第104話 第四章「客席島の影」後編

 午後二時。

 競技委員会の仮会議室。

 白い長机の向こうに、競技長、施設長、観覧運営責任者、学院代表二名、特別審査官が座っていた。

 特別審査官は、白い手袋を外さない。

 エリアは十二枚の透明板を机上へ並べた。

 ドランは支出経路。

 ロロは部品磨耗。

 マオは避難路。

 ティアは規則所管の空白。

 セレナは観測時刻。

 彼らは一つの大きな疑惑を持ち込んだのではない。

 小さな事実を、誰にも捨てられない順番で持ち込んだ。

「結論から申し上げます」とエリア。

「第六観客島の位置を元へ戻すか、決勝コースを外側へ戻してください。少なくとも主係留環三、四の交換と、避難艇発進域の確保が完了するまで」

 競技長は書類を見た。

「島は安全検査済みです」

「検査範囲が分かれています」

「複合条件は、実際には成立しにくい」

「成立しない、ではありません」

「大会前日に大規模変更を行えば、十二学院の訓練条件が崩れます。公平性に影響する」

「観客の安全より、昨日までの練習を公平にする?」とハルの声がした。

 会議室の入口で、オルトに肩を掴まれている。

「お前は待機」とオルト。

「待機した。廊下で」

「入室許可は」

「今聞く。入っていい?」

「もう入っている」

「じゃあ出てから聞く?」

「話が後ろへ進む」

 競技長が眉を寄せた。

「凪野仮入学生。この会議は調査担当者に限られています」

「俺、測られる担当」

 白い手袋の審査官の指が、ほんの少し動いた。

 エリアはそれを見た。

 証拠にはならない。

 だが、人が言葉のどこへ反応するかは、地図でいう風向きだった。

「ハル、席の後ろへ。発言は私が求めた時だけ」

「分かった」

 素直に下がる。

 競技長の方が驚いた顔をした。

「続けます」とエリア。

 施設長が口を開く。

「係留環は、規格上の安全余裕を保持しています」

「磨耗基準を超えています」

「交換推奨値です。即時使用停止値ではない」

「なぜ推奨されたのです」

「長期運用のためです」

「明日の一日だけ持てばよいと?」

「そうは申し上げていません」

「申し上げていないことを、現物が申し上げています」

 エリアの右眉が上がった。

 ドランが小声で言う。

「今のは記録へ残したい言い回しですわ」

「事実ではありません」とセレナ。

「名言欄を作るべきです」

「あなたの帳簿へ」

 観覧責任者が割って入った。

「島を戻せば、すでに販売した席の視界条件が契約と異なります。返金、再配置、貴賓警備の再編が必要になります」

「必要なら行うべきです」とティア。

「費用は誰が」

「救難予算を花火へ移した部署から」

「その流用は正式承認されています」

「正式な誤りは、非公式な誤りより安全になるのですか」

 ティアの声は一定だった。

 一定であるほど、怒っている。

 特別審査官が初めて発言した。

「競技コースは、白環内の流量を均等にするため改訂されました。外側へ戻せば、最外周艇に不均衡な負荷が生じる。凪野選手の安全にも関わります」

「俺のため?」

 ハルが言った。

 エリアは止めなかった。

「そうです。あなたは方向感覚障害の回復過程にある。外周の乱流は危険です」

「だから島に近づけた?」

「あなた一人のためではありません」

「じゃあ誰のため?」

「全競技者の均等な条件です」

「島の人は競技者じゃないから、均等の外?」

「観客安全は別の基準で確保されています」

「別にしたら重なったって、エリアが言ってる」

「計算上の最悪条件です」

「悪いことは、計算から外せば起きない?」

 審査官の白手袋が机へ置かれた。

「感情論で運営はできません」

「感情じゃない」とハル。

「人が落ちたら困るって、感情?」

「危険度の評価には確率と費用が必要です」

「じゃあ数字を見せて」

 審査官が止まる。

