第120話 第十二章「最初の航路札」後編
ティアの審査は、その直後に行われた。
同じ部屋ではない。
公開桟橋の一角へ、低い机が置かれた。
彼女は移動椅子に座り、白帯と競技者章を机上へ並べる。
「公開改訂手続きの適法性は認められました」と学院連盟審査員。
「はい」
「あなたの規則監督権は、手続きどおり停止」
「はい」
「競技資格も当該大会に限り失効。今後の競技参加資格は、膝の回復後に再審査」
「受けます」
「一方、前日までに救助者復帰手続きを改訂できなかった点について、監督者としての責任があります」
「認めます」
「通常改訂に七日を要した。あなた一人で短縮できる権限はなかった」
「それでも、問題を知った時点で暫定案を公開し、競技者へ説明できました」
「自分へ、権限以上の責任を課していませんか」
ティアはすぐに答えなかった。
「課しています」
「なぜ」
「権限がなかったと言えば、何もしなかった自分を許しやすいからです」
「許してはいけない?」
「許すかどうかは、私だけでは決められません」
「しかし、できなかったことを全て自分の罪にすれば、次の監督者は何も引き受けられない」
昨日、彼女自身が恐れていたことだった。
失敗を公開した結果、次に誰も決断しなくなること。
「では、どう記録すべきでしょう」
「それをあなたへ聞いています」
審査員は答えを与えなかった。
ティアは机の端を、紙の端と揃えた。
迷うと整える癖。
「私個人の失敗と、権限構造の失敗を分けます」
「具体的に」
「私は、マオの失格処理後、規則矛盾を記録した。だが決勝前の全競技者へ、救助時の資格喪失を十分説明しなかった。暫定停止案を提出しなかった。これは私の判断不足」
「構造は」
「規則監督が競技者を兼ね、利益相反申告だけで継続した。通常改訂に当事者の緊急申立枠がない。委員会が救難と競技を別部署へ分け、監督者一人へ橋渡しを期待した。これは制度の失敗」
「再発防止」
「規則を作る会議へ、救助で資格を失った者、身体条件の異なる者、整備士、観客代表を入れる。改訂案へ反対だけでなく、期限と代案を付けさせる。監督者自身を、競技者から選ばない」
「あなたは、再び監督者になりたいですか」
ティアの右親指が、白帯の縁をなぞる。
「同じ形では」
「違う形なら」
「一人で決める監督者ではなく、異議を受ける議会を作りたい」
「学院には現在、生徒評議会がありません」
「作ります」
「誰が」
「立候補します」
審査席が少しざわめいた。
ティアは続ける。
「風紀隊長へ任命で戻るのではなく、全学生の投票を受ける。私の規則へ反対する者も、私を罷免する手続きを持つ」
「当選すると思う?」
「分かりません」
「落選したら」
「提案者として続けます」
「評判は、今回の救難で上がっています」
「救難の拍手を、全政策への賛成票として扱わないよう求めます」
「自分に不利ですよ」
「必要です」
マオが後列から手を挙げた。
「質問」
「どうぞ」と審査員。
「立候補したら、膝のことを書く?」
ティアは少し目を見開いた。
「身体情報の公開範囲は本人が決めるべきです」
「じゃあ決めて」
「……救難訓練と長時間立位に制限があることは公開します。診断詳細は非公開」
「介助の条件は?」
「会議室の段差をなくす。移動椅子を特別扱いにしない。必要な者が申請できるようにする」
「自分だけ?」
「全員」
「受理。私は立候補演説に質問へ行く」
「賛成ではないのですか」
「質問」
「……歓迎します」
ティアは、少しだけ笑った。
審査結果は、追放でも復職でもなかった。
監督権停止。
改訂行為は適法。
責任記録を公開。
今後の政治活動は、別の選挙で問う。
