第109話 第七章「前夜の六番目の椅子」前編
船には、乗っている人数より多くの椅子が必要である。
これは贅沢の話ではない。
帰ってこない者のために空ける席、まだ来ていない者のために用意する席、怪我人を横へ座らせる席、喧嘩した二人の間へ置く席。人間関係は、人数だけでは測れない。距離を取るためにも場所がいる。
反対に、椅子の数が人間を決めることもある。
席がない者は、話し合いへ呼ばれない。
名前の札がない者は、決定に数えられない。
座れない者は、いつまでも客である。
ゼロスター号の食堂には、五つの固定席と、一つの折り畳み席があった。
六番目だけ、背に紋章がない。
「切るな!」
「切らなければ入らない」
「入らないなら削れ!」
「削るのは切る行為に含まれる」
「含めるな! 整備語と規則語を混ぜると工具が死ぬ!」
「工具は死なない」
「気持ちが死ぬ!」
決勝前夜、午後七時二十分。
ゼロスター号の食堂で、ロロとティアが椅子を挟んで争っていた。
紋章のない折り畳み式の客員席。
ティアは背板を外し、右側の脚へ細い支えを追加しようとしている。長時間座った後、右膝を伸ばす時に痛みが出るためだ。
「支え材が二ミリ長い」とティア。
「膝は明日も同じ角度じゃない! 二ミリ逃がせ!」
「固定具に遊びを作れば、着艇衝撃で振れる」
「だから軟留めを入れる!」
「軟留めは劣化する」
「人間も劣化する!」
「その表現は不適切です」
「膝はもっと怒ってる!」
マオが床へ座り、二人を見上げている。
左脚の装具は外し、膝下へ薄い布を巻いていた。彼女は椅子へ座れる。だが修理中の机下へ手を入れるには、床の方が早い。
「先に聞いた?」
「何を」とティア。
「椅子を直していいか」
「客員席の使用者は現状、私です」
「船に」
ティアが止まった。
ロロの補助腕も止まる。
「船の持ち主は?」
マオが続ける。
「王家試験艇の登録は学院。廃船部品はロロ。操船権は共同。椅子は誰の?」
「家具登録はわたくしの管理ですわ」
食堂入口からドランが言った。
「なぜ?」とハル。
「購入費を立て替えました」
「じゃあドランの椅子?」
「そう申し上げると、座るたび使用料を取る人物のようでしょう」
「取らない?」
「取る案はあります」
「あるんだ」
「減価償却という礼儀ですわ」
「椅子へ礼儀を使うなよ」
「尻へ使うより上品です」
カイルが銀盆を持って入ってきた。
「議論の途中だが、医務室から栄養果実が届いた」
銀盆には、赤い苺が十二粒。
「何粒食べた?」とエリア。
「届いた時から十二だ」
「盆の凹みは十五個です」
「三つは検品」
「口で?」
「王太子の責任として毒味した」
「医務室から来た苺を?」
「学院長が最も油断ならない」
通信筒からリディアの声がした。
「残り十二粒のうち、カイル殿下は二粒までです」
「聞いていたのか」
「医務連絡筒を食堂へ置いたままにしたのは殿下です」
「これは監視では」
「服薬確認です」
「苺は薬か?」
「殿下にはなります。食欲がないと嘘をついた時の確認に便利です」
「食欲はある」
「では一粒」
「減った」
エリアが盆を取り上げた。
「十二人で分けます」
「ここに十二人いない」とハル。
「明日の朝の分を含めます」
「朝まで残る?」
全員がカイルを見る。
「信用がない」
「実績があります」とリディア。
「その台詞、今朝も聞いたぞ」
「実績は一日で消えません」
夕食は、ロロが廃熱炉で焼いた平パン、エリアが注文した白身魚の香草蒸し、ハルが市場から買った赤い揚げパン、ティアが持ち込んだ香辛料壺だった。
「壺を置け」とマオ。
「まだ一匙です」
「一匙が山」
「規定量です」
「誰の規定」
「私の」
「むせる規定?」
「今日はむせません」
ティアは魚へ香辛料をかけた。
一度決めた量を、毎回変えない。
粒の細かい赤粉が、白身魚をほぼ見えなくした。
「それは魚を食べるのですか、香辛料へ魚を添えるのですか」とエリア。
「味の均一化です」
「舌を均一に焼く?」とハル。
「辛味は痛覚ではありますが、適切な刺激は――」
一口。
ティアの目が止まった。
「大丈夫?」
「問題、ありま……せ……」
咳が一つ。
二つ。
三つ。
カイルが水差しを渡す。
