第112話 第八章「白い嵐の内壁」後編
雷縫いを抜けると、音が消えた。
第三区間、無重力帯。
白環の回転と星脈流が一時的に釣り合い、上下がなくなる。
帆に残った水滴が丸い珠になり、工具の小片が宙へ浮く。
「誰だ固定してないの!」
ロロが飛ぶ六角ナットを補助腕で捕まえる。
「ピコ」とハル。
真鍮の機械鳥が知らない顔で羽を畳む。
「証拠は?」
ピコは口から同じ規格のナットを一つ出した。
「増えた!」
「返したんじゃない?」
「どこから!」
ノクスは船首から浮き、二本の尾を別方向へ広げた。
前脚の赤布だけが、かすかな流れに引かれる。
「ノクス、右尾が内流」とハル。
夜獣が一度鳴く。
「本人へ確認しましたか」とティア。
「今、した」
ノクスがもう一度、少し強く鳴いた。
「違うらしい」とカイル。
「じゃあ何」
ノクスは左尾で船首、右尾で白壁を示した。
「船首側が進行流。壁側が戻り流」とエリア。
彼女の地図線が立体へ開く。
透明な螺旋が、船の周囲を走る。
「中央は無風。外周の薄い戻り流を右帆だけで拾う。左帆は閉じたまま」
「片帆が本当の片帆になる」とロロ。
「いつも片帆だろ」
「今日は胸を張れる片帆!」
ゼロスター号が右帆だけを開く。
推進ではなく、戻り流へ引っ掛ける。
船体が横向きのまま前へ滑った。
蒼塔艇は両帆を均等に開き、中央の無風へ留まる。
北塔艇は長翼が流れを拾いすぎ、回転する。
ゼロスター号が二隻を抜いた。
順位、三位。
「首位まで二十七!」とロロ。
「単位」とエリア。
「メートル!」
「時間差は」
「三・一秒!」
「追えます」
「勝てる?」とハル。
「今の地図では」
「今の答えがいい」
ハルは船外の手すりを掴む。
身体の下がない。
前も後ろも、自分で決めなければならない。
「下遅れ?」
「下がないから零」
「吐き気」
「一。面白さ三」
「最後は不要」
「受け取って」
「受領」
無重力帯の中央で、審査艇が近づいてきた。
競技艇より外側の監督路。
白い船体。
側面の受信環は、昨日の保全命令で封印板を付けられている。
流向誘導器も使用停止の赤札が巻かれている。
「距離、五十」とティア。
「通常監督距離は百二十以上です」とエリア。
「審査艇へ照会」
ティアが通信を開く。
「競技規則監督グランツ。貴艇、監督路内側へ七十メートル侵入。理由を」
『測定ではない。無重力帯での安全監視だ』
白手袋の審査官の声。
「他艇への距離は」
『最も危険度の高い艇を優先する』
「危険度の根拠」
『昨日の練習事故』
「本人の医務条件は出場可です」
『出場可と安全は同義ではない』
「接近が流れへ与える影響を計算していますか」
『審査艇は中立翼を使用している』
ロロが顔をしかめた。
「中立じゃない」
「何が」とハル。
「音。右の安定板、鳴ってる」
「封印は?」
「誘導器の主弁は閉じてる。でも審査艇が近づくだけで、船腹が戻り流を押す。大きい船が細い水路へ入るのと同じ」
「意図的?」
「動けば分かってるはず。知らないなら審査艇に乗るな」
審査艇がさらに十メートル近づく。
無重力帯の戻り流が圧縮された。
ゼロスター号の右帆が急に膨らむ。
「帆圧二倍!」
「閉じて!」
ロロが右帆を畳む。
だが新布は速く開く代わりに、強圧時の閉鎖が半拍遅い。
船体が回る。
ハルの身体の中へ、突然「下」が生まれた。
審査艇側へ落ちる感覚。
「下遅れ二! 吐き気二!」
今度はすぐ言った。
「交代!」とオルトの遠隔声。
「艇外から戻る!」
ハルは両手で手すりを掴み、腰索へ体重を預ける。
片腕で耐えない。
船首の透明箱が白く光った。
零星針が、蓋の内側で震えている。
針はない。
なのに中央の空白から、細い白線が生まれ、審査艇と白壁の間へ向こうとする。
失われた原因を指す針。
危険流の原因を探せば、すぐに答えを出せる。
箱の鍵片が、ハルのマフラーで熱くなった。
「開封条件」とティア。
「二者合意が必要」
セレナの声が通信へ入る。
『私は現時点で同意しません。原因は観測可能です』
「ロロ」とハル。
「俺も同意しない! 審査艇の船腹圧! 針じゃなくて見えてる!」
「俺も開けない」
『三者不一致ではなく、三者一致の不使用』とセレナ。
審査艇の圧力波がもう一度来る。
「エリア、道!」
ハルは叫んだ。
「現在地返して!」
「審査艇まで三十八! 右帆閉鎖遅れ半拍! 身体は下が艇側、目は壁側!」
「受領。船を逆へ回します。ロロ、左旧帆を開いて」
「遅いぞ!」
「遅いから使う!」
左の旧帆が開く。
新帆より半拍遅い。
「カイル、盾は?」
「守る人数六! 半出力、六息!」
