第115話 第十章「観客席が落ちる」前編

群衆は、危機になると一つの生き物になる。

 そう語る記録は多い。

 群衆が押した。

 群衆が逃げた。

 群衆が混乱した。

 便利な言い方である。

 二千人を一匹にまとめれば、誰が出口を塞ぎ、誰が子供を抱き、誰が倒れた他人を起こし、誰が荷物を捨てられず、誰が命令を待ち、誰が命令に逆らったかを書かずに済む。

 人は群衆になった瞬間、人間でなくなるのではない。

 一人ずつ違う事情を持ったまま、狭い場所へ押し込まれる。

 救難とは、その違いを見失わずに、全員を動かす技術だった。

「落下角、右下十八! 残存一番索だけ!」

 ティアの声が通信筒を叩く。

 観客島は完全な自由落下ではない。

 最後の一本、主係留一番が残っている。

 そのため島は真下へ落ちず、巨大な振り子になって白環の内側へ弧を描いた。

 安全に見える者もいた。

 一本残っている。

 完全には落ちていない。

 最も危険な落下は、半分だけ止まっている落下である。

 止まる場所が分からず、進む方向が変わり、残る一本へ全荷重が集まる。

「エリア、壁から島へ五十八!」

 ハルは白壁の固定骨格へ両足を掛けていた。

 腰の安全索は二本。

 一本はゼロスター号。

 一本は壁骨格。

 船は彼の下方――身体感覚では左後ろ――から接近している。

「島の振れ幅、三十二から六十へ増加!」とエリア。

「近づく時刻!」

「七秒後、最短二十六!」

「跳べる」

「着地点を返して」

「下面保守骨、青い二本目。幅一。横に古い梯子」

「島が回転しています。五秒後、梯子が上へ十一度」

「受領。身体、肩一、吐き気一、下遅れ二」

「二なら交代条件です!」

「飛んだ後戻る!」

「先に戻って!」

「間に合わない!」

「一人で決めないで!」

「手伝って!」

 ハルは叫んだ。

「飛ぶ線を! 駄目なら駄目って言って!」

 エリアの返事は、一拍だけ遅れた。

「……飛べます。条件、二本目の索を島へ掛けるまで左肩を頭上へ出さない。着地後、三息以内に両足固定。吐き気三で索へ全体重。私が引き戻す」

「了解!」

「残り四秒!」

 ハルは壁骨格から足を離した。

「一、二、三!」

 風へ跳ぶ。

 落下する島と、回転する白壁と、接近するゼロスター号。

 三つの動く物の間に、静止した場所はない。

 人間は静止点を探す。

 空の救難士は、静止点がないことを先に受け入れる。

 ハルの身体が白い嵐へ投げ出される。

 一息。

 島下面の保守骨が右へ動く。

 二息。

 腰索が伸びる。

 三息。

 ハルは右手で古い梯子の横棒を掴んだ。

 左手は上げない。肘を身体へ付けたまま、二本目の投索を保守骨へ回す。

 四息。

 両足が骨格へ着く。

「固定!」

「身体!」とエリア。

「肩一! 吐き気二! 下は島へ戻った!」

「受領。三十息以内!」

 島が振れる。

 ハルの身体が下面へ叩きつけられた。

 右眉の古傷へ白い粉。

 息が抜ける。

「痛み!」

「胸一! 肩一!」

「進行可?」

「可!」

「自己判断だけでなく、次の骨まで十息。そこで再報告!」

「了解!」

 ハルは下面を走った。

 上では、椅子が流れていた。

 第六観客島の床は右へ二十三度傾いている。

 固定されていない長椅子、飲食台、飾り樽、看板が低い側へ滑る。

 マオは低位置の柱へ装具を固定し、避難の流れを二つへ分けていた。

「走らない! 右手すりは子供と歩けない人! 左は自分で歩ける人!」

「船はどこだ!」

「外縁三番! でも今は乗れない!」

「乗れないのに並ばせるのか!」

「並ぶ場所を作る! 押さない!」

 怒鳴った男が、足を滑らせた。

 マオは手を伸ばす前に叫ぶ。

「腕を取っていい?」

「いい!」

 右手首を掴み、装具を床へ固定する。

 足裏の摩擦を一瞬だけ固定する術が、二人分の滑りを止めた。

「立てる?」

「立てる!」

「次、後ろの子を支える!」

「俺が?」

「今できる?」

 男は振り返る。

 泣いている子供がいる。

「……できる!」

「じゃあ頼む!」

 救助された者を、すぐ救助する側へ置く。

 英雄にするのではない。できる範囲を聞き、役割を渡す。