物語なら、英雄は新しい肩書を与えられる。
生活では、立候補用紙を自分で取りに行く。
三日後。
白環杯の閉会式は、壊れた観客島の代わりに学院の訓練港で開かれた。
華美な鏡幕はない。
花火も中止。
係留費から流用された分は、補償基金へ戻された。
代わりに、救助へ使われた物が港の周囲へ並ぶ。
折れた広告曳船の索。
緑梁重艇の擦れた船腹板。
鏡砂艇の焼けた光膜。
北塔翼板の曲がった端。
蒼塔艇が出した減速信号旗。
マオの濡れた紙札。
ゼロスター号の貨物桟橋。
歴史は、勝者の杯だけを展示しやすい。
今年は、遅い手の方を先に並べた。
競技優勝は蒼塔学院。
公開採点表による再計算でも変わらなかった。
蒼塔の代表生徒は、銀白の杯を受け取る前に壇上で言った。
「我々は救難開始時、競技線に残った。学院から完走命令を受け、決断が遅れた。その間、線内から後続艇を止める役割を選んだ。救助へ最初に向かわなかった事実も、後から参加した事実も、両方記録してほしい」
拍手は、少し迷ってから起きた。
迷う拍手は悪くない。
考えず鳴る拍手より、相手を人間として見ている。
救難共同記録には、順位を付けなかった。
緑梁、鏡砂、北塔、蒼塔、広告曳船六隻、島内係員、観客自身、ゼロスター号。
全ての役割が読み上げられる。
「長い」とハル。
「省略しないためです」とエリア。
「終わる?」
「あなたの名は最後の方」
「寝そう」
「正式学生の式典態度として減点します」
「資格取った後も?」
「取った後からです」
ハルの制服左胸には、翼のない星航生章。
左腕はまだ薄い固定帯。
赤いマフラーの銀筋が風へ揺れる。
ゼロスター号の順位は、完走艇十一隻中十一位。
救難記録の後、普通に読み上げられた。
『第十一位、王立星航学院・ゼロスター号』
ハルは壇上へ上がる。
参加証の小さな白環を受け取る。
「もっと大きい賞ない?」
競技長が困った顔をした。
「救難功労記録が」
「それはみんな」
「正式星航資格を得たと」
「それは学院」
「では、何を希望する」
「次、普通に勝負する権利」
競技長は一瞬考えた。
「認める」
「誰でも?」
「全参加校へ、改訂後の公平な規則で」
「じゃあそれ」
「賞ではない」
「欲しいもの」
ハルは白い参加環を受け取った。
最下位の証は、小さい。
だからポケットへ入る。
次に勝ちたい気持ちも、同じ場所へ残せる。
マオには、予選失格証と救助記録の両方が渡された。
「二枚」と彼女。
「一枚へ統合する案もありました」とティア。
「しない」
「はい」
「失格した。助けた。別」
「ただし理由は互いに参照できるよう記録しました」
「受理」
ネロが隣へ来る。
救助された右肘は薄い包帯だけになっている。
「来年、同じ競技に出る?」
「出る」とマオ。
「今度、助けられないようにする」
「それは違う」
「え」
「怪我しない準備はする。助けられた時、戻れる規則も作る。助けられないことを目標にすると、助けを隠す」
「じゃあ、来年は勝つ」
「私が」
「僕も」
「譲らない?」
「譲らない」
「受理」
二人は握手をしなかった。
次の競技で同じ線を奪い合う約束代わりに、互いの靴底を一度見た。
閉会式の後、ゼロスター号の修理が始まった。
終わっていなかったのか、とハルは言った。
始まってすらいなかった、とロロは答えた。
「昨日までのは応急! 応急を修理と呼ぶと、応急のまま十年使う大人が出る!」
「使えるなら」
「使えると安全は違う!」
「どこかで聞いた」
「全部の事故で聞け!」
船は学院工房の外へ横付けされている。
左外板を外し、橋に使った貨物桟橋を床へ置き、曲がった肋骨を熱炉で戻す。
ハルは片腕しか使えないため、工具運びも制限された。
