第116話 第十章「観客席が落ちる」後編
その頃、ドランは競技港の観覧管理所へいた。
彼は救難士ではない。
剣も振るわず、壁も走らない。
だから、金で動くものを動かした。
「広告曳船六隻を、観客島外周へ回しなさい」
観覧責任者が首を振る。
「契約外使用です! 光塔の向きを保持する船で、救難認証がない!」
「牽引力は」
「一隻十二トン相当」
「六隻で七十二。人を乗せず、島の回転を遅らせる索だけ引けます」
「事故時の損害責任が――」
「グランデ家が一時保証します」
「あなたにそんな権限が?」
「嫡男権限で三万ルクまで。六隻の損傷見積りは二万四千。超過したら、わたくし個人の競技賞金と学院手当を差し押さえなさい」
「正式書面がない」
ドランは紙を一枚取り出し、署名した。
「今、作りました」
「公証が」
セレナの黒羽が机へ刺さる。
『外部星律官セレナ・クロウ、緊急契約の成立時刻と本人意思を証明』
羽根から声が出た。
「公証も来ましたわ」
「しかし広告主の同意――」
「広告は人が見て初めて価値になります。観客を落とした企業名を明日の新聞へ載せたいなら、どうぞ拒否を」
観覧責任者は口を閉じた。
「六隻、出す!」
「契約成立。費用は後で一ルクまで争います」
「今それを言うのか!」
「今決めなければ、後で救難士へただ働きを押し付けるでしょう」
ドランは光糸を六隻の出港印へ結ぶ。
「無料の英雄談で、整備費は払えませんの」
広告曳船が一斉に離岸した。
光塔を見せるための船が、光塔を捨て、人を支える索を引きに行く。
セレナは審査艇へ乗り込んでいた。
隠し採点帳と測定器を保全するためである。
救難中に証拠を守ることは冷酷に見える。
だが事故が終わった後、原因を「混乱で失われた」とされれば、次の人間が同じ場所から落ちる。
「装置を止めてください」とセレナ。
白手袋の審査官は流向盤の前にいた。
「停止済みだ」
「補助安定板が動いています」
「審査艇を墜とさないためだ」
「観客島の振れへ影響する」
「止めれば、この艇が競技線へ流れ、さらに危険になる」
「代替は」
「手動翼。三人必要」
審査艇の乗員は二人。
一人は負傷して床へ座っている。
セレナは黒羽入れを閉じた。
「私が三人目です」
「監査官が装置を操作すれば、証拠の中立性が――」
「操作前後を記録します。あなたが一人で続ける方が中立ですか」
審査官は答えず、手動翼の片側を開いた。
セレナは右手で棒を握る。
左目は弱い。距離を見る時、片眼鏡の印を合わせる。
「停止まで三息」と審査官。
「事実だけを。一、補助板出力六。二、主弁封印維持。三、手動翼へ切替」
「今も記録するのか」
「今だからです」
二人で棒を引く。
審査艇の補助板が閉じる。
島へ向かっていた小さな圧力波が消えた。
「あなたは救難へ協力した」とセレナ。
「当然だ」
「隠し測定を行った事実は消えません」
「分かっている」
「協力した善行で、危険運用の責任も消えない」
「分かっている」
「では記録します」
「好きにしろ」
「好きではありません。必要です」
悪事をした者が一度人を助けても、悪事は消えない。
悪事をした者だからと、助ける手まで拒めば、救える命を減らす。
責任と役割を分けることは、赦すことではない。
島下面。
ロロはゼロスター号の船腹を開いていた。
「橋を出す!」
「そんな機能あった?」とハル。
「ない!」
「ないのに出す?」
「貨物桟橋と整備肋骨と予備帆桁をつなぐ! 全部もともと歩ける部品! 橋専用じゃないだけ!」
「新しく作る?」
「今から作ったら間に合わない! あるものを、ある向きで使う!」
船腹から折り畳み式の貨物桟橋が伸びる。
本来は港へ荷物を下ろす短い板。
長さが足りない。
ロロは左右の整備肋骨を外し、桟橋の両側へ継ぐ。
予備帆桁を下へ通し、三角の補強にする。
四本の補助腕と両手が、別々の留め具を締める。
「長さ十二! 島まで十五!」
「足りない!」
「ゼロスターを三近づける!」
「巻取索の角度が変わる」とエリア。
「変わる分を緑梁に持ってもらう!」
「円が弾いてる」
「だから先に索だけ投げる! 結界は物理索まで拒否しない!」
緑梁重艇から太い牽引索が投げられる。
