第110話 第七章「前夜の六番目の椅子」後編
甲板では、ティアが折れた双規刃の古い測定片を磨いていた。
双規刃アレイオンそのものではない。
落第門の外壁試験で欠け、嵐庭園の救難で長さを測る補助片として使った薄い星鉄。目盛りの一部が残っている。
「捨てないんだ」とハル。
「長さが変わっても、測れます」
「折れたところから?」
「ゼロ点を引き直せば」
「前のゼロは?」
「傷として残す」
ティアは片を二つに切った。
片方に一から六までの目盛り。
もう片方に七から十二。
合わせれば一本の定規になる。
離せば、それぞれ不完全な目盛りを持つ。
「何?」
「対になる航路札の試作です」
「どこへ付ける?」
「決めていません」
「誰が持つ?」
「決めていない」
「また準備だけ」
「はい」
「片方だけだと測れない」
「一から六は測れます」
「七から十二は、ゼロがない」
「だから、どこから数えたか覚える必要がある」
「面倒な札」
「関係は、便利すぎると命令になります」
「どういう意味?」
「離れていても必ず分かる札なら、分からない自由がない。いつでも呼び戻せる札なら、帰らない選択がない。これは、互いが測ろうとした時だけ使える程度でよい」
「でも、片方をなくしたら?」
「残った方へ、なくした事実が残る」
ハルは七から十二の片を指で触った。
「冷たい」
「星鉄ですから」
「ティアも?」
「私の体温は正常です」
「そういう意味じゃない」
「分かっています」
彼女は、少しだけ口元を緩めた。
「明日の後、私は規則監督として責任を問われるかもしれません。何も起きなくても、隠し採点を見抜けなかった責任がある。学院へ残り、改訂を進める道。救難班として外へ出る道。ゼロスターへ乗る道。家へ戻る道。どれもあります」
「どれが正しい?」
「正しい道が先にあるなら、地図は一枚で済みます」
「エリアが怒る言い方」
「彼女なら、選択肢を重ねると言うでしょう」
「ティアは?」
「選んだ者が、後で異議を受けられる規則を作る」
「俺は?」
「走る前に報告する」
「そこへ戻る?」
「最重要事項です」
夜十時。
甲板の整備灯が一つずつ消えた。
白環は王都の外で淡く回り、月を横倒しにしたような光の筒を作っている。
エリアは船首にいた。
地図卓の透明板を洗い、乾いた布で一枚ずつ拭いている。
ハルは隣へ座った。
「寝ないの」
「あなたへ言われたくありません」
「俺は今から寝る」
「その前に来た?」
「うん」
「何を」
「更新」
エリアの手が止まった。
「肩一。吐き気零。手のひら一。怖さ……二」
「何が」
「明日、針なしで間に合わないかもしれない」
「はい」
「そこは大丈夫って言わない?」
「言えません」
「言ってくれてもいいのに」
「根拠のない安心を欲しいのですか」
「少し」
エリアは透明板を膝へ置いた。
「では、根拠のある範囲で。今日、あなたは一度失敗し、報告し、船を直し、壁の回転を見つけました。明日も失敗する可能性があります。報告できれば、私たちは地図を変えられます」
「安心が硬い」
「柔らかい嘘より長持ちします」
「エリアは怖くない?」
「怖いです」
「何が」
「私の描いた道が、人を落とすこと」
即答だった。
「観客島の落下線を、地図へ入れました。可能性は低い。けれど線を描くと、起きる未来を私が作ったように感じる」
「描かなくても起きる」
「分かっています」
「描いたら助ける道も作れる」
「分かっています」
「じゃあ」
「分かることと、怖くないことは別です」
ハルは白環を見た。
「俺、地図の外へ行くの、嫌いじゃない」
「知っています」
「線がないところ、自由だから」
「本当に?」
「……たぶん」
「線の外へ行けば、失敗しても地図のせいにしなくて済むからでは?」
ハルは黙った。
言葉が、痛い場所へ正確に当たる。
「誰にも頼らなければ、誰かの道を間違いにしなくて済む。自分だけ落ちればいい。そう考えていませんか」
「少し」
「それは自由ではありません」
「じゃあ何」
「一人で責任を独占する癖です」
「責任って、取った方がいいだろ」
「参加する権利まで取らないでください」
エリアは彼の方を見る。
「明日、私の地図の外へ勝手に走らないで」
「線の中だけ?」
「違います」
「じゃあ」
「外へ行くなら、更新を返して。今どこにいる。何が変わった。何が見えない。何を手伝ってほしい。私は線を描き直します」
「間に合わなかったら?」
「間に合わないと伝えます」
「俺が勝手に決める?」
「最後はあなたが選ぶ」
「エリアが決めない?」
「私の道は提案です。命令ではない」
「でも、守ってほしい?」
「はい」
それは彼女にとって、難しい言葉だった。
正確な地図を出すことより、誰かに戻ってきてほしいと言う方が難しい。
「分かった」
「即答しないで」
第一章と同じ言葉。
ハルは考えた。
一、二、三と数えた。
「分かった。戻す」
「何を」
「更新。風、傷、吐き気、見えた人。あと、助けてって言う」
「誰に」
「エリアに。みんなに」
「私だけではない?」
ほんの少し、右眉が上がる。
「エリアが最初」
「順番に意味がありますか」
「ある」
「何です」
「一番近い地図だから」
エリアは口元へ右手を当てた。
笑いを隠す癖。
「それは褒め言葉?」
「たぶん」
「たぶんを訂正してください」
「褒めた」
「受け取ります」
少し沈黙。
白環が回る。
「明日の祝勝会」とハル。
「まだ勝っていません」
「終わった会」
「慰労会です」
「踊る?」
「白環杯の伝統では、完走者が一曲」
「月冠祭の夜の借り、返せる?」
「あなたが私の足を踏まなければ」
「あの時は踏んでない」
「踊ってもいません」
「だから借り」
「では、完走したら一曲」
「約束?」
今度はエリアが止まった。
「更新可能な予定です」
「逃げた」
「あなたの言葉です」
「使い方が上手い」
「地図ですから」
二人は笑った。
食堂へ戻ると、六番目の椅子が完成していた。
右側へ一・五ミリの遊びを持つ膝支え。
取り外し可能な固定具。
背板には上が開いた規則円。
座面の裏に、ロロの字で修理費。
その横にマオの字で『先に聞く』。
ティアは椅子へ座り、右膝を伸ばした。
「痛み」とマオ。
「零」
「本当?」
「零・五」
「最初から言う」
「訂正しました」
「遅い」
「次は早く」
ロロが満足そうに工具を片付ける。
「椅子、誰に請求?」
「私へ」とティア。
「船へ残すなら半分船」
「残すと決めていません」
「外した穴は残る」
「では、穴の分だけ船」
「穴の値段って何だよ」
「あなたが請求したのです」
「会計に新しい地獄を作るな!」
ドランが真顔で帳簿を開いた。
「減価後残存穴価値として――」
「乗るな!」
皆が笑った。
六番目の椅子は、誰かを留めるために完成したのではない。
残っても、離れても、座った事実が消えない形になった。
その夜、ティアは二つの測定片を別々の布へ包んだ。
片方は自分の制服の内ポケット。
片方は、まだ結ばず、客員席の座面下へ置いた。
決めていないことを、何もしていないことにはしなかった。
白環の回転音が、船腹を低く撫でる。
明日、彼らは速さを競う。
同時に、何を遅らせてでも守るかを競うことになる。
====================================