第114話 第九章「最短航路の罠」後編

 エリアは、公式最短線を見つめた。

 折返し後、観客島の下を斜めに通る。

 島が一メートルも動かなければ、最速。

 十メートル動けば、乱流。

 二十一メートル動けば、係留索の振れ域。

 四十八メートル動けば、避難艇発進域と衝突。

 七十四メートル動けば、落下線。

 観客島はすでに、平常位置から十七メートルずれている。

「最短路が罠です」

 エリアは言った。

「誰かが仕掛けた?」とハル。

「意図は分かりません」

「でも罠?」

「最短であることを優先すると、危険へ近づく構造です。作った者が島を落とすつもりだった証拠はない。けれど、島が動く可能性を知った後も線を戻さなかった」

「針を使わせるため」

「その目的は帳面にあります。事故を望んだとは言えません」

「事故じゃないならいい?」

「いいえ。危険を許容し、測定を優先した」

「違いは?」

「責任を正しく問うために必要です」

「今は?」

「助けるためには、意図より動きを見ます」

 エリアは公式最短線を消した。

 指先が少し震えた。

 勝つために描いた線。

 ハルの正式資格へ最も近い線。

 自分の航路士としての評価を証明する線。

 消す。

 地図の誤りを認めることは、地図を捨てることではない。

 訂正できない地図の方が、地図ではない。

「新しい線を描きます」

「救助?」

「まだ島は落ちていません」

「じゃあ何の線」

「落ちても、落ちなくても使える線」

「そんなのある?」

「作ります」

 透明板へ三層の道が開く。

 第一層。

 ゼロスター号は折返し環を中央ではなく下端で通る。順位は落ちるが、旧救難流へ近い。

 第二層。

 壁回転前の古い救難灯を、固定骨格から三・二度補正して追う。公式線外へ出るが、白環の圧力が低い。

 第三層。

 観客島が保持された場合は、そのまま外周を回って復帰。

 落下した場合は、島下面の第二区画へ入り、避難艇発進域を空ける。ゼロスター号は橋材を運び、他艇へ共有座標を送る。

「勝つ線は?」とカイル。

「ありません」

 エリアは答えた。

「完走する線は?」

「あります。ただし最下位になる可能性が高い」

「資格は」とハル。

「公開基準では完走が必要。順位は不要」

「隠し基準は」

「無効を争います」

「じゃあ行く」

「即答しないで」

「今、考える時間ある?」

「十秒」

 ハルは白環の先を見る。

 折返し環まで二十メートル。

 一。

 観客島には二千人以上。

 二。

 島はまだ落ちていない。

 三。

 競技を続ければ、勝てる可能性がある。

 四。

 救助へ向かえば、何も起きなかった時にただ失格になるかもしれない。

 五。

 何も起きないことを望みながら、起きた時に間に合う道を選べる。

「行く」とハル。

「理由」

「落ちるって決めたからじゃない。落ちなくても戻れる道だから」

 エリアは頷いた。

「受領」

 カイルが笑う。

「王太子命令は必要か?」

「ない」とハル。

「少しは使わせろ」

「じゃあ何か言って」

「全員、生きて帰れ」

「大きい」

「王太子だからな」

「役割へ分けてください」とオルト。

「厳しい」

 カイルは通信筒を持つ。

「ロロ、船を残せ。エリア、道を消すな。ティア、規則を記録しろ。ハル、戻って報告しろ。俺は盾を六息以上出さない」

「最後、自分?」

「最も守らない者から言った」

「自覚あるんだ」

「あるから改善中だ」

 ゼロスター号は折返し環の下端へ向かった。

 中央線から離れる。

 順位板が警告色へ変わる。

『ゼロスター号、規定路へ復帰せよ』

 競技長の声。

「旧救難路へ入ります」とティア。

『許可していない』

「危険状態を記録し、異議申立を同時提出」

『コース離脱は失格対象だ』

「承知しています」

『グランツ監督、あなたは規則を守る立場だ』

「だから、破った規則名と理由を公開します」

『規則違反を正当化するな』

「正当化ではありません。後で審査できる形にする」

『競技中だぞ』

「事故も競技中です」

 ゼロスター号が白線を外れた。

 警告鐘。

 観客席から、どよめきが起きる。

 首位争いを捨て、外側へ逸れる片帆の船。

 実況の声が白環へ響く。

『ゼロスター号、折返し環下端! 規定路から二十二メートル、二十四――離脱判定まで残り一メートル!』

「境界」とエリア。

「二十五で失格」とハル。

「今は二十四・八」

「細い」

「二十センチの道です」

「走れる」

「船です」とロロ。

「飛べる」

「その言い直し、雑!」

 旧救難流は、壁の傷の上にだけ残っている。

 目で見える道ではない。

 エリアの淡緑線が、固定骨格と古い灯の間を結ぶ。

「右帆三割、左帆五割」とエリア。

「逆じゃない?」

「壁回転前の流れは、見かけと逆」

「信じるぞ!」とロロ。

「更新があれば返して!」

 帆が開く。

 ゼロスター号は、競技線のすぐ外を滑った。

 二十四・九メートル。

 二十四・七。

 二十四・八。

 失格境界の縁。

 ハルは艇外へ出る。

「身体、肩零、吐き気一。風、線より右へ二!」

「受領。黄線を〇・六内側!」

「壁傷、ここから消えてる!」

「塗り直し区間。骨格を見て!」

「一本、二本――三本目!」

「その下へ八!」