「規定量だろう」
「本日は粉が、細かい」
「規則は同じでも条件が違った?」とマオ。
ティアは咳をしながら、暗い赤褐色の瞳でマオを見る。
「反論を、認めます」
「次から先に舐める」
「量を変えるのではなく?」
「変える」
「二つ同時は」
「変えろ」
ノクスが卓上へ前脚をかけ、香辛料壺を嗅いだ。
即座に二本の尾が逆立つ。
「ノクスでも嫌なんだ」とハル。
夜獣はハルを見てから、壺を前脚で遠くへ押した。
「多数決、二対一」とマオ。
「ノクスは投票資格を申請していません」
ノクスが低く唸る。
「申請なしでも意思はある」とハル。
「……第三票として記録します」
ティアは水を飲んだ。
客員席には、まだ背板がない。
彼女は壁へ寄りかかるように座っている。
「直すの、明日にする?」とハル。
「今夜終えます」
「決勝前だよ」
「だからです。決勝後に私がこの船へ乗るとは限らない」
食卓が少し静かになった。
ロロが平パンを裂く音だけがする。
「学院に残る?」とハル。
「未定です」
「船に乗る?」
「未定」
「決めてないのに椅子を直す?」
「決めた後でしか準備しない者は、選択肢を一つずつ失います」
「準備すると、決めたみたいになることもある」
「だから紋章を入れません」
ティアは外した背板へ、細い刃先で円を刻んでいた。
完全な円ではない。
上部が一センチほど開いている。
「規則円?」とエリア。
「はい。ただし閉じません」
「未完成?」
「改訂口です」
「円へ入口を作る?」とハル。
「出口でもあります」
「どっち」
「使用者が決めます」
「ティアが作って、他の人が決める?」
「そういう規則を作りたい」
彼女は刃を止めた。
「私がいなくなった後、別の者がこの席へ座るかもしれない。右膝の支えが不要なら外せる。左側に必要なら付け替えられる。だから溶接せず、穴位置を残す」
「生活痕を、命令にしない」とエリア。
「はい」
「でも消さない」とロロ。
「消せば、最初から誰も困らなかったように見える」
ロロは少しだけ頷いた。
「それは嫌いじゃない」
「評価として受理します」
「好きって言ってない」
「嫌いではないは、ゼロより上です」
「点数にするな!」
ロロの補助腕が、背板の支え材を掴んだ。
「二ミリ逃がすぞ」
「一ミリ」
「二」
「一・五」
「道具に小数を持ち込むな」
「目盛りがあります」
「あるからって使うな!」
「一・五」
「……一・五」
交渉は成立した。
食後、ゼロスター号は決勝前の最終整備へ入った。
ロロとマオが機関室。
カイルは医務条件表を読みながら盾籠手の冷却管を点検。
ドランは競技保険の免責欄を赤線で埋める。
ティアは客員席。
オルトは甲板で役割別の命令札を並べる。
セレナは明日の監査羽を一枚ずつ時刻合わせしていた。
船は、出発前ほど生活音が多い。
金槌、紙、咳、足音、食器、水管、歯車。
飛ぶ機械が飛ぶ前に出す音は、すべて「まだ人がいる」という音だった。
ハルは機関室へ顔を出した。
「手伝う」
「何を」とロロ。
「何か」
「その返事が一番邪魔。右舷の緊締索を、赤印まで引く。肩は頭上にしない。力じゃなく体重。分からなければ聞く」
「分かった」
「復唱」
「右の紐、赤まで、肩上げない、力じゃなく体重、分からなかったら聞く」
「紐じゃなく緊締索」
「分からない」
「今聞くな!」
「聞けって」
「タイミングも技術!」
マオが笑った。
「ロロ、先に答える。緊締索。片帆の骨を船腹へ寄せる索。引きすぎると曲がる」
「ありがとう」
「対価」
「何がいい?」
「明日、吐き気を言う」
「それで払える?」
「払える」
ハルは緊締索を持った。
赤印まで体重をかける。
「痛み」とマオ。
「肩零。手二」
「手?」
「まめが開いた」
「見せる?」
「見せる」
ハルは掌を出した。
小さな皮剥け。
「消毒」とマオ。
「このくらい――」
「このくらいを言えたから、次も言える」
「毎回?」
「毎回」
「面倒」
「面倒を省くと、誰かが勝手に心配する」
「心配も減らす?」
「選べるようにする」
ハルは消毒液を受け取った。
小さな痛みを見せる練習は、大きな助けを求める練習でもある。
人は危機の時だけ急に上手く頼れるようにはならない。