第107話 第六章「羅針盤なしの一周」前編

地図を持たずに歩く者は、自由だと思われる。

 実際には、地図を持たない者ほど多くのものへ従っている。

 建物の向き、道幅、足跡、人の流れ、夕日の位置、匂い、疲労、思い込み。目に見える一本の線へ従わない代わりに、名前のない百本の線へ引かれている。

 羅針盤も同じだった。

 持たないことと、方向を持たないことは違う。

 使わないと宣言するだけでは、針の代わりを空白にしたにすぎない。

 空白は、自由ではない。

 埋め方を選ぶ責任である。

「右外風、十四。前より二」

「二増えた、です」とエリア。

「右外風十四、二増えた」

「発生位置」

「白壁の青い傷から三歩」

「三歩は誰の歩幅です」

「俺」

「一・六メートル換算。次から歩数と距離を両方」

「走りながら?」

「走りながらです」

「厳しい」

「地図は、あなたの曖昧さを後で推測する仕事ではありません」

「俺の言葉を数字にする仕事?」

「互いに数字へ近づける仕事です」

 白環の練習周回。

 ゼロスター号は決勝線を模した白い帯へ入っていた。

 船首の羅針盤台には透明箱。零星針は中で眠り、三つの鍵片は別々の人物が持つ。

 ハルは艇外走者として右舷の細い足場を進む。

 赤いマフラーを短く結び、両腰へ安全索。左肩は頭上保持三十息まで。片腕懸垂は禁止。

 条件を守ることは、速さを落とすことではない。

 速さを、次の一歩まで残すことだった。

「下、遅れ一」

「了解。地図を半拍後ろへ」とエリア。

 白い壁が右へ回る。

 ハルの目には床が壁へ、壁が天井へ替わった。

 身体の中の「下」だけが、一拍遅れて元の位置へ残る。

 胃が古い床へ引かれる。

「吐き気?」とオルト。

「一」

「復唱」

「吐き気一。交代なし」

「左肩」

「零」

「呼吸」

「余ってる」

「数で」

「……普通」

「普通は数ではない」

「話せる」

「それを二と記録」とリディアの声が通信筒から飛ぶ。

「医務室から聞いてた?」

「聞くための通信です」

「怖い」

「恐怖一と記録します」

「それは記録しなくていい!」

 ハルは笑い、足場から白壁へ飛んだ。

「一、二、三」

 磁着靴ではない。

 競技用の足裏環が、壁面の星鉄へ一瞬だけ噛む。

 右足、左足、右手。低い姿勢で三歩。

 前方に裂け目。

 予選で見た古い救難灯が、黄色く点滅している。

「灯、二秒早い」

「位置は?」

「昨日より右」

「何メートル」

「見た感じ――」

「見た感じを捨てないで、測って」

 ハルは腰索の目盛りを壁へ当てた。

「一・九」

「昨日比一・九メートル右。記録」

「壁が動いた?」

「灯が動いた可能性もあります」

「あとで見る」

「今は走る」

 エリアの声が短い。

 ゼロスター号の主帆が半分開く。

 片帆の船は、左右対称の競技艇より癖が強い。左へ曲がる時は風を抱き、右へ曲がる時は船体を一度沈める。

 欠点は、知っている者にとって動詞になる。

 「曲がりにくい」ではなく、「沈めてから蹴る」。

 ロロは欠陥へ名前を付けず、使い方を付けた。

「帆骨四、震え三!」

「三は交換?」とカイル。

「まだ。三は注意、四で交換、五で請求!」

「請求だけ段階が別だな」

「金は命より遅いけど、忘れると生活が死ぬ!」

「名言?」とハル。

「請求書の前書き!」

 船が内壁の溝へ入る。

 エリアの地図線が、白い壁へ淡緑の道を描いた。

 彼女が測った安全路。

 ハルが返した風の更新を受け、線が一度揺れて右へずれる。

「ハル、次の継ぎ目で左上へ。二十二メートル。着地点三角板」

「見える」

「見えてからでは遅い。復唱」

「左上二十二、三角」

「身体条件」

「吐き気一。肩零」

「進行」

 ハルは走る。

 走りながら、考える。

 針はない。

 失われた原因を指す光も、術式の継ぎ目を黒く浮かべる視界もない。

 それでも壁の傷は見える。風の匂いが変わる。遠くの雷が来る間隔を数えられる。

 できる。

 そう思った瞬間、風が消えた。

 完全な無風ではない。

 右から十四あった風が、五へ落ちる。

 ゼロスター号の右舷が浮きすぎた。

「右外、五!」

「変化時刻」

「今!」

「今では――」

 船が跳ねた。

 ハルの足場が、予定より下へ行く。

 身体の下が遅れる。

 吐き気が一から二へ上がった。

 言わなければ。

 交代になる。

 練習を止めるかもしれない。

 針なしで走れると宣言したばかりだ。

 ここで止まれば、審査官の言った「無謀」が正しくなるように感じた。

 だからハルは、一拍黙った。

 一拍は短い。

 競技では、一拍あれば船が五メートル進む。

 地図は、五メートル前の少年を描き続ける。

「ハル、左上!」

 エリアの線が出る。

 ハルは飛んだ。

 身体の中の床は、まだ右にある。

 目の前の壁は、もう上にある。

 手を伸ばした先が半歩ずれた。

 右手は三角板の縁を掴む。

 左手は空を切る。

 片腕懸垂。