 ハルが索を伸ばし、白壁の固定骨格へ標識布を結ぶ。

 赤い布が流れを示す。

「右風、十五!」

「地図更新!」

 船が線へ乗る。

 順位は九位。

 だが、観客島との距離は最も近い。

 島では、マオが鏡幕の手動鍵へ向かっていた。

 階段は混雑している。

 観客は着席継続を命じられたが、島が傾けば人は動く。立つ者、荷物を取る者、子供を抱く者、出口を探す者。

 避難表示は成人の立位へ付けられている。

 低い位置の紙札だけが、床近くで青く揺れていた。

「走らない! 手すり右! 荷物は置く!」

 マオが叫ぶ。

「係員、私の肩を持つ?」

「いいですか」

「左側。装具は触らない。階段三段だけ」

「了解!」

 介助を先に決める。

 誰かが善意で抱え上げれば、装具の固定が外れる。

 上層へ着く。

 観覧運営責任者は、貴賓席の柵へしがみついていた。

「鏡幕の鍵!」

「契約上、折返し完了まで閉鎖できない!」

「島が傾いてる!」

「閉じれば広告主から損害請求が――」

「落ちたら誰が払う!」

「非常閉鎖には競技長の承認がいる!」

「今どこ!」

「審査艇!」

「遠い!」

 マオは責任者の腰へ付いた鍵束を見る。

「取っていい?」

「駄目だ!」

「じゃあ自分で閉じて」

「承認が――」

「閉じる? 閉じない?」

 選択肢を本人へ返す。

 責任者の顔は青い。

 契約を破れば職を失うかもしれない。

 閉じなければ人が落ちるかもしれない。

「……閉じる」

「聞いた。オルト、証人」

『記録した』

 責任者が鍵を回す。

 鏡幕の巻取機が動く。

 だが、一枚だけ止まった。

「支柱が歪んでいる!」

 四番係留索が跳ねた時、広告塔を切り、その破片が巻取腕へ噛んでいる。

 鏡幕は半分開いたまま、風を受けた。

「鏡幕一、閉鎖失敗。横風面積、四割残り」

 ティアが中継する。

 エリアの赤い半透明域が、さらに広がった。

「三番張力」

「九十八」

「二番」

「八十一。上昇」

「一番」

「七十四」

「風圧到達まで」

「十二秒」

 後続艇六隻が第三加速区へ入った。

 白環の内圧が膨らむ。

「全艇へ減速を!」

 エリアが共有帯へ叫ぶ。

『競技指示権はありません』と競技長。

「指示ではない。観測情報です! 第六観客島、係留一本切断。残存三番張力九十八。十二秒後、翼圧波が到達!」

 各艇から反応。

『蒼塔、減速は競技長命令待ち』

『緑梁、減速する!』

『鏡砂、島と距離を取る!』

『北塔、後続へ共有!』

 同じ情報を受けても、選択は分かれる。

 奨学金、学院の名誉、家の期待、危険の見積り。競技者は悪人だから走り続けるのではない。それぞれの生活を背負っている。

「風圧、八秒」とティア。

「ゼロスター、島下面まで百九十」とロロ。

「間に合う?」とハル。

「このままなら十二秒遅い」

「短くする」

「どこを」とエリア。

「壁を走る」

「船で?」

「俺が先に索を取る」

「まだ落ちていません」

「落ちたら動く場所を見てくる」

「戻れる条件」

「肩は零。艇外三十息。安全索二本。吐き気二で戻る」

「一人で決めないで」

「手伝って」

 エリアは息を止めた。

 ハルは続ける。

「島の下面へ行く線を。落ちなかったら戻る線も。間に合わなかったら言って」

「……受領」

 淡緑の細い線が、船から白壁へ、壁から島下面の保守骨格へ伸びる。

「三十二メートル。壁面十一歩。最後は索で振る。三十息以内」

「行く」

「更新を返して」

「返す」

 ハルが足場へ出る。

「一、二、三」

 白壁へ飛ぶ。

 風圧到達、五秒。

 ハルは壁を走る。

「一歩、風右十七! 二歩、壁振動一! 三歩、下遅れ一!」

「受領。次の骨格、左へ〇・四!」

「四、五、六!」

 赤いマフラーが白い嵐へ伸びる。

「肩一! 吐き気一!」

「受領。残り十九息!」

 風圧到達、三秒。

 観客島の三番係留が、限界へ達する。

 マオが下面で叫ぶ。

「三番、一〇〇!」

 風圧到達、二秒。

 競技長の停止鐘が、ようやく鳴り始めた。

 一音目。

 風圧到達、一秒。

 ハルは最後の骨格へ索を掛ける。

「位置返す! 島下面まで五十八! 保守骨二本見える! 四番索、暴れてる!」

「受領!」

 翼圧波が到達した。

 白環の内壁を走ってきた六隻分の風が、一つの壁になって観客島へ当たる。

 半開きの鏡幕が膨らむ。

 帆ではないものが、巨大な帆になる。

 三番係留環が裂けた。

 続いて、二番索の固定床が持ち上がる。

 観客島が十度傾いた。

 椅子が滑る。

 屋台が倒れる。

 悲鳴が白環へ落ちる。

 残る係留は二本。

「島、落下開始!」

 マオの声。

 エリアの地図で、赤い半透明の予測域が、現実の線へ変わった。

 公式最短路と、完全に重なった。

 ハルは壁の上から島を見る。

「エリア!」

「見えています!」

「道!」

 彼女は勝利線をもう一度、完全に消した。

「救助路へ変更。全員、私の線を絶対視しないで。現場更新を返して!」

 淡緑の道が、落ちる島へ向かって立体に開いた。

 その瞬間、観客島を支えていた二番係留の床が剥がれた。

 島は白環の内側へ、ゆっくりと、それでも止められない速さで落ち始めた。

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