第98話 第一章「白環杯、開幕」後編

 開会式は、競技より先に観客を疲れさせるためにあるのではないか、とハルは開始十七分で考えた。

 十二学院長の紹介。

 王国航路庁の祝辞。

 去年の優勝校による優勝旗返還。

 競技連盟総裁による規則理念。

 スポンサー商会の名を、理念へ見える順番で読む時間。

「まだ走らない?」

「式次第の三分の一」とエリア。

「人はどうして、速さを競う前に長く喋るんだ」

「言葉で急いでいることを示すためよ」

「遅い説明だ」

 壇上では競技連盟総裁が声を張る。

「白環杯は、速さだけを競うものではありません! 正確な航路判断、仲間との連携、危険への対応、そして星航士としての誇りを――」

 ハルは配布された採点表を見る。

『完走点 三十』

『関門通過 二十五』

『規定航路 二十』

『艇体維持 十五』

『到着順位 十』

「救助は?」

 隣のティアへ小声で聞く。

「採点欄にはありません」

「危険への対応は?」

「違反・失格条項と、安全手順評価に分散しています」

「助けると点が増えるんじゃなくて、助けないと失格?」

「救助義務が発生した場合は」

「義務が発生したって誰が決める?」

「審判の赤鐘、当事者の救難信号、または現認した生命危険」

「見つけた人が止まる」

「はい」

「止まった時間は?」

「関係艇のみ競技時計を停止する、という試行規則が――」

 ティアは冊子をめくる。

 右眉ではなく、編み込みを耳へかけ直した。

「ない?」

「最終版では、委員会判断により適用できる、へ変更されています」

「必ず止まる、じゃない」

「ありません」

 マオが後ろから冊子を覗く。

「嵐庭園の事故後に決めたのは?」

「案です。競技連盟の下部監査会では承認された」

「上で薄くなった」

「表現は穏当になった」

「意味は弱くなった」

「……はい」

 舞台上では総裁が「救難の精神」を語っている。

 印刷された精神は、採点欄へ入る前にずいぶん痩せていた。

「精神って、点にならないんだな」とハル。

「点にした瞬間、点のために助ける者も出ます」とティア。

「点にしないと、点を失いたくなくて助けない者も出る」

「だから順位時計の停止が必要だった」

「何で消えた?」

「確認します」

 彼女はすぐ断定しなかった。

 規則を疑うことと、まだ読んでいない頁へ罪名を書くことは別である。

 競技説明の最後、審査席へ十二冊の採点帳が運ばれた。

 白表紙。

 学院紋章。

 公開採点欄。

 その後ろから、白手袋の特別審査官が一冊だけ別の帳面を持ってくる。

 灰黒い封皮。

 学院紋章なし。

 背に細い銀の鎖印。

「何あれ」とハル。

 セレナは単眼鏡を上げた。

「競技連盟の通常帳ではありません」

「見える?」

「表紙と封印だけ。中は見ていない」

「封印の所属は」

「旧式基幹保全書式に似ています。ただし似ていることは同一の証拠ではありません」

 嵐庭園で見た、八時十一分五十九秒の遠隔命令。

 焼けた送信者印。

 ヴィエルが「多くの設備が忘れられないまま使っている」と言った書式。

 同じに見えるものへ、同じ犯人を入れれば物語は早い。

 現実は早さを褒めない。

「競技の帳面じゃないなら、何を測る?」

「閲覧権限を確認します」とセレナ。

「今?」

「開会中に法的請求はできません。所在、管理者、利用目的を記録します」

「遅い」

「速い捜査は、速い誤認を作ります」

「競走の日に言うと強いな」

 特別審査官は帳面を審査卓へ置いた。

 その視線が、十二艇ではなく、ゼロスター号の船首へ一度だけ止まる。

 零星針を置く無星台。

 ノクスが低く喉を鳴らした。

 二本の尾は審査官とハルを別々に指す。

「破られた約束?」

「判定に使わないで」とセレナ。

「聞いただけ」

「匂いの対象、時期、原因が未確認です」

 ノクスは今度はセレナを噛もうとし、届かなかった。

 開会式の最後は、予選レーンの抽選だった。

 白環には七本の主要レーンがある。

 内側ほど距離は短いが雷が多い。外側ほど距離は長く、風が厚い。公平のため抽選とされ、昨年から透明球を使っている。

 各学院の代表が、壇上の回転箱から番号球を引く。

