第105話 第五章「隠された採点欄」前編
秘密には二種類ある。
知られては困るため隠す秘密と、誰も見る権利を持たない形にして隠す秘密である。
前者には鍵がかかる。
後者には分類名が付く。
国家は文書を焼かずとも消せる。「別部署」「対象外」「個人情報」「技術記録」「安全保障」「該当なし」。紙が残っている方が、存在しないことを証明しやすい場合さえある。
だから、制度の奥にいる者ほど、盗人より礼儀正しい。
扉を破らない。
扉の向こうを、部屋ではないことにする。
「盗み見はしません」
翌朝七時。
競技港第二監査室で、ティアは言った。
「まだ誰も盗むと言ってない」とハル。
「あなたが窓の寸法を見ています」
「出口を見ただけ」
「三階です」
「出口にはなる」
「なるような使い方を禁止します」
「今から?」
「入学以前からです」
「過去へ規則を出すなよ」
「過去の行為へ、現在から評価はできます」
「それ、歴史の授業みたいだ」
「歴史はだいたい規則違反の事後審査です」とセレナ。
監査室には長机が一つ、椅子が六つ、壁一面の書類棚がある。
座っているのは、ハル、ティア、セレナ、ドラン、ロロ、エリア。
ノクスは椅子を使わず、扉の前に伏せていた。
ピコは棚の最上段へ留まり、何も盗まないという誓約札を脚へ付けられている。札にはロロの字で『物だけ』と追記されていた。
「その追記は何です」とティア。
「音は物じゃない」
「無断録音も禁止です」
「じゃあ今日は目だけ」
「目にも札を」
ピコが首を百八十度回し、抗議するように歯車を鳴らした。
ティアは机上へ三種類の申請書を置いた。
「第一。競技者本人による個人測定記録の閲覧請求。申請者、凪野ハル」
「俺の点なら見ていい?」
「本人でも、公開範囲に制限があります。だから第二。規則監督による採点項目整合性監査。申請者、私」
「あなた、競技者でもあるでしょう」とドラン。
「利益相反を申告し、閲覧時は採点対象者の席を外します」
「自分で自分を外すの、得意だな」とハル。
ティアの右親指が、腰の双規刃アレイオンの目盛りを一度なぞった。
「得意だから正しいとは限りません」
第三の書類をセレナが引き寄せる。
「外部星律監督による目的外測定の確認請求。測定器、取得項目、保管主体、利用目的。私は中身より先に、存在と法的根拠を確認します」
「三方向から同じ扉?」とハル。
「違います」とエリア。
「あなたは『私について何を記録したか』。ティアは『公表された採点と実際の採点が一致するか』。セレナは『競技の名で別目的の測定をしていないか』。同じ帳面へ届いても、開く理由が違います」
「理由が違うと、見えるページも違う?」
「権限とは、目の形を決める眼鏡です」
「眼鏡をかけたら全部見えなくなることもある」とロロ。
「それは度が合っていません」
「制度の眼鏡、大体そう」
ドランが四枚目の紙を置いた。
「わたくしは支払記録です。灰黒帳の紙、封印蝋、筆記官手当、保管箱。金を払ったなら、帳面を存在しないと言い張るのは難しい」
「払ってなかったら?」
「もっと問題ですわ」
「金があると悪い。なくても悪い」
「会計は悪事をなくしません。悪事へ値札を付けます」
「値段が分かったら?」
「誰が得をしたか、誰が負担したか、次にどこを止めればよいかが分かる」
ハルは申請書へ自分の名を書いた。
日本語の署名の下へ、学院で覚えた共通空語の綴りを加える。
「公開していい」
「範囲を指定してください」とセレナ。
「全部」
「全部は範囲ではありません」
「俺を測った数字。何のために測ったか。誰が使うか」
「健康記録は?」
「それは医務室だけ」
「他競技者との比較順位は?」
「他の人の数字なら要らない」
「零星針の出力波形は?」
ハルは少し止まった。
出力を見せることは、自分の武器の限界を見せることでもある。
父を探す手掛かりを、知らない組織へ渡すことでもある。
「俺が出した分だけ。測ってない未来は書かせない」
「未来は記録できません」とティア。
「予想って顔で、命令する人がいる」