「どの数字です」

「コースを内側へ動かした時の。俺の安全が理由なら、外と内でどれくらい違うか測ったんだろ」

「内部資料です」

「客席島との重なりは?」

「施設資料です」

「別々?」

「所管が異なります」

「また隙間だ」

 ハルは羅針盤の蓋へ触れた。

 弾かなかった。

「俺、隙間を走る係にされてる?」

 軽い言い方だった。

 誰も笑わない。

 競技長は会議を一度休止し、三部署と相談した。

 二十分後、結論が出た。

『第六観客島は安全検査済みであり、現時点で緊急移設を要する根拠はない』

『決勝コース改訂は競技者間の風況均等化を目的とし、予定どおり実施する』

『係留環三、四は大会終了後に交換する』

『避難誘導員を八名増員する』

 調査は打ち切られた。

 否定されたのではない。

 認められた事実を、決定を変えるほどではないと分類された。

 歴史における大事故の多くは、誰も危険を知らなかったために起きたのではない。

 知っていた危険が、今日変更するほどではない、今年予算を付けるほどではない、自分の所管ではない、と小さく切り分けられた末に起きる。

 事故は突然やってくる。

 準備は、ずっと前からされている。

 夕暮れ。

 エリアは白環の外縁歩廊へ一人で立っていた。

 正確には、一人ではない。

 足元にノクスがいる。

 黒い夜獣は赤い布を前脚へ巻き、白い雲の筒を見ていた。二本の尾が別々の風を測るように揺れる。

「あなたは匂いで分かりますか」

 ノクスは鼻を鳴らした。

「質問が広すぎましたね。破られた約束の匂いは?」

 ノクスは観客島ではなく、審査艇の方を見た。

 それだけだ。

 犯人を指したわけでも、真実を証明したわけでもない。

 約束とは、書かれた契約だけではない。競技が安全だと掲げる旗、救難を起源とすると語る祝辞、観客を招く切符。そのどこかと現実の間に、匂いのする裂け目がある。

 エリアは地図卓へ、会議後に配られた最終改訂線を重ねた。

 白線は第六観客島の下を通る。

 接触はしない。

 静止していれば。

 主環が四本とも持てば。

 鏡幕が閉じれば。

 十二隻が予定どおり通れば。

 警報が予定どおり届けば。

 規則が救助者を外へ出さなければ。

 「もし」が多い地図は、精密なのではない。

 責任の逃げ道が多い。

 背後で足音がした。

「息」

 ハルだった。

「オルト教官の真似ですか」

「呼吸止めてた」

「あなたに言われたくありません」

「俺は走ってる時だけ」

「平常時にも止めています」

「じゃあ似てる」

「似ていません」

「何個目の『もし』?」

 エリアは透明板を数えた。

「六つ」

「全部外れたら?」

「島が競技線へ入ります」

「全部外れる?」

「一つずつの確率は低い」

「答えになってない」

「分かっています」

 彼女は線を消さなかった。

「ハル。明日の練習周回では、私が出した路だけをなぞらないでください」

「地図の外を走っていい?」

「逆です。走った結果を返してください。風、傷、音、匂い、身体の下が遅れた回数。私の地図へ訂正を入れる」

「命令?」

「依頼です」

「何が違う?」

「断った時、私が理由を聞くか、罰するか」

「断らない」

「即答しないでください」

「じゃあ考えた。断らない」

「考える時間が短すぎます」

「速い競技だから」

 エリアは右眉を上げた。

 少しだけ、口元が緩んだ。

 その時、白環の試験灯が順番に点いた。

 一本、二本、三本。

 最終改訂線を示す白光が、観客島の影へ潜る。

 島の上では、明日の観客が座る椅子を係員が磨いている。

 島の下では、交換されなかった環が風に鳴った。

 安全検査済みの印章は、赤く、正しく、何も支えずに輝いていた。

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