「マオ!」

 オルトの声。

「何人」

「西区、四百十二! 歩行困難二十三、子供六十八、負傷確認九!」

「避難艇三隻、定員」

「各百二十。足りない!」

「一度に全員を出さない。島を安定させるまで、低側から高側へ移す。係員班、歩行困難者の移動。保護者を分けるな。マオ、低位置誘導継続」

「復唱。低位置、歩けない人、家族分けない!」

「良い」

 オルトは島全体へ一つの号令を出さなかった。

 西区へ西区の役割。

 上層へ鏡幕。

 下面へ係留。

 避難艇へ暖機。

 全員が同じ命令を聞けば、全員が同じ場所へ殺到する。

 救難指揮は、声を大きくする仕事ではない。

 違う場所へ、違う一つを届ける仕事である。

「島下面へ到達!」

 ハルは保守骨を走り、四番係留の切断点へ出た。

 太い索が風の中で暴れている。

 先端の星鉄環は割れ、半円になっていた。

 その半円が振れるたび、下面の浮揚嚢を打とうとする。

「四番索、浮揚嚢へ三メートル! 次の振れで当たる!」

「切れる?」とロロ。

「索を?」

「嚢を破る前に短くする! でも切ったら再利用できない!」

「どっち!」

「今は切れ!」

 ハルは安全刃を出した。

 係留索は腕より太い。

 一度では切れない。

「肩、一。吐き気二。十息使う!」

「受領。左肩を上げない角度へ」とエリア。

 ハルは索へ両脚を絡め、身体の重さで刃を引く。

 一回。

 繊維が数本切れる。

 二回。

 星糸が白く弾ける。

 三回。

 島が回る。

 下が遅れる。

 吐き気が三へ上がりかける。

「吐き気――二、いや三!」

「全体重を索へ!」

 エリアの声。

 ハルは作業を止め、安全索へ身体を預けた。

 止める。

 間に合わないかもしれなくても、条件を言い、止める。

 四番係留索が大きく振れた。

 浮揚嚢へ向かう。

「カイル!」とハル。

「見えている!」

 ゼロスター号が島下面へ滑り込む。

 船首にカイル。

「守る対象、浮揚嚢一、下面作業者ハル一、島上二千四百余!」

「数が大きい!」とロロ。

「盾は人数で強くなる!」

「身体は強くならない!」

「半出力、六息!」

 赤金の王盾が開く。

 壁ではない。

 暴れる係留索と浮揚嚢の間へ、斜めの面を差し込む。

 一息。

 半円の星鉄環が盾へ当たる。

 二息。

 火花。

 三息。

 盾がたわむ。

「肋骨三!」

「三なら中止!」とリディアの通信。

「六息まで!」

「今中止!」

「代替がない!」

「作る!」とロロ。

 四本の補助腕が、ゼロスター号の船腹から整備用の牽引鉤を引き出す。

「ハル、索を切るな! 半円を鉤へ掛けろ!」

「吐き気三!」

「戻れ!」

「掛けるだけ!」

「一つにしろ!」とオルト。

「戻る!」

 ハルは作業を捨てた。

 救助を途中でやめる。

 それは見捨てることではない。

 役割を渡すために手を離すこともある。

「ロロ、半円は右下二! 盾の端!」

「見えた!」

 ロロの補助腕が牽引鉤を飛ばす。

 四息。

 鉤が割れた環へ入る。

 五息。

 巻取機が索を引く。

 六息。

 王盾が消える。

 暴れていた係留索は、ゼロスター号の船腹へ固定された。

「盾終了! 守った人数、島全員は数え方が違う! 直接二! 間接二千四百余! 肋骨三、右腕二!」

「カイル、後退。再使用禁止」とリディア。

「三十息後は」

「禁止です」

「医務命令?」

「はい」

「受領」

 カイルは歯を食いしばり、盾籠手を外した。

 王盾を出せない王太子は、ただの十七歳になる。

 ただの十七歳になった後、何をするかで人間は決まる。

「次、何を持つ」とカイル。

「巻取機の手動棒!」とロロ。

「重いか?」

「王族にはちょうどいい!」

「使い方」

「右へ回す! 痛み四で止める!」

「三は?」

「報告!」

「了解!」

 カイルは左手で手動棒を握った。

 自然な利き手。

 右腕を休ませ、身体を支える。

 ゼロスター号が一本の切断索を保持したことで、島の回転がわずかに緩んだ。

 だが、船一隻で観客島を支えられるわけではない。

 巻取機の警告針が赤へ入る。

