第97話 第一章「白環杯、開幕」前編
競争は、平和になった戦争だと言う者がいる。
歴史から見れば、少し順序が違う。
戦争の方が、規則を失った競争なのである。
先に出た者が勝つ。
先に届いた者が取る。
速い船が海峡を押さえ、強い翼が雲上路を独占し、帰ってきた者だけが自分の正しさを語る。そこへ開始の鐘、越えてはならない線、壊してはならない身体、異議を申し立てる手順を一つずつ足していったものが競技だった。
ゆえに競技の文明度は、勝者の速さでは測れない。
遅れた者をどう扱うかで測られる。
王立星航学院〈アルカ・ノア〉を含む十二の学院が参加する学院対抗の環嵐競走〈ホワイト・カップ〉は、その理想を毎年、白い旗へ印刷していた。
実際の歴史は、もう少し煤で汚れている。
白環杯の起源は二百三十一年前、北東空域から王都へ侵入した大嵐にある。
当時の王都救難艇は、嵐の内側へ入れる操船者を集めるため、軍船乗りへ賞金を出した。最初の競走に観客はいない。出発地点は燃えた港、折返し地点は沈みかけた穀物島、優勝条件は一番早く戻ることではなく、一隻でも多くの避難船を連れて帰ることだった。
王国が平穏になるにつれ、避難船は標的旗へ、燃えた港は白大理石の競技桟橋へ、賞金は学院の名誉へ変わった。
人は危機を訓練へ変え、訓練を祭へ変え、祭へ屋台と座席と賭札を付ける。
そして百年も経つと、なぜその規則があったかより、去年どの学院が勝ったかの方がよく記憶される。
歴史とは、忘れた理由の上へ伝統という名前を貼る作業でもあった。
「左肩、頭上保持三十息。艇外索への片腕懸垂は禁止。急旋回後の吐き気二で交代。復唱」
「三十息。片手でぶら下がらない。吐き気が二なら交代」
「『相談』を足さなくなりましたね」
「成長」
「評価は競技後です」
朝六時四十分。
王都東側の競技港に浮かぶ医務天幕で、ハルはリディアの診察を受けていた。
左肩は耳の横まで上がる。関節の奥に残っていた砂粒のような違和感も、朝だけになった。嵐庭園の事故から十二日。炎症は引き、筋力は戻りつつある。
方向感覚の方は、もっと曖昧だった。
ゆっくり回れば身体の床は付いてくる。急に上下が替わると、一拍だけ心臓が昔の下へ落ちる。
「今日は昔の下が何回出る?」
「出さない競技ではありません」
「白い嵐の内壁を走るって聞いた」
「だから出た時に言うのです」
「出る前には?」
「未来の症状を診断させないでください」
リディアは左手の三指で診察票を押さえ、右上へ条件印を付けた。
『出場可。艇外活動は一回三十息。再開前に本人申告』
「正式学生の判定も、これで?」
「完走、航路判断、安全手順、共同作業。四項目を白環杯の記録から見る」
「勝てばいい?」
「勝敗は資格項目にありません」
「じゃあ遅くても」
「完走すれば審査対象です」
「救助したら?」
「救助は評価する」
「何点?」
リディアの紫の目が、診察票から上がった。
「その質問を競技委員へしてください」
「学院長は知らない?」
「公開採点表に、救助点という欄はない」
「さっき評価するって」
「資格審査では見る。競技順位へ加点するとは言っていない」
「同じ走りを、別の物差しで測る?」
「同じ物差しだけで測る方が危険な場合もあります」
「物差しが隠れてたら?」
「その質問も、競技委員へ」
学院長は答えを避けたのではない。
答える権限のある場所を指した。
権限のない者が親切に説明すると、その親切が後で正式な約束の顔をする。月冠祭から嵐庭園までの一連の事件で、彼らはそれを嫌というほど学んでいた。
ハルは診察票を受け取り、赤いマフラーへ挟んだ。
「次」
天幕の外からカイルが入る。
白い競技服の下、肋骨には薄い固定帯。右腕の包帯は外れていたが、盾籠手はまだ医務封印を巻かれている。
「痛み一。王族的な誇張なし」
「深呼吸」
「信用がない」
「実績があります」
「それは信用を減らす実績か?」
「折れた肋骨を『景気の悪い打撲』と申告した実績です」
「比喩が悪かった」
「診断が悪かったのです」
ハルは天幕を出ながら振り返る。
「盾、使える?」
「半出力六息。再使用まで三十息。守る人数の申告を先にする」
「短いな」
「六息あれば王国を一つ守れる」
「王国を六息で済ませるな」とセレナの声がした。
黒い外套の星律官は天幕の入口で、カイルの医務条件を写している。