「軽いもの」とロロ。
「これ」
「ネジ箱。二キロ」
「もっと」
「正式学生は医務条件を守れ」
「ロロが言う?」
「俺は今、呼吸一!」
「吸入筒」
「持ってる!」
「使用時刻」
「……一時間前」
「本当?」
「四十五分!」
「俺より隠す」
「修理屋は自分を部品に数え忘れる!」
「数えろよ」
「今数えた!」
カイルは右腕を休め、左手で請求書の署名をしている。
「王家負担分、多くないか」
「王家試験艇の元部品ですわ」とドラン。
「広告会社分をもっと増やせ」
「感情で割合を変えません」
「王太子命令」
「利益相反として拒否」
「王太子が弱い」
「会計の前では全員ただの署名者ですわ」
エリアは新しい外板へ、決勝の救助路を細く描いていた。
「記念?」とハル。
「修理位置図です。どこへ負荷が集中したか、次の整備で分かるように」
「きれい」
「結果としてです」
「地図、残す?」
「一枚は学院へ提出。一枚は船。競技用の勝利線は消しました」
「救助線は?」
「訂正記録と一緒に残します」
「間違った線も?」
「はい。消すと、最初から正しかったように見える」
ティアの椅子と同じ考えだった。
正しい道だけを残す地図は、次の人へ失敗する権利を与えない。
六番目の椅子は、工房の外へ出されていた。
右膝支え。
背の開いた円。
座面裏の修理費。
マオの『先に聞く』。
そして夕食の香辛料が一滴、座面左へ赤い染みを作っている。
「洗わない?」とハル。
「洗いました」とティア。
「残ってる」
「染みです」
「取る?」
「使用に支障なし」とロロ。
「見た目」とエリア。
「美観点なし」とティア。
「自分で言う?」
「第一章の記録を参照しました」
ティアは、椅子の下へ置いていた二つの測定片を取り出した。
一から六の目盛り。
七から十二の目盛り。
折れた双規刃の補助片を、細い長方形へ磨き、端へ穴を開けてある。
「決めた?」とハル。
「はい」
「船に乗る?」
「今回は乗りません」
ハルの顔が少し止まった。
「学院へ残る?」
「生徒評議会の設立案を出す。白環杯規則の恒久改訂に参加する。嵐庭園の救難班も、私が抜ければ止まる段階です」
「旅より大事?」
「比較しません」
「どっちか」
「今、私がいる場所で続いている物語です」
ハルは椅子の背へ触れた。
「終わりじゃない?」
「別の航路です」
「会える?」
「王立星航学院は消えません」
「俺たちが遠くへ行くかも」
「戻る時刻を断言しないでください」
「言ってない」
「だから、札を作ります」
ティアは二つの片を合わせた。
一本の目盛りになる。
折れた線が中央へ残る。
「船乗りは、別れる時に対の札を作ることがあります。魔法通信ではない。船側と残る側で一枚ずつ持ち、傷、煤、穴、結び方を後で見せ合う」
「遠くで何してるか分からない?」
「分かりません」
「じゃあ何のため」
「分からない時間があったことを、消さずに会うためです」
ティアは一から六の片を、細い赤布へ通した。
「こちらを船へ」
「七から十二は?」
「私が持つ」
「ゼロがない」
「どこから数えたか、覚えます」
彼女は、船へ渡す方の裏へ小さく刻んだ。
『第一条 更新は再会時に』
「今は送らない?」
「急ぎの通信には伝羽があります。この札は、説明を急がないためのもの」
「変な道具」
「あなたに言われたくありません」
ハルは笑った。
ティアは、別れた航路を結ぶ対札〈フォーク・タグ〉の一片を、ゼロスター号の主帆内側へ結んだ。
風へ直接さらさず、操舵室から見える場所。
赤布の結び目は、解けば跡が残る形。
もう一片は、自分の制服の内ポケットへ入れる。
「客員席は?」とハル。
「残します」
「ティア専用?」