「肩!」

 オルトの声。

「一!」

 ハルは反射で答えた。

 嘘だった。

 痛みは二。

 安全索が伸びる。

 腰を引かれ、身体が板へ叩きつけられた。

「ハル、離して!」

 エリア。

 離せば索が支える。

 分かっている。

 だが手を離した瞬間、落ちる感覚が来る。

 待合室。止まった時計。帰らない声。

 落ちることではなく、誰かが戻らない方を先に想像する。

「一、二――」

 三が出ない。

「ハル!」

 カイルの王盾が開いた。

「守る人数、一!」

 半出力。

 赤金の光が三角板の下へ薄い床を作る。

「六息!」

 ハルは右手を離した。

 盾へ落ちる。

 一息。

 二息。

 赤金の床がゼロスター号の高さへ傾く。

 三息。

 ハルは両足で艇側へ滑る。

 四息。

 ロロの補助腕が安全索を巻く。

 五息。

 船内へ転がり込む。

 六息。

 盾が消える。

「再使用三十!」とカイル。

「保護終了、一名。肋骨二!」

「痛み二を先に言え!」とリディア。

「人数を先にって条件だったろ!」

「使用後の話です!」

 その時、ゼロスター号の左側から金属が裂ける音がした。

 ガァン、と白壁へ擦る。

 右風の急減と、ハル救助のための傾斜。

 左舷の可変帆骨が壁へ当たり、先端が曲がった。

 片帆が歪む。

 船は回転し、古い救難灯の支柱へ船腹を擦りながら止まった。

 白い粉が舞う。

 静かになった。

 壊れた機械の後の静けさを、ロロは嫌う。

 四本の補助腕が全部垂れた。

「……機関、生きてる」

 一番にそれを言った。

「主帆、裂けなし。可変骨四、曲がり。左外板、六十七センチ擦過。推進軸、たぶん平気。たぶんは後で消す」

「人員」とオルト。

「ハル、肩二、吐き気二」とエリア。

「カイル、肋骨二、盾冷却」と本人。

「ロロ、無傷。怒り四」

「マオ、船内。無傷」

「ティア、右膝一。規則違反を三件確認」

「エリア、踵二、呼吸一」

「エリア」とハル。

「今はあなたです」

「俺、肩二。吐き気二」

「いつから」

 答えにくい質問ほど、短く答えるべきだった。

「飛ぶ前」

「報告は」

「しなかった」

 エリアの顎が上がった。

 怒りを抑えている。

「なぜ」

「止められると思った」

「止めます」

「だから」

「だから黙った?」

「走れるって証明したかった」

「誰へ」

「審査官。みんな。自分」

「私には?」

 ハルは答えられなかった。

「あなたは、私の地図を信じると言いました」

「信じてる」

「地図へ嘘の現在地を送っておいて?」

「嘘じゃ――」

「黙った情報は、地図の上では嘘です」

 エリアの声は冷たい。

 冷たいが、離れていない。

「私はあなたへ、線の外を走るなと言いたいのではありません。線が間違っていたら訂正を返せと言っています。身体が変わったら、それも地形です」

「身体が地形?」

「あなたが走る限りは」

「俺の具合まで地図に?」

「必要な範囲だけです。所有しません。決めつけません。更新を求めます」

「更新したら止められる」

「止めるかもしれません」

「勝てなくなる」

「壊れた船で勝つつもりですか」

 ロロの補助腕が一斉に上がった。

「そうだよ! こっち見ろ! 意志で帆骨は真っ直ぐになんねえ! なるなら請求書へ『根性』って書いて終わる!」

「ごめん」

「謝罪は無料! 修理は有料!」

「いくら」

「今から数える! でも先に肩冷やせ!」

「どっち」

「人を先にすると金が後で取れる!」

「合理的だな」

「優しいって言え!」

「優しい」

「言わせると安くなる!」

 ロロは怒鳴りながら、冷却布を投げた。

 ハルは受け取り、左肩へ当てる。

 エリアはまだ彼を見ている。

「何をすればいい」

「次から報告を」

「それだけ?」

「それだけを毎回」

「他に」

「あなたが決めてください」

 ハルは考えた。

 羅針盤の蓋を弾こうとして、透明箱の中だと気づく。

 代わりに、赤いマフラーの結び目を締め直した。

「手伝って」

 声が少し低くなった。

 いつもなら、「大丈夫」「行ける」「俺がやる」と言う場所だった。

「何を」とエリア。

「俺が今いる場所を、俺だけで正しいと思わないように。吐き気とか、風とか、見えた傷とか、返す。エリアが地図にして、違ったら言って。ロロは船の音。カイルは盾を使う前に止めて。ティアは、報告しなかったら……」

「処分?」

「それは嫌」

「では記録します」

「それも少し嫌」

「嫌でも残します」

「マオは?」

「先に聞く」とマオ。

「何を」

「助けていいか。助け方は何か。勝手に抱えない」

「オルトは」

「全員へ同じ命令は出さない。役割ごとに一つ」

「俺は?」

「報告。次の一歩。二つにするな」

「一つって言った」

「今は報告」

「了解。肩二、吐き気二、悔しさ三」

「最後は医務項目外です」とリディア。

「でも記録して」とハル。

 エリアの右眉が少し下がった。

「受け取ります」