 星岬学院、第三内周。

 北鐘学院、第二中周。

 砂稜工学舎、第一内周。

「内側が有利?」とハル。

「速度だけなら」とエリア。「雷隙の時刻を外すと停止損が大きい。外側は安定するはずだけれど、今日は東風が強い」

「どれがいい?」

「第五中周」

「じゃあ引いて」

「代表は仮入学生です」

「俺?」

「正式資格審査を兼ねるため」

「くじ運も資格?」

「違う条件へどう対応するかを見る」

「悪いくじを引く前提だ」

 ハルは壇上へ上がった。

 透明箱へ手を入れる。

 球は冷たい。全て同じ大きさ。同じ重さ、と説明されている。

 彼は一つを掴み、出した。

 真っ白な球。

 番号がない。

「外れ?」

 会場がざわめく。

 特別審査官が立ち上がった。

「特別外周レーン。第七」

 透明球へ遅れて黒い数字が浮く。

『7』

 エリアの右眉が上がる。

 ティアが規則冊子を開く。

 ドランは抽選箱の購入記録を見ようとし、係員に止められる。

 ロロの補助腕が四本とも上を向いた。

「特別って何」とハル。

「試験資格併用者へ割り当てられる可変レーンです」と審査官。

「抽選じゃない?」

「抽選箱へ一球だけ入っています」

「俺しか引けない球を、俺が引いた?」

「正規手続きです」

「それを抽選って呼ぶ?」

 審査官は表情を変えない。

「不確定な開始位置を無作為に受ける手続きです」

「俺の開始位置だけ決まってた」

「誰が引くかは決まっていた。結果は箱を開くまで未確定です」

「箱の中に一個なら、箱が知ってた」

 観客席から笑いが起きる。

 審査官は笑わない。

 歴史上、権力者はしばしば「選べる」と「選ばせた」を混同する。

 投票箱を置いただけで民主的になるわけではなく、抽選箱を回しただけで偶然になるわけでもない。

 ティアが壇上へ上がった。

「規則監督として確認します。第七レーンの危険評価、他レーンとの差、選定目的、撤退条件を公開してください」

「競技資料に記載済みです」

「頁番号を」

「別冊試験要項」

「競技者へ配布されていません」

「学院長へ送付済みです」

「競技者本人が聞いていません」

 審査官は初めて、ティアを見る。

「グランツ生。あなたは所属艇の競技者でもある。異議は利益相反に当たる可能性がある」

「だから公開の場で、所属を明示して質問しています。利益相反は質問を禁じる理由ではなく、判断者を分ける理由です」

 セレナが黒い羽を一枚伏せる。

「記録しました。回答を」

 審査官は短く息を吐いた。

「第七レーンは外周可変帯。風圧上限は標準の一・二倍。撤退条件は船体傾斜四十度、視界二十歩未満、または競技者二名以上の継続不能。目的は異なる航路条件への適応評価」

「零星針の使用条件は?」

 ハルが聞く。

 一瞬だけ、間があった。

「使用は競技者の判断です」

「使った方が点になる?」

「公開採点表の範囲では、固有能力の出力を直接加点しません」

 公開採点表の範囲では。

 言葉は正確だった。

 正確な言葉は、時に嘘より広い隠し場所を持つ。

「分かった」とハル。

「納得した?」とティア。

「してない。分かったのは、公開じゃない表があるかもしれないってこと」

 審査席の灰黒い帳面は閉じたまま。

 銀の鎖印だけが朝日に光っている。

 港の号鐘が、予選開始まで一刻を告げた。

 白い環が回る。

 外周の雲壁が一段厚くなり、七番レーンだけ、風測旗が真横ではなく斜め下へ引かれた。

「外れを引いた?」とロロ。

 ハルは白い球を係員へ返した。

「外れなら、外へ出ればいい」

「競技でそれ言うな!」

 エリアが地図卓から顔を上げる。

「今回は、勝手に外へ出ないで」

「外周レーンなのに?」

「言葉遊びで航路を決めない」

「じゃあ地図で」

「地図はまだ白紙よ」

 ハルは赤いマフラーを締め直した。

「走れば線ができる」

「走ったら、返して」

「何を」

「あなたが見た今を」

 白環杯は、まだ始まっていない。

 それでも最初の競争はもう起きていた。

 誰が先に着くかではない。

 誰が先に、隠された物差しの存在へ気づくか。

 ゼロスター号は第七桟橋を離れ、最外周の危険レーンへ向かった。