第111話 第八章「白い嵐の内壁」前編
速い船は、美しい。
これは造船家の言葉であり、王侯の言葉であり、しばしば敗者へ費用を払わせる者の言葉でもある。
帆の線、船首の角度、無駄のない旋回。速さは複雑な事情を一枚の絵へ畳む。誰が部品を磨いたか、誰が古い帆を縫ったか、誰が危険な採掘場で星鉄を掘ったか、誰が席を譲ったか。勝利の瞬間、それらは船名の後ろへ吸い込まれる。
ゆえに競技史は、勝者の名をよく覚え、勝者を走らせた無数の遅い手を忘れる。
ゼロスター号は、その忘れられやすい手を、船体の傷として外へ出していた。
焦げた旧帆。
継ぎ目の違う外板。
下面区の廃船から拾った歯車。
王家試験艇の操舵輪。
昨日曲げ、夜に戻した可変帆骨。
六番目の椅子へ追加された、一・五ミリの遊び。
美しいかどうかは、見る者次第である。
速いかどうかは、これから決まる。
決勝当日、午前八時五十七分。
白環の入口に十二隻の学院艇が並んでいた。
北塔学院の長翼艇は、帆が二枚とも水平へ伸び、風を刃のように切る。
鏡砂学院の双胴艇は、左右の船体間へ光膜を張り、抵抗を減らす。
穀倉空域から来た緑梁学院の重艇は、競技艇らしくない幅広の腹を持つ。普段は穀物と家畜を運ぶ設計で、直線では遅いが、横風へ強い。
昨年優勝の蒼塔学院艇は、船首から船尾まで銀白一色。傷一つない。
ゼロスター号は、その隣で左右の帆色が違う。
「見た目の時点で負けてる」とハル。
「何に」とロロ。
「揃い方」
「揃える金があったら中身替える」
「美観点はありません」とティア。
「隠し採点には?」
「本日から監査対象外の採点は停止されています」
「停止されてる、よね?」
「公式には」
「怖い言い方」
「確認を続けます」
ティアは競技服の上へ、規則監督の白帯を巻いている。
右膝には薄い固定布。風紀隊長の左右対称な赤布ではなく、嵐庭園の救難で各班から受け取った救難布が、左右違う幅で肩へ縫われていた。
エリアは地図卓へ十二枚の透明板を重ねる。
「最終確認。第一区間、内壁下降。第二、雷縫い。第三、無重力帯。第四、第三加速区。第五、折返し環。そこから逆路で帰還」
「最短は」とハル。
「白線。安全余裕は黄線。観客島の予測移動域は赤い半透明」
「救助線」
「まだ描きません」
「起きたら?」
「あなたが更新を返す。私が描く」
「了解」
「身体条件」
「肩零。吐き気零。手一。怖さ二」
「受領」
カイルは盾籠手を締める。
「盾、半出力六息。再使用三十息。使用前に守る人数、使用後に痛み」
「復唱できてる」とハル。
「お前と違って優等生だ」
「肋骨を打撲って言った優等生?」
「過去の実績を現在へ持ち込むな」
「実績は一日で消えません」
「学院長の言葉を盗むな」
「王太子が苺を盗むより軽い」
「検品だ」
「三粒」
「今は二粒ということになっている」
「罪が減った」
「申告が通った」
「通していません」とエリア。
ロロが操機盤を叩く。
「可変帆骨、全部応答。右帆新布、左帆旧布。右は速く開く、左は遅く閉じる。間違えるなよ」
「船に言ってる?」とハル。
「お前ら全員」
「ノクスは?」
船首で黒い夜獣が二本の尾を上げた。
「布環、固定。首輪なし。落ちた時は自力帰還を優先」とティア。
ノクスが不満そうに鼻を鳴らす。
「『落ちない』だって」とハル。
「翻訳の根拠は」
「顔」
「記録しません」
通信筒が鳴る。
『第六観客島、救難補助班。通信確認』
マオの声だった。
競技資格を失った彼女は、観客席から追い出される代わりに、本人の希望で島の救難補助へ入った。
最初、委員会は「負傷者は休養」と決めた。マオは「私は負傷者でもある。だから何ができるか先に聞け」と異議を出し、左脚へ負担の少ない誘導板担当を選んだ。
「聞こえる」とハル。
『私は選手じゃない。競技指示はしない。島の状態だけ送る』
「係留」
『主環一、二、正常。三、張力高め。四、通常。避難表示、低い位置へ仮札を追加した。委員会の正式板は間に合ってない』
「マオの札は?」
『紙。濡れたら終わる』
「終わる前に読む」とハル。
『読ませる。そっちは』
「肩零、吐き気零」
『聞いてない』
「でも送る」
一拍。
『受理』
オルトの声が続く。
『各員、役割を一つ。マオ、低位置誘導。係員班、避難艇三。観客区画長、人数。ゼロスター、競技へ集中。異常は報告』
「復唱。競技へ集中、異常は報告」とエリア。
白環入口の周囲に、円内へ同じ制限を課す陣〈イコール・リング〉が開いた。
十二隻の艇へ、同じ最大帆圧。
同じ外部加速禁止。
同じ武装封印。
同じ通信帯。
「同じ」は公平の第一歩である。
