、揺れる二つの足場の間へ彼女だけの地面を作った。
安全札を受け取る。
「札一。艇体損傷なし。走者条件――」
彼女はハルの顔を見る。
「吐き気?」
「一」
「肩」
「零」
「先に言え」
「戻ってから言った」
「私にじゃない」
「次は通信する」
「受理」
マオが船へ乗る前に、星岬艇が隣の足場へ来た。
その船体は薄翼一枚が裂け、若い艇外走者が右腕を押さえている。
「平気?」
ハルが聞く。
「聞く相手は本人」とマオ。
彼女は隣艇の走者へ声を飛ばす。
「右腕、使える?」
「指は。肘が上がらない」
「安全札、取れる?」
「取る」
「介助は?」
「今は要らない」
「分かった」
マオは手を出さない。
見捨てたのではない。
本人がまだできると言った役割を奪わない。
隣の走者は左手で札を受け取った。
痛みに顔をしかめるが、自分で戻る。
ハルは何も言わず、その動きを見た。
助けることは、相手より先に正解を決めることではない。
だが「要らない」と言われたから、二度と見なくてよいわけでもない。
その境界は、採点表より細かった。
第二周。
白環の風向きが逆転する。
同じ道を戻るのではない。第一周で床だった内壁が天井になり、黄色救難灯は船体の反対側へ移る。
エリアの透明板には、第一周の線が残っている。
彼女はその上へ第二周を重ねた。
「同じ場所なのに違う」とハル。
「時刻が違う」
「地図を毎回描き直す?」
「残して重ねる。消すと変化が見えない」
「線が多すぎない?」
「だから透明板を分ける」
「俺には糸玉」
「走者向け表示を出す。白短線は足場、緑丸は報告点、赤斜線は旧情報」
「旧情報も見せる?」
「古いと分かる形で。隠すより安全」
光の地図が船腹へ走る。
ハルは外へ出ず、甲板から報告する。
吐き気条件で艇外活動は休止中。走りたい気持ちはある。走れることと、走る役割を持つことは別だった。
「右前、白流。さっきより低い」
「数字」とエリア。
「見た目で三歩」
「風計二十二」とロロ。
「受理、線を二歩上げる」
北鐘艇が前へ出る。
耐風船体で逆流を正面から割る。
「追える」とカイル。
「左帆が持たない」とロロ。
「差は」
「七息」
「七なら」
「失う帆一枚!」
「高い?」とハル。
「お前の参加費三十人分!」
「高い」
「値段で納得すんな!」
ゼロスター号は追わない。
速度を落とし、風が抜ける周期を待つ。
星岬艇が外側を追い越す。
裂けた薄翼を一本畳み、左右非対称のまま走っている。
彼らは速さを捨てていない。
ゼロスター号も捨てたわけではない。
今使える船で、帰れる範囲の速さを選んだ。
予選終了鐘が鳴った時、順位は三艇中二位。
全体十二艇中六位。
完走。
関門通過、満点。
艇体維持、満点。
規定航路。
十二点減点。
「十二?」
ハルは採点板を見上げた。
『旧救難灯経由 規則外航行』
『競技布の補助帆使用 未承認操作』
「衝突回避と危険流回避」とティア。
「安全上の理由は認定」と審判。
「認定した上で減点?」
「規定航路点は、規定どおり走ったかを測る項目です」
「安全だったかは別?」とハル。
「別項目です」
「どこにある?」
「失格回避と資格審査へ反映されます」
「採点板にはない」
「はい」
審判は悪びれなかった。
規則どおりに答えている。
正しい答えが問題を解決しない時、問いの置き場所が間違っていることがある。
「予選通過は」とエリア。
「総合六位。上位八艇として通過」
「減点があと四あれば?」
「敗者復活戦」
「救難灯を使わなければ、船体許容を三超過した」とロロ。
「結果として通れた」と審判。
「結果が良ければ危険だった道も正解?」
「競技結果については」
「質問を変えます」とティア。「規定航路点は、競技の何を測るための点ですか」
審判は冊子をめくる。
「公表された航路を正確に遂行する能力」
「公表航路が現在条件に合わない場合、訂正を返す能力はどこで測りますか」
「航路判断点はありません。今年度から規定航路点へ統合されました」
「統合理由」
「採点の簡素化」
「簡単になったのは採点者ですか、競技者ですか」
「規則監督の質問範囲を越えています」
「目的確認です」
「後日、文書で」
ティアは反論を続けず、回答期限を記した。
マオが採点板の下へ立つ。
「安全な道を選んで、規則どおり減点」
「そうなる」とハル。
「じゃあ次は、危ない道を選べば合格に近い」
「そうなる」
「その規則、誰の行動を作る?」
ハルは採点板を見た。
数字は過去の行動を測る。
同時に、次の行動を作る。
減点は罰である前に、未来への命令だった。
審査席の灰黒い帳面には、公開板とは別の数字が一つ記された。
『対象・凪野ハル』
『外周危険流、段階一』
『救難灯選択時、零星針反応――微弱』
白手袋の特別審査官は、数字の横へ短い線を引く。
ハルは帳面を見ていない。
セレナも中身までは見ていない。
ノクスだけが審査席へ顔を向け、二本の尾を低く伏せた。
予選を通過した鐘が鳴る。
勝ち残った者たちは歓声を上げた。
採点表の外で測られたものは、音を立てなかった。