透明壁を越え、ゼロスター号の船尾へ届く。
「固定!」
ロロが受ける。
「緑梁、引くな! 今は持つだけ!」
『受領!』
「エリア、三近づける線!」
「島の回転に合わせ、四秒後!」
「ハル、橋先へ!」
「吐き気二へ下がった。肩一。行く!」
「安全索二本!」
「付けた!」
「本当に?」
「見て!」
「見た!」
ゼロスター号が島下面へ近づく。
一メートル。
二。
三。
貨物桟橋の先が、島の保守骨へ触れた。
完全には固定されない。
島と船は別々に揺れる。
「橋、動く!」
「船と島が動くから当たり前! 足元じゃなく継ぎ目見ろ!」
ハルは橋を渡る。
一本目の整備肋骨。
貨物桟橋。
二本目の肋骨。
足場が上下にずれる。
「一、二、三!」
島側へ跳ぶ。
両手で保守骨を掴む。
左肩を上げないよう肘を曲げ、身体を引き寄せる。
「到達!」
「固定具!」とロロ。
ハルは橋先の二股金具を島骨格へ回す。
「穴が合わない!」
「合わすな! 穴へ入れるんじゃなく骨を挟む!」
「最初に言え!」
「見れば分かる!」
「分からない!」
「聞いたから今言った!」
「遅い!」
「でも間に合う!」
ハルは二股を骨へ挟み、横栓を通す。
橋が固定された。
「橋、一本!」
島上の避難床とゼロスター号がつながる。
「マオ、出口までの道!」
『東下面梯子から三十七段。途中、広告支柱が一本倒れてる。子供と歩けない人を先に送る』
「受領!」
「ゼロスター定員は?」
「通常十二、緊急三十五!」とロロ。
「三十五しか?」
「一回運ぶ船じゃない! 橋で他の艇へ渡す!」
「他の艇、入れない」
「だから円を変えろ!」
全員の視線が、白環中央へ向いた。
北塔学院艇が、ティアを拾うため競技線ぎりぎりへ寄った。
長い翼の先に、一人用の保守足場がある。
「飛び移り距離、四」とエリア。
「右膝」とハル。
「痛み一」
「着地で上がる」
「分かっています」
「戻る道」
「北塔艇が中央記入点の外周を一周。私は規則改訂後、保守索で同艇へ戻る」
「失敗したら」
「中央台へ残る」
「それ、戻る道じゃない」
「選択肢です」
「もう一つ」
エリアが地図へ線を足した。
「広告曳船一隻を中央軸へ回せます。競技資格はありませんが、改訂後なら円内へ入れる可能性がある」
「可能性」
「確定ではない」
「それでいい」とティア。
ハルは彼女の腰へ予備索を結ぶ。
「きつい?」
「一指分、緩めて」
「これ」
「はい」
「介助、他に」
「着地後、右膝へ触らない。立てなければ、先に聞く」
「了解」
マオの言葉が、ここにもある。
「ティア」
「何です」
「変える文、決めてる?」
「まだです」
「短く」
「規則は短ければよいのではありません」
「急いでる」
「急いでいる時ほど、後の人を縛る言葉になります」
「じゃあ、何を守るか先に」
「救助へ移った者の参加権」
「競技に?」
「救難に」
「点は?」
「救助を採点外へ出したことが、今の壁を作った」
「じゃあ入れる」
「はい」
北塔艇が近づく。
「距離四!」
ティアが足場へ出る。
灰銀の短髪、右耳後ろの赤い編み込み。白帯が風へ鳴る。
「一、二――」
「それ、俺の」とハル。
「借ります。三」
ティアは跳んだ。
北塔の翼先へ着地。
右膝が曲がる。
顔が歪む。
「痛み!」とハル。
「三」
「立てる?」
「待って」
ハルは手を伸ばさない。
「何ができる?」
「左腕を」
ハルは左腕を差し出す。
ティアが掴み、自分で立つ。
「受理」と彼女。
「行ける?」
「行きます」
北塔艇が中央軸へ向きを変えた。
観客島では、最初の避難者が橋へ来た。
足を怪我した老女。
孫らしい少年が肩を支えている。
「先に誰」とハル。
「一緒」とマオ。
「橋は二人幅じゃない」
「手を離さない条件。少年が前、老女が後。ハルは横索」
「受領」
少年が橋へ足を乗せる。
「揺れる!」
「揺れる」とハル。
「止まらない?」
「止まらない。でも次にどっちへ揺れるか言う」
「怖い」
「俺も」
「大人なのに?」
「十五」
「子供じゃん!」
「そっちは?」
「十一!」
「じゃあ四つだけ大人」
「少ない!」
「右へ来る、三、二、一!」
橋が右へ揺れる。
少年が手すり代わりの索を掴む。