セレナが羽根へ書く。
『本人同意範囲。取得済み波形、取得目的、利用者、保存期間。第三者比較は除外』
「訂正権、異議申立権、削除請求権を説明します」
「消したら証拠も消える?」
「だから保存停止と公開保全を分けます」
「ややこしい」
「ややこしさは、強い者が一手で全部決めないためにあります」
「簡単に悪いことする人へ、面倒を渡す?」
「良い言い換えです」
エリアが微かに頷いた。
午前九時。
第一の回答が返った。
『該当する競技採点記録なし』
ハルは紙を裏返した。
「白紙?」
「裏に答えはありません」とティア。
「表にもない」
「あります。『競技採点記録ではない』」
「測ってない?」
「そうは書いていません」
第二の回答。
『封印資料は競技採点表に該当せず、規則監督の閲覧対象外。星脈基幹保全に関する個別適性資料として管理』
第三の回答。
『測定器および記録は、学院競技委員会の所有物ではない。外部技術協力機関による保全測定であり、競技運営資料に該当しない』
ドランの回答。
『特別審査費――競技安全適性評価。支払先、王都基幹保全局・第三技術室。予算原資、白環杯安全強化費』
四枚の紙を並べる。
「採点じゃない」とハル。
「競技外の適性資料」とティア。
「競技安全費で支払われています」とドラン。
「外部機関が測った」とセレナ。
「でも、帳面は審査席で競技中に開かれた」とエリア。
「予選の救難灯後、マオの救助後」とティア。
「俺が針を使いそうな時」
「使わなかった時でもあります」
「使うかどうかを測った?」
「仮説です」とセレナ。
「仮説を、手続きへ変えます」
ティアは新しい申請書を出した。
「却下理由への異議申立。測定が競技中の行動に連動し、競技コースと安全運用に影響した可能性がある以上、競技資料ではないという分類だけで監査を拒めない」
「通る?」
「通す根拠を作ります」
「根拠は?」
「測定器」
ロロが机の下から顔を出した。
「もう見つけた」
「いつです」とティア。
「今朝。審査艇に付いてた。外から」
「許可は」
「整備公開域。触ってない。ピコも盗ってない」
ピコが誇らしげに胸を張る。
「誇る基準が低いです」
「写真図、描いた」
ロロは油の付いた紙を広げた。
審査艇の側面、白い装飾板の裏に、三重の受信環が描かれている。
「普通の競技計時器は、艇の通過印、速度、関門触れを拾う。これは違う。針が大きく振れた時の星脈波を拾う形。しかも向きが全部、ゼロスターの最外周レーンへ合ってた」
「向きを変えられる?」
「艇ごと動けば」
「審査艇が、俺の近くへ来たら」
「測りやすい」
「競技安全用では?」とエリア。
「安全測定なら、全レーンに向ける。これ、一人用」
セレナは図を羽根へ写した。
「現物確認が必要です」
「今ならまだ付いてる」
「外される前に、正式な保全命令を出します」
黒羽が窓から飛び立った。
秘密を暴く時、速さは重要である。
だが速さだけなら、盗人の方が早い。
制度を使って秘密を暴く者は、相手が消せない速度で、手順を一段ずつ積む必要がある。
正午。
審査艇は飛べなくなった。
セレナの保全命令が、艇の全装置へ黒羽封印を付けたためである。
特別審査官は抗議した。
競技委員会は決勝準備への妨害だと述べた。
セレナは「事実確認が済めば解除する」と答えた。
事実確認が済むまで動かせない。
動かせないから確認できる。
規則は時に、動き続ける権力へ一度だけ「止まれ」と言うためにある。
艇側面の白板を、委員会整備士、ロロ、外部技師の三者立会いで外した。
中から三重の受信環が現れた。
中央へ、小さな空白を持つ円盤。
ハルの羅針盤に似ている。
似ているが、逆だった。
零星針は失われた原因を探す。
こちらは、零星針がどれだけ失われた原因へ近づいたかを測る。
「型式番号」とセレナ。
外部技師が読み上げる。
「基幹異常応答測定器、七式。個体適性、最大開放値、反応遅延、問いの焦点――」
「競走能力は?」とハル。
「測定項目にありません」
「安全は?」
「大出力時の周辺負荷は測ります」