「今日は外部監督です。あなたが条件を破れば、王太子としてではなく競技者として失格を申請します」
「王子への敬意は」
「失格理由欄の文字を丁寧にします」
「ありがたい」
競技港は、王都そのものが空へ口を開けたような場所だった。
白い石の桟橋が十二本、扇形に伸びる。
各桟橋には学院旗、応援団、整備荷車、香辛料の煙、賭札売り、迷子、役人、新聞描写師。上空には中継鏡を載せた小舟が群れ、さらにその外側を王都警備艇が円で囲む。
港の東、雲海から巨大な白い輪が立ち上がっていた。
飛行艇競技の白い環状嵐〈ホワイト・リング〉。
直径三千歩。
厚さ二百歩。
星脈炉から送られた風と水蒸気を、十二基の環嵐塔が輪へ閉じ込めている。外から見れば白い雲の腕輪。内側へ入れば、風が壁、床、坂、落下口を兼ねる三次元の競技場となる。
白いから穏やかに見える。
雪崩も白い。
骨も白い。
危険は色で反省しない。
「大きい」
ハルが言った。
「感想が短いわね」とエリア。
「説明は長い?」
彼女は既に透明板を重ねる地図卓〈レイヤー・デスク〉へ三枚の競技図を広げていた。
「外周風速は一息に二十七歩。内壁は上昇、中央は下降。南東の雷隙は七十八息ごとに開く。予選では第三環を二周、決勝では内壁から無重力帯へ――」
「長い」
「聞いたのはあなたよ」
「大きいの中身が増えた」
「では感想を更新して」
「大きくて、速くて、雷が多い」
「幼児向け競技案内としては合格」
「正式学生向けは?」
「競技後」
「今日そればっかりだ」
ゼロスター号は第七桟橋にいた。
白と青の小型船体。右帆は新しい競技帆、左帆は王都救難で焦げた旧帆を補修したまま。左右の色がわずかに違う。船首の羅針盤台〈ブランク・ベイ〉には零星針を収める円形台があり、その上をノクスが占領していた。
赤い布環を前脚へ巻き、二本尾で係留索を叩いている。
「識別首輪を着けろって言われた」とロロ。
「着けた?」
「俺が首輪持った瞬間、補助腕一本噛まれた」
「学習した?」
「首輪を係員の机に置いた」
「ノクスが?」
「俺がだよ。本人が選んだ布だけ登録させた」
ノクスが満足そうに「ノゥ」と鳴く。
ピコはその布の留め金を盗もうとして、尾で叩き落とされた。
「機械と獣の所有権教育が追いついてねえ!」
ロロの四本の補助腕は、一本が帆骨を締め、一本が風計を磨き、一本がピコを追い、残る一本が請求書を書いていた。
「何の請求?」
「競技用帆骨改造、左帆縫い直し、ノクスの首輪拒否交渉、ピコの窃盗未遂対応」
「最後二つ、修理じゃない」
「精神摩耗費」
「誰に請求するの」
「人生」
「支払能力がなさそう」
「だから学院に回す!」
ドランが請求書を奪った。
「『人生』は会計主体ではない」
「じゃあ競技連盟!」
「首輪を拒否したのは乗員側だ」
「拒否権の運用費!」
「項目名だけ立派にするな!」
ドランは白手袋の片方を外し、桟橋へ並ぶ部品箱を数える。眼鏡は掛けていない。遠くの番号を見るたび、顔を近づけるので、かえって視力の話題を避けにくくなっていた。
マオは低い整備台へ腰掛け、左脚の装具を締め直している。
今日の役割は地上関門走者。予選の第二周、艇が環嵐塔の足場へ接触した時、外部から安全札を受け取り船へ戻す。競技艇へ乗り続ける乗員とは別だが、同じ学院の得点へ入る。
「留め具、三回目」とハル。
「数えるな」
「緊張?」
「点検。緊張を部品名にするな」
「今日は手伝う?」
「必要なら聞く。先に触るな」
「受理」
ティアはそのやり取りを、競技規則冊子へ書き込んでいた。
灰銀の短髪。右耳後ろの深紅の編み込み。右袖には嵐庭園の黄色い救難布が縫われている。風紀隊長章はない。代わりに、白い輪を二本の黒線で挟んだ『競技規則監督』の臨時札を胸へ付けていた。
「第一条。規則監督は、競技者より上位ではありません」
「誰に言ってる?」とハル。
「自分です」
「分かりやすい」
「第二条。規則違反を見つけた場合、所属学院の利益より公開手続きを優先します」
「それも自分?」
「全員へ」
「長い」
「必要な長さです」
ティアは双規刃アレイオンの目盛りを親指でなぞった。
資格停止は昨日で終わった。風紀隊長へは復帰していない。今日の臨時札は、競技委員会と十二学院の合意で発行されたものだ。
彼女は再び権限を持った。
前より小さい権限である。
小さいから軽いとは限らない。手に収まる刃物ほど、どこへ向けたかがよく見える。