第99話 第二章「三次元の予選路」前編

地図は、上から見た世界だと思われている。

 これは地面が下にある世界の偏見である。

 空に島が浮き、船が壁を走り、落下が曲がるアステリアでは、上から見た地図はしばしば横から見た嘘になる。道は紙の左右だけでなく、表と裏、手前と奥、重い方と軽い方へ分かれる。

 飛行艇乗りが「三次元航路」と呼ぶものを、地上の人間が見れば、線ではなく結び損ねた糸玉に見えただろう。

 だが糸玉にも順番がある。

 入口から入る。

 出口へ出る。

 途中で結び目に首を突っ込まない。

 予選の役目は、競技者がその程度の常識を持つか確かめることであった。

 白環杯における常識は、雷の中で帆を畳み、船体を横倒しにし、風の壁へ車輪を押しつける程度のことである。

「予選第一周。外周七番。関門は白、青、赤の順。白は帆走、青は艇外操作、赤は環嵐塔接触。順番を違えれば失格。復唱」

 オルトが桟橋で右拳を上げた。

「白、青、赤」とハル。

「色だけでなく役割」とティア。

「帆、外、塔」

「誰が」

「帆はカイルとエリア、外は俺、塔はマオ」

「機関は?」とロロ。

「怒る人」

「役割で呼べ!」

「ロロ、機関。ティア、規則と副操舵。ノクス、船首。ピコ、盗むな」

『ピ』

「最後は命令だ!」

 オルトは一人ずつ見た。

「身体条件」

 ハルが左肩を回さず答える。

「痛み零。頭上三十息。急旋回後、吐き気二で交代」

「エリア」

「呼吸零。路図連続展開は百二十息で一度停止。踵痛二で申告」

「カイル」

「肋部一。右腕一。盾は半出力六息、再使用三十息」

「ロロ」

「咳零。右目は度入り。高音警報は聞き落とすから光で返せ」

「ティア」

「右膝一。長い着地なし。規則円は使用予定なし」

「ノクス」

「ナァ」

「通訳」とオルト。

「首輪を要求した係員への敵意二」とハル。

「推定を条件表へ入れるな」とセレナ。

 外部監督席から即座に声が飛ぶ。

 ノクスは二本尾で、係員と干し魚袋を交互に指した。

「干し魚一袋で敵意一に下がる」とカイル。

「贈賄です」とセレナ。

「競技者でない乗員への給餌だ」

「契約成立前に食べています」

 ノクスは既に袋の半分へ顔を入れていた。

 オルトが咳払いする。

「事故時。最初の号令は私が出す。二つ目から現場条件を返せ。復唱」

「最初は一つ、次から返す」

「撤退は敗北ではない」

「帰るための航路」とエリア。

「よし」

 号鐘台の赤旗が上がった。

 十二艇の帆が一斉に張る。

 競技場の音が変わった。

 人の歓声から、風の機械音へ。

『予選第一組、発艇十息前』

 ゼロスター号の左舷には星岬学院の細長い青艇。船首が鳥の嘴のように尖り、左右へ三枚ずつ薄翼を持つ。

 右舷には北鐘学院の黒い箱型艇。速さより耐風性を売りにし、船腹へ鐘形の重りを並べている。

 外周七番は三艇同時発艇だった。

 抽選と呼ばれた特別球の結果、ゼロスター号だけ開始線が半艇身後ろへ置かれている。

「適応評価」とティア。

「言い換えると?」とハル。

「不利から始めた時の反応を見る」

「最初から言えばいいのに」

「言えば同意が必要になるからでしょうね」

「それ、規則監督が言っていい?」

「仮説です。記録してください」

 セレナの証羽が黒く光る。

『五』

 カイルが舵輪を左手で握った。

 本来の利き手。右の盾籠手は封印布のまま腰へ固定している。

『四』

 エリアは地図槍グリムリリーを細い筆形へ戻し、透明板の第一層へ外周風を書き込む。

『三』

 ハルは腰索を船腹へ留め、右の靴紐を締め直した。

「一、二――」

「まだ三です」とティア。

「俺の数」

「競技数と混ぜないで」

『二』

 ロロの四本の補助腕が帆骨、風計、圧力弁、ピコを掴む。

『一』

 ノクスが船首へ爪を立てる。

『発艇!』

 白い嵐が、三隻を飲み込んだ。

 空気が壁になった。

 ゼロスター号の船首が右へ弾かれる。右ではない。今までの下が右へ倒れたのだ。

 船体側面の競技輪が雲壁へ接し、火花ではなく白い水光を引く。

「接壁!」とロロ。

「傾斜二十八、許容!」とティア。

「外周風、予報より六強い!」

 エリアが透明板へ線を足す。

「ハル、船首七歩先、青い継ぎ目!」

「見えた!」

「右足で踏まない!」

「何で!」

「そこだけ壁じゃない!」

 ハルは走り出していた。

 甲板が床から壁へ変わる。腰索が横へ引かれる。赤いマフラーは上ではなく船尾へ流れた。