「使わない時の安全は?」
「項目外です」
「救助は?」
「項目外」
「完走は?」
「項目外です」
ロロが受信環の基部を指した。
「これ、流向誘導器と線がつながってる」
「計測器が流れを変える?」
エリアの声が低くなった。
「正確には、審査艇の位置を安定させる装置と共通。だけど出力先が二つある。一つは自分を安定。一つは外へ押す。昨日の予選、審査艇がハルの後ろへ来た時、外向きに三回使ってる」
「証明できますか」とティア。
「残留熱と焼け目。時刻は競技記録と合わせられる」
「誘導の目的までは?」
「機械だけじゃ分からない」
「では、事実はそこまで」とセレナ。
特別審査官が、白手袋の指を組んだ。
「測定装置は隠されていません。協力契約に基づき設置された」
「観客へ公開されていません」とティア。
「技術詳細を全て公開すれば、競技者が数値を作る行動へ偏る」
「数値を作らせるため、コースを変えたのでは?」
「断定は認めません」
「では質問します。最外周レーンの抽選球が一つだけ異なる構造だった理由は」
「安全配慮です」
「凪野ハルの方向感覚障害を理由に、外周を割り当てた?」
「一般艇と接触しにくいレーンです」
「外周乱流は危険だと、昨日あなたは言った」
「だから内側へコースを改訂した」
「観客島へ近づけて」
「複合安全は施設部の判断です」
「自分の選択だけを、別部署の結果から切り離すのですね」
ティアの声が、一語ずつになった。
「第一。特定競技者を、異なる構造の抽選球で外周へ入れた。第二。その競技者を測る装置を、審査艇へ設置した。第三。審査艇は競技中、測定対象の近傍で外向きの流れを発生させた。第四。救助行動の直後だけ、封印帳を開いた。第五。帳面は競技採点でないと言いながら、安全予算で作られている」
「並べても、目的は生まれません」
「目的を聞いています」
「星脈基幹の保全です」
室内が静かになった。
白手袋の審査官は、自分で答えた。
追い詰められて口を滑らせたのではない。
むしろ、これ以上隠す方が不利だと判断した顔だった。
「凪野ハルが持つ零星針は、既存の誓星術体系へ分類できない。王都の星脈炉へ干渉し、月冠祭では世界命令を一部解除した。再現条件、最大出力、周囲への危険を測る必要がある」
「だから競技へ入れた?」とハル。
「既存の安全枠内で、複数の判断刺激を与えられる」
「刺激」
「経路選択、救難対象、規則との衝突、身体的危険」
「人を、針を動かす餌にした?」
「事故を起こす計画ではありません」
「マオが助けた時、帳面にマオの名前がなかった」
「測定対象ではない」
「ネロも」
「同じです」
「じゃあ二人は何?」
審査官は答えなかった。
「刺激?」
ハルの声が低くなる。
怒鳴らない時の方が本気である。
「彼女たちの安全は競技規則で確保される」
「その規則が、助けた方を外へ出した」
「規則の欠陥と測定の必要性は別です」
「別にするなよ」
短い言葉だった。
会議室の空気が、そこへ集まった。
「別にしたから、全部重なってる」
審査官はハルを見た。
「君は、自分の力が世界へ何をするか知る責任がある」
「ある」
「なら測定を拒むのか」
「測るなって言ってない」
ハルは自分の胸元から羅針盤を出した。
中央に針のない、星形の古い羅針盤。
「聞けって言ってる。何を測る。誰に見せる。危なくなったら誰が止める。失敗したら誰が謝る。俺が断ったらどうする」
「全てを事前に公開すれば、自然な反応は測れない」
「自然って、知らないまま危険に入れた反応?」
「非常時の人間は、説明を受けてから動けるとは限らない」
「じゃあ非常時じゃない今、説明できる」
審査官の目に、ほんの少し疲れが見えた。
「世界は、君一人が納得するまで待てないことがある」
「待てない時に決める人ほど、待てる時に説明しろよ」
それは少年の理屈だった。
しかし歴史を動かす理屈の多くは、最初、子供じみて聞こえる。
なぜなら成熟した社会とは、複雑な事情を知ることではなく、複雑な事情を理由に簡単な責任を捨てないことだからである。