「今、二歩!」
二人が進む。
老女が足を滑らせる。
「触っていい?」
「腰!」
ハルは腰帯を掴む。
左肩を上げず、身体ごと引く。
「痛み」
「肩二!」
「交代」とエリア。
「あと二人!」
「今交代!」
「橋上で代われない!」
「渡し終えたら戻る!」
「受領!」
老女と少年がゼロスター号へ着く。
カイルが盾を使わず、左手で老女を受ける。
「守る人数二。今回は腕だけだ」
「言わなくていいだろ」とハル。
「習慣にする」
次の避難者が来る前に、ハルは島側へ戻る。
「交代、誰」とマオ。
「北塔の救難士が来る」とエリア。
小型翼板の競技者が、円の外から橋へ近づく。
だが透明壁が身体を押し返す。
『競技外者、環内進入拒否』
「人まで!」とハル。
救難士は索へしがみつく。
「ティア、急いで!」
中央記入点は、白環の中心へ浮く直径二メートルの円盤だった。
表面に、競技の基本文が光っている。
『認定競技者のみ、環内の共通風、保護膜、救難設備を使用できる』
『規定路を離れた者は競技外とし、環へ影響を与えない』
平時には、公平を守る文だった。
外から援助を入れず、脱落艇が残る競技者を妨害しない。
今は、その同じ文が救難艇を拒んでいる。
規則は悪意で作られていなくても、人を殺せる。
善意で作られたからこそ、疑われず長く残ることもある。
北塔艇が円盤へ接近する。
「グランツ監督、距離三!」
ティアは翼先から円盤へ跳ぶ。
右膝が着地衝撃を受ける。
「痛み四……!」
膝が崩れた。
両手を円盤へつき、落下を止める。
『監督者の身体状態、継続不適』
競技円の自動声。
「本人へ確認を」とティア。
『継続不適』
「立てるかは、私へ聞け」
彼女は左脚へ体重を移し、立ち上がった。
腰から双規刃を抜く。
円盤中央に、公開改訂用の細い溝がある。
『警告。競技中の基本文改訂は、監督者の中立資格を失わせる』
「承知」
『改訂者は当該競技の得点権、優勝資格、監督命令権を失う』
「承知」
『改訂後、全責任を氏名とともに公開する』
「承知」
『改訂は、既存競技を不可逆に変更する』
ティアの刃が止まる。
「不可逆?」と通信のハル。
「この決勝中は戻せないという意味です」
「後で直せる?」
「審査を経れば」
「じゃあ一生じゃない」
「一生でなければ軽いわけではありません」
「分かってる」
島の巻取索が鳴る。
ロロの声。
「負荷百四十! 船腹外板が剥がれる! 緑梁と鏡砂は円の外! 入れば三方向にできる!」
マオ。
『橋待ち、六十七! 西区まだ三百以上!』
エリア。
「島、次の振り戻しまで十六秒。現状一番索は、その衝撃で切れる可能性が高い」
カイル。
「盾は使えない。手動巻取、痛み三。まだ回せる」
セレナ。
『改訂条件は満たされています。既存規則が救難を妨げている事実、複数艇への同一危険、中央記入点到達』
競技長。
『待て、グランツ! 文言審査をせず変えれば、別の事故を作る!』
「代案を」とティア。
『競技円そのものを停止する。技術室が準備中だ』
「時間」
『最短三分』
「島は十六秒です」
『だからといって一人で――』
「一人で決めるための手続きではありません」
ティアは円盤の周囲を見た。
公開改訂溝には、競技者全員へ文言案を送る機能がある。
反対があれば記録される。
緊急時、全員の返答を待たず実行できるが、誰が何を受け取ったかは残る。
「文案を送ります」
「短く」とハル。
「狭く」とセレナ。
「後で使えるように」とマオ。
「今、橋を通せるように」とロロ。
ティアは双規刃の先を溝へ当てた。
最初の文字を刻む前に、円盤がもう一度警告する。
『確認。改訂を実行した時点で、ティア・グランツの競技者資格および規則監督権限は停止される』
彼女は、右親指で刃の目盛りをなぞった。
自分が権限を失えば、その後の現場を指揮できない。
規則を変えた責任を、規則の外から負うことになる。
島の振り戻しまで、十二秒。
ティアは顔を上げた。
「第一条」
誰に聞かせるでもなく、言う。
「規則を課す者が、最初に代償を負う」
双規刃の先が、光る円へ触れた。
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