最後の一歩ではない。
重い船と軽い船へ同じ帆圧を課せば、軽い方が有利になる。
肺の強い者と弱い者へ同じ詠唱時間を課せば、弱い者だけが倒れる。
同じ規則を配ることと、同じ機会を作ることは違う。
それでも、少なくとも誰か一隻だけが秘密の追風を買うことはできない。
できないはずだった。
開始鐘が鳴る。
一音目。
艇の固定環が外れる。
二音目。
十二隻の帆が開く。
三音目。
「行け!」
ロロが叫んだ。
ゼロスター号が白い嵐へ突っ込んだ。
最初の壁は、下にあった。
次の瞬間、左にあった。
白環の内壁は、巨大な筒の内側を走る道である。船は底を飛ぶのではない。風の圧力が最も安定する面を選び、その面を地面として走る。
十二隻が扇状に広がる。
蒼塔学院艇は中央線へ。
北塔長翼艇は上側の薄い風層へ。
鏡砂双胴艇は二隻分の幅を活かし、乱流をまたぐ。
緑梁重艇は外側へ押されながら、揺れずに進む。
ゼロスター号は一度沈んだ。
「右旋回準備!」とエリア。
「沈める!」
ロロが右帆を半閉じ、左旧帆を残す。
船体が内壁へ近づく。
「今!」
右帆全開。
新布が瞬時に風を噛む。
左旧帆は半拍遅れて閉じる。
非対称の遅れが、船を弾いた。
ゼロスター号は中央線の下を潜り、二隻を抜く。
「欠点で加速した」とハル。
「遅れを予定に入れた!」とロロ。
「それ、欠点じゃない?」
「直せない癖を使えるようにしたら特性!」
「便利な言葉」
「修理屋は言葉でも直す!」
ハルは右舷足場へ出た。
白壁が目の前を流れる。
競技線の淡い光。
古い救難灯の黄。
昨日見つけた長い擦り傷。
「第七区画、壁傷通過。風、右十一。昨日より三弱い。灯は一・九右のまま」
「受領。黄線を〇・八内側へ」とエリア。
「身体、下遅れ零」
「受領」
言う。
毎回。
小さな変化を、恥ずかしがらずに言う。
言葉は船を速くしないように見える。
実際には、後で起きる大きな間違いを減らすことで、最も長い加速を作る。
前方に白い隆起。
内壁の整流骨が、三枚重なっている。
「三連骨。高さ四、間隔六、最後だけ右へ傾き」とハル。
「一枚目を上、二枚目下、三枚目中央」とエリア。
「通れる?」
「通す」
「強い」
「地図ですから」
ゼロスター号が一枚目を駆け上がる。
船首が壁と直角になる。
二枚目で帆を閉じる。
無推力のまま落ちる。
三枚目の隙間へ、片帆を縦にして滑り込む。
船腹と白骨の間、二十センチ。
ロロの四本の補助腕が全部縮む。
「当てるな当てるな当てるな――!」
抜けた。
「無傷!」
「請求なし?」とハル。
「精神損耗費!」
「何でも取る」
「生き残るため!」
順位板が光る。
ゼロスター、五位。
第二区間、雷縫い。
白環の内壁には、風が薄くなる裂け目がある。
そこへ周囲の星電が集まり、上下から稲妻が縫い合わさる。
道は、雷が消えた瞬間だけ開く。
「周期?」とハル。
「九・七秒」とロロ。
「前の船で乱れる」とエリア。
「蒼塔が二秒前、北塔が一・四。残留電荷を足して――次、七・八!」
「七・八で帆を全閉。六息滑空。再開は青光後」
「盾は?」とカイル。
「温存」とエリア。
「了解」
白い裂け目の上下で、雷が走る。
銀の枝が結び合い、一瞬の格子を作った。
「三、二、一、閉!」
ロロが帆を畳む。
推力が消える。
船は風の中で石になる。
ハルの胃が浮く。
「吐き気一。下遅れ一」
「受領。目を船首固定」とエリア。
「見えてる」
「見えることと、身体が信じることは別」
「今それ言う?」
「今必要です」
ゼロスター号は雷格子の消えた隙間へ滑る。
一息。
左側で北塔艇の長翼が残留電荷を拾い、青く光る。
二息。
鏡砂艇の光膜が雷を反射し、予定外の枝が右から伸びた。
「右枝!」
三息。
ハルが艇外の導電索を蹴り上げる。
稲妻が索へ移る。
四息。
索が赤熱。
「切れ!」とロロ。
ハルは安全刃で導電索を切る。
左肩は上げない。腰を落とし、右手で引く。
五息。
焼けた索が後方へ飛び、雷を連れていく。
六息。
「青光!」
帆が開く。
新しい右帆が先、旧い左帆が半拍後。
船体が斜めに回り、閉じかけた雷の縫い目から抜ける。
後方で、緑梁学院の重艇が雷格子に挟まれかけた。
「緑梁、右側が遅い!」とハル。
「競技通信へ」とティア。
エリアが共有帯へ叫ぶ。
「緑梁、右残留電荷二秒! 左へ帆圧を寄せて!」
『情報受領!』
重艇が左へ傾き、雷を避ける。
順位板で、ゼロスターの規定航路点が一瞬点滅した。
「他艇助言は妨害?」とハル。
「禁止されていません」とティア。
「点が下がりそう」
「下げたら異議を出します」
「速い」
「準備済みです」