 七歩先、白い雲壁の中に青い縫い目。競技結界の継ぎ目で、風圧が一瞬抜ける。

 踏めば落ちる。

 落ちる先は下ではない。環の中央へ向かう横穴だった。

 ハルは左足で手すりを蹴り、継ぎ目を跨ぐ。

「通過!」

「返して!」とエリア。

「幅一歩半! 手前ぬるい、奥が冷たい! 風は下――いや、船尾側へ吸う!」

「受理。線を曲げる!」

 淡緑の光路が甲板から雲壁へ伸び、次の安全な足場を示す。

 地図は命令ではない。

 ハルが見た現場を受け取り、次の一歩へ返す会話だった。

 星岬学院艇が外側から抜く。

 薄翼を鳥のように畳み、継ぎ目の上を跳ねる。

「速い!」

「見れば分かる!」とロロ。「追うな、帆圧が違う!」

 北鐘学院艇は内側へ寄せ、鐘重りで姿勢を保つ。遅いが揺れない。

「どっちを真似る?」とハル。

「真似ない」とエリア。「ゼロスター号の重さと傷で走る」

「傷まで性能?」

「左帆の焦げ補修は伸び率が低い。急加速では右へ寄る。欠点を隠すより、曲がる量へ入れる」

「船も申告するんだな」

「人より正直だ」とロロ。

 白関門が近づく。

 巨大な白枠が環内壁へ浮かび、通過艇の帆へ一時だけ同じ面積制限を課す。

「帆面積六割!」とティア。

 カイルが舵を切る。

「ロロ、畳め!」

「命令する前にもう畳んでる!」

 四本の補助腕が左右の帆骨を引く。

 右帆が一段、左帆が半拍遅れて折れる。

 船体が減速する。

 後ろから風の塊が追いつく。

「押される!」

「押させろ!」とカイル。「速度を捨てるな!」

「壁面角三十五!」

「許容四十!」

 ゼロスター号は横倒しのまま白関門へ入り、追い風に押し出される。

 北鐘艇の船腹と一歩差。

 ハルは船縁へ足を掛けた。

「ぶつかる!」

「ぶつけるな!」とロロ。

「何する気だ!」とカイル。

「押し返す!」

「船を足で押すな!」

 ハルは北鐘艇ではなく、二隻の間へ垂れた競技布を蹴った。

 布が風を受け、即席の小帆になる。

 ゼロスター号の船首が半歩だけ外へ逃げる。

 船腹同士が触れずにすれ違った。

「今の何点?」

「規定外帆使用で減点候補!」とティア。

「衝突回避は?」

「安全行動!」

「足すと?」

「審判判断!」

「答えになってない!」

「競技規則は算数ではありません!」

 青関門は、船を通す門ではなかった。

 環内壁へ並ぶ三つの青い操作輪。

 艇外走者が船を離れ、一番外の輪を一周させなければ次の風門が開かない。

「ハル、艇外!」

 腰索を二重確認。

 左肩を下げる。

「一、二、三!」

 ハルは雲壁へ飛んだ。

 足裏が白い風へ沈む。

 風は固体ではない。だが競技結界が圧力面を作り、走者の靴底へ一息だけ足場を返す。止まれば沈む。走れば乗れる。

 白い壁を横へ走る。

 下は環中央。上も環中央。方向は速度が決める。

「輪まで十二歩!」とエリア。

「十一!」

「地図では十二!」

「最初の一歩を船に置いた!」

「訂正、十一!」

 青い輪へ到達。

 両手で掴む。

 左肩へ負荷が来る前に右手主体へ替える。

「回す!」

 輪は重い。

 風圧で戻される。

「残り二十息!」

「これ、人力?」

「競技者の姿勢を測る!」

「姿勢で風門開けるな!」

 ハルは輪へ足を掛け、全身で踏む。

 一回転。

 青灯が点く。

 その瞬間、足場風が消えた。

「戻れ!」

 腰索が張る。

 左肩ではなく腰で受ける。

 身体が環中央へ振られる。

 白い世界が上下を失う。

 耳の奥で、古い床が一拍遅れた。

「吐き気!」とエリア。

「一!」

「正確に!」

「一と二の――」

「凪野ハル!」

「二!」

 カイルが左手で索を引く。

 右腕を使わない。

 ロロの補助腕二本が腰索を巻き取る。

 ハルは甲板へ戻り、右膝、左手、右足の順で着地した。

「交代」とティア。

「もう戻った」

「次の艇外活動まで休止」

「青関門は一回」

「なら完了です」

「同じことを短く言った」

「規則は行動前に長く、行動後は短く」

 エリアが水筒を差し出す。

「飲んで」

「大丈夫」

「それは報告?」

「感想」

「報告を」

「吐き気一に下がった。耳鳴りなし。左肩零」

「受理」

 彼女は地図へ小さく『走者休止』と記した。

 人の身体も航路条件である。

 地図へ書くことは弱点を固定するためではない。忘れたふりで使い潰さないためだった。