赤金の王盾が、船腹と審査艇の間へ斜めに開いた。
流れを止めない。
面を傾け、圧力波を上へ逃がす。
一息。
ゼロスター号の回転が緩む。
二息。
左旧帆がようやく風を噛む。
三息。
遅れた力が船尾を押す。
四息。
船が審査艇へ背を向ける。
五息。
戻り流から脱出。
六息。
盾が消える。
「保護六。肋骨二、右腕一。再使用三十!」
「受領」とエリア。
「下遅れ一へ。吐き気二」とハル。
「船内へ」
「戻る」
ハルは索を巻き、両足で甲板へ着地した。
審査艇は外側へ離れた。
『接近による流況変化は確認した。安全監視上の誤差だ』
「誤差で船は一回転します」とティア。
『記録し、後日検証する』
「今、距離を取ってください」
『了解』
「命令違反を認めますか」
『競技後に』
「今、事実だけ。監督距離を破った?」
一拍。
『破った』
「記録します」
ティアは白帯へ時刻を書き込んだ。
ハルは透明箱を見た。
光は消えている。
「使わなくて間に合った」と言う。
「一人ではありません」とエリア。
「うん」
「そこは訂正しない?」
「みんなで間に合った」
「受領」
ゼロスター号は一度、七位まで落ちた。
競技は、正しいことをした者へ待ってくれない。
危険を避け、報告し、盾を使い、規則違反を記録している間にも、他艇は進む。
だが、遅れた者には遅れた者の道がある。
「第三加速区まで四十秒」とエリア。
「盾冷却、残り十七」とカイル。
「帆骨四、震え二。機関余力二十一」とロロ。
「吐き気一へ。肩零」とハル。
「規則上、審査艇接近による経路離脱は補正対象。後で申請」とティア。
「後で順位戻る?」
「時間は戻りません」
「じゃあ今追う」
「勝手にではなく」とエリア。
「更新返す」
第三加速区。
白環の内壁が急に細くなり、風が一本の川になる。
公式最短路は中央。
だが中央には、前艇の乱流が重なる。
「古い救難灯、左下!」とハル。
「壁回転後の位置補正、三・二度」とエリア。
「見える。今の灯じゃなく、昨日の傷を基準!」
「受領。黄線を旧位置へ再投影」
地図卓から淡緑の線が伸びる。
救難灯そのものではなく、壁の傷と固定骨格から復元した古い安全流。
「左下へ十五!」
「片帆、沈める!」
ゼロスター号が中央の乱流を捨て、壁すれすれへ潜る。
一隻抜く。
二隻。
三隻。
鏡砂艇の下を、船腹を横にして滑る。
北塔長翼艇の翼端と、ハルのマフラーが一メートルの距離ですれ違う。
「近い!」
「距離〇・九!」
「報告は正確!」
「怖さ四!」
「受領!」
風が爆発する。
片帆のゼロスター号が、白い筒の内壁を斜めに駆け上がった。
順位、四位。
三位。
折返し環が見える。
首位の蒼塔艇まで十二メートル。
二位の北塔まで七。
「届く」とハル。
「今の地図では」とエリア。
「それでいい」
決勝前半の終わり。
ゼロスター号は首位へ手を伸ばした。
その瞬間、第六観客島の下面で、主係留環四が鳴った。
マオは低位置の避難札を貼り直していた。
左脚の装具を床へ固定し、子供の目の高さへ青い矢印を付ける。
音は、鐘に似ていた。
けれど鐘は、鳴るために吊られている。
係留環は、鳴らないために力を受ける。
「オルト」
『何だ』
「四番、音」
『種類』
「高い。一回。金属の中」
『張力計』
マオは下面計器を見る。
「四、黄色。上がってる。三も黄色」
『係留班、四番確認。観客区画長、着席継続。避難艇三、暖機』
「競技へ送る?」
『状態だけ』
マオは通信を開いた。
『ゼロスター。島四番、張力黄色。三番も上昇』
白環の中で、ハルが応える。
「受領。まだ切れてない?」
『切れてない』
言った直後だった。
主係留環四の内側で、七年分の磨耗が一つにつながった。
星鉄の表面は、前日まで持っていた。
朝も持った。
開始鐘も持った。
十二隻の第一加速も持った。
審査艇が無重力帯へ押し込んだ余波も、ぎりぎり持った。
物が壊れる時、最後の力だけが原因ではない。
持ち続けた全ての時間が、最後の一押しへ集まる。
環が割れた。
太い係留索が跳ねる。
下面骨組みを打ち、広告塔の支柱を切り、白い火花を散らした。
観客島が、右へ一度傾いた。
客席で悲鳴。
飲み物が流れ、椅子が滑り、鏡幕が風を受けて膨らむ。
「四番、切断!」
マオが叫ぶ。
白環の中で、エリアの赤い半透明域が動いた。
首位まで十二メートル。
観客島まで、落下が始まるかもしれない距離。
ゼロスター号は、折返し環へ届こうとしていた。
その上で、競技とは別にされた島が、競技の内側へ影を落とした。
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