「負荷百二十! 船腹が持たない!」とロロ。

「何秒」とエリア。

「この角度で二十五! 島が振り戻せば十!」

「他艇へ支援要請」

 エリアは共有帯を開く。

「全艇へ。第六観客島、残存係留一。ゼロスターが切断索四を仮保持。単艇では十から二十五秒。安定化には三方向から牽引が必要!」

 返事が重なる。

『緑梁、救助へ転進する!』

『鏡砂、規定路外への移動は失格になる。競技長、救助指定を!』

『北塔、学院から完走命令。だが一名、救難艇へ移乗可能』

『蒼塔、競技停止信号が不完全。順位確定までは線内待機』

 走り続ける艇も、止まる艇も、救助へ向く艇もいる。

 ハルは怒鳴らなかった。

 自分が助けると決めたから、全員も同じに決めるべきだとは思わない。

 だが選ぶための情報は渡す。

「島上、二千四百余! 西区に歩行困難二十三、負傷九! 残り十秒になるかもしれない!」

 緑梁重艇が真っ先に規定線を外れた。

 順位板で、船名が灰色になる。

『緑梁、競技資格停止』

 自動音声。

「救助へ来たから?」とハル。

「現行規則では」とティア。

 鏡砂艇が一度揺れた。

 進むか、曲がるか。

『鏡砂、救助へ転進! 失格異議は後だ!』

 二隻目が灰色になる。

 北塔艇から、小型の翼板に乗った一名が離れた。

 母艇は競技線へ残り、救難士だけを送る。

『北塔、選手一名の資格停止を受理。艇は競技継続』

 選択を分けた。

 蒼塔艇は線内で減速し、動かなかった。

 非難の声が観客席から上がる。

 だが蒼塔の操舵士には、学院奨学金の条件があるかもしれない。

 完走できなければ家へ戻れない者がいるかもしれない。

 英雄でないから悪人というわけではない。

 救難は、善悪の試験ではない。

 できる役割を増やす作業である。

「蒼塔へ」とエリア。

「救助へ来いって?」

「線内からできることを」

 通信を開く。

「蒼塔、あなたの位置から第三加速区の後続へ減速信号を出せますか。競技線外へ出る必要はありません」

 一拍。

『可能だ』

「お願いします」

『受ける』

 蒼塔艇の銀帆が赤い警告形へ変わる。

 後続艇が速度を落とす。

「助け方、一つじゃない」とハル。

「はい」とエリア。

 緑梁重艇と鏡砂双胴艇が島へ近づいた。

 だが白環の競技円が、二隻の前へ透明な壁を作った。

『競技外艇、競技内安定帯への侵入を拒否』

「何だあれ!」とハル。

「イコール・リングの自動分離」とティア。

「同じ制限をかける円だろ!」

「競技者だけへ同じ制限を課す。資格停止艇は、競技環境へ影響しないよう外へ排出されます」

「救助へ来たら入れない?」

「現行文言では」

 緑梁重艇が透明壁へ押し戻される。

 幅広の船体が軋む。

『こちら緑梁! 牽引索は届くが、風膜を越えない!』

 鏡砂艇の光膜も弾かれる。

『競技円へ再登録を要求!』

「再入場手続きはない」とティア。

『ではどうしろ!』

「今、探します」

「昨日、分かってた規則」とハル。

「はい」

「直せなかった」

「通常改訂は七日」

「島は七日待たない」

「分かっています」

 ティアの右手が、双規刃の目盛りをなぞる。

「公開改訂手続き」

「使える?」

「中央記入点へ到達できれば」

「どこ」

 エリアが地図へ示す。

 白環の入口と折返しを結ぶ中心軸。

 競技円の規則文言が刻まれた小さな浮台。

 現在地から二百四十メートル。

 観客島の落下弧と、逆方向。

「遠い」とハル。

「ゼロスターは島を保持。離せません」とロロ。

「他の船は円に弾かれてる」

「競技資格が残る小型艇が必要」とエリア。

「北塔の母艇」とカイル。

「線内にいます」

「頼む?」

「規則監督を乗せれば、ティアだけが競技線を離れたと判定される可能性があります」とエリア。

「もともと改訂したら資格停止です」とティア。

「戻れなくても?」

「戻ることを条件にすれば、決断が遅れます」

「それ、また自分を外す」とハル。

「今は役割です」

「誰かと行け」

「競技円中央は、一人分の足場」

「行く前に、戻る道を描く」とエリア。

「戻れる保証はありません」

「保証ではない。選択肢です」

 ティアはエリアを見た。

「……描いてください」