第108話 第六章「羅針盤なしの一周」後編

 練習は中止になった。

 だが調査は続いた。

 人の身体を休ませる時間に、機械と壁はよく喋る。

 ロロは曲がった帆骨を外し、金属を歯へ軽く当てた。

「折れてない。ひねり十一度。戻せる。新品なら交換だけど、こいつは月冠祭の夜から飛んでる。直す」

「費用」とドラン。

「作業七十、熱炉二十、補助材十五、ハルの反省文は金にならないから零」

「反省文を労務換算できませんの?」

「読む時間が損」

「ひどい」とハル。

「綴り間違い直す手間も請求する」

「じゃあ短く書く」

「反省が短い!」

 マオは船腹の擦過痕を指で追った。

「白い粉の下、黒い」

「壁塗料じゃない」とロロ。

 エリアが地図卓を持って近づく。

「どこの付着物です」

「船が当たったのは救難灯の支柱。その塗料は黄。白は壁。黒は……古い防錆層」

「なぜ古い層が表へ?」

「先に別の何かが擦って、新しい白塗りを削った」

 ロロは壁面を見上げた。

 古い救難灯の根元から、斜めに長い擦り傷が伸びている。

 ゼロスター号が今付けた傷より高く、太い。

「昨夜の整備艇?」

「幅が違う。これ、壁そのものを動かした時の擦れ」

「壁は固定では?」とティア。

「区画ごと回転できる。嵐の磨耗を均すため。でも通常は年に一回」

 エリアは昨日の灯の位置と、今日の位置を重ねた。

「一・九メートルのずれ。区画半径から逆算すると、回転角は三・二度」

「決勝改訂線の内寄せ角と一致しますわ」とドラン。

 彼は整備命令書を開いた。

「昨夜二十三時十二分。『風況均一化のため、内壁第七区画を基準線へ補正』。命令者、競技技術室。承認、特別審査部」

「補正前の基準は?」

「記載なし」

「補正した結果、救難灯がずれた」とハル。

「灯を動かしたのではなく、壁ごと動かした」とエリア。

「なぜ?」

 全員が透明箱の中の羅針盤を見た。

「測定器の向きへ、危険流の発生点を合わせるため」とティア。

「仮説です」とセレナ。

「証拠は増えています」

「意図の範囲を狭めましょう。壁を回した。審査艇の流向装置が、その区画へ向く。決勝線が観客島へ近づく。これらは事実。島を落とす意図までは証明されていない」

「でも危険は知ってた」とハル。

「昨日の会議で、少なくとも知りました」

「その後も戻してない」

「それも事実です」

 エリアは傷の始点へ地図針を当てた。

「問題は、三・二度だけではありません」

「まだある?」

「壁が回れば、固定骨格に対する救難灯の位置が変わる。灯は古い安全流を示していたのに、現在は半拍遅い場所を照らしています」

「だから予選で二秒早かった?」

「あなたから見れば灯が早い。実際は流れがずれた」

「公式路は?」

「壁の新位置を前提に再計算されています」

「救難路は古いまま」

「はい」

「安全な道を動かして、印だけ残した?」

「意図したかは分かりません。結果はそうです」

 ハルは白い傷へ手を当てた。

 零星針なら、失われた正位置を指せるかもしれない。

 使わないと決めた。

「針、なくても分かった」

「傷があったからです」とセレナ。

「ロロが見つけた」

「あなたが灯のずれを報告した」とエリア。

「最初、適当に言った」

「測り直しました」

「みんなで?」

「はい」

 ハルは少し笑った。

「こっちの方が遅い」

「何と比べて」

「針」

「そうでしょうね」

「でも残る」

 彼は壁の傷、整備命令書、地図卓、ロロの指先を順に見た。

「針が光ると、俺の目にしか見えないことがある。これはみんなに見える」

「だから証拠になります」とセレナ。

 彼女の黒羽が、傷の角度を記録する。

 夕方、競技委員会から最終決勝図が届いた。

 白い封筒には『安全性再評価済み』と印刷されている。

 エリアは地図卓へ載せた。

 昨日の改訂線より、さらに内側へ七メートル。

 理由は『第七区画補正に伴う標準航路再設定』。

 観客島との最短距離、百二メートル。

 古い係留環が一つ伸びた場合、七十四。

 鏡幕が開いたまま横風を受けた場合、四十八。

 全艇が第三加速区へ入れば、二十一。

「近づいた」とハル。

「はい」

「安全再評価済み?」

「評価した範囲では」

「範囲の外に人がいる」

「います」

 ティアが決勝規則を読む。

「コース離脱は二十秒で失格。救難行動による離脱も同じ。競技円への再入場手続きはない」

「マオの件、直してない」とハル。

「異議は保留中です」

「明日まで?」

「通常審査は七日」

「遅い」

「だから、現行規則でできることを準備します」

「何ができる?」

 ティアは答えず、規則冊子の末尾を開いた。

 公開改訂手続き。

 競技円の安全文言を、競技中に変更できる例外条項。

 発動条件は、複数艇へ同一危険が生じ、既存規則が救難を妨げ、規則監督が中央記入点へ到達し、氏名と責任を公開すること。

「使える?」

「条件が揃えば」

「使ったら?」

「規則監督の中立性を失います。私の競技資格と監督権は停止。後日審査」

「それを今教える?」

「知っておく必要があります」

「ティアがそこへ行く道も地図に入れる」

 エリアが言った。

「まだ危機は起きていません」

「起きてから描けば間に合いません」

「起きると決めつければ、私たちが危機を作る」

「では、選択肢として描きます。使用しない道も同じ太さで」

 ティアは少し考えた。

「受け入れます」

「俺は?」とハル。

「明日の前に、もう一度だけ短い周回」とオルト。

「今度は壊さない」

「目標が低い」とロロ。

「完走する」

「もっと低い。練習一周」

「報告する」

 エリアが頷く。

「それです」

「勝つは?」

「報告の後です」

「助けるは?」

「報告と同時です」

「忙しい」

「競技ですから」

「救難じゃなく?」

「起源は救難でしょう」

 白環の向こうで、観客島の灯が点いた。

 花火の試射が一つ上がる。

 係留環の更新費で買われた光が、夜空へ開く。

 美しかった。

 美しいことと、正しいことは別である。

 だが人は、美しいものを正しいと思いやすい。

 ハルは透明箱を見ず、エリアの地図へ指を置いた。

「ここ、俺が返す」

「何を」

「変わった風」

「こちらは?」

「ロロの音」

「観客島の下は」

「ティアの道」

「身体の下が遅れたら」

「俺の地形。すぐ言う」

「約束?」

 ハルは止まった。

 約束という言葉は、彼の中でいつも少し重い。

「約束じゃなくて、更新」

「違いは?」

「できなかったら、できなかったって返す」

 エリアは一瞬、目を細めた。

「では、更新を待ちます」

 翌日の決勝図は、観客島へ近づいていた。

 その上へ、彼らは勝つためだけでない線を、まだ淡く、消せる色で描き足した。

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