「違います。右膝支えは外せる。別の者が座る」
「染みもある」
「それは残る可能性があります」
「座った人、辛いの好きだと思うかも」
「誤解です」
「毎回かける」
「規定量を改訂します」
「やっと」
六番目の椅子は、空席になった。
退場の印ではない。
次に座る者が、前の者の膝支えを見つけ、必要なら外し、染みへ笑い、背の開いた円へ自分の傷を加えられる空白だった。
その夜、学院の小礼堂で慰労会が開かれた。
祝勝会ではない。
優勝した蒼塔学院には別の祝勝会がある。
王立星航学院は十一位である。
それでも料理は出た。
救難員、整備士、観客代表、競技者が同じ長机へ座る。
ティアの香辛料壺は、マオの管理下に置かれた。
「一振り」とマオ。
「二振り」
「一」
「中間、一・五」
「振りに小数ない」
「半分振る」
「どうやって」
ティアは慎重に壺を傾けた。
粉が一度、少しだけ落ちる。
「一」とマオ。
「本日は細かい粉です」
「だから一」
ティアは魚を食べた。
むせなかった。
「味は」とハル。
「薄い」
「普通」
「私には薄い」
「でもむせない」
「改善には喪失が伴う場合があります」
「大げさ」
カイルは苺の皿へ手を伸ばした。
エリアが無言で皿を遠ざける。
「まだ取っていない」
「取る未来を予測しました」
「地図は未来を描かないのでは?」
「過去四回の実績から現在の手を測りました」
「反論しにくい」
ロロが苺を一つ取り、ピコへ見せる。
「これは部品じゃない」
ピコが首を傾ける。
「食べ物」
ピコは口を開く。
「お前は食べない!」
ノクスが横から苺を取った。
「ノクスも食べる?」とハル。
夜獣は匂いを嗅ぎ、カイルの皿へ置いた。
「返してくれた」
「毒味では」とエリア。
「王太子の役割を奪ったな」
「それ、役割だった?」
「検品だ」
食事の後、楽団が一曲目を始めた。
白環杯の伝統。
完走者は、順位に関係なく一曲踊る。
「来た」とハル。
「何が」とエリア。
「借りを返す時間」
「左腕は」
「固定」
「私の踵は平底靴でも痛み一」
「やめる?」
「短時間なら可」
「医務条件?」
「はい」
「じゃあ踊る」
「一曲ではなく、半曲」
「借り、半分?」
「あなたの技量次第です」
エリアは濃紺の髪の左三つ編みを残し、礼装ではなく学院の白い平底靴を履いている。
ハルは正式星航生章を左胸へ付け、右手だけを差し出した。
「手、これでいい?」
「左腕を無理に上げない。右手は私の左手。あなたの左手の代わりに、肘を私の右前腕へ軽く当てる」
「複雑」
「歩くより簡単です」
「歩ける」
「地図を読まずに?」
「それは別」
二人は床へ出た。
カイルが口笛を吹く。
ティアが睨む。
ロロは賭け札を作ろうとしてドランに没収される。
「何に賭けるつもりでしたの」
「足を踏むまでの秒数」
「最低です」
「予想は?」
「十二秒」
「賭けてるじゃん」とマオ。
音楽が始まる。
「一、二、三」とハル。
「跳ばないでください」
「数えただけ」
「右足から」
「右」
「次、左」
「地図みたい」
「舞踏譜です」
「従う?」
「更新を返してください」
「今、右足が遅れた」
「受領。小さく回る」
二人は半円を描く。
ハルの左腕は固定されている。
そのため距離が近い。
「近くない?」
「医務条件上です」
「便利な条件」
「何か言いましたか」
「何も」
エリアの右眉が上がる。
「次、後ろ」
「どっち」
「あなたの後ろ」
「俺の後ろ、今どこ」
「床の模様、金線側」
「見えない」
「私を見て」
ハルはエリアを見る。
一歩下がる。
成功。
「できた」
「まだです」
二歩目。
ハルの靴が、エリアの右足へ乗った。
「痛っ」
「ごめん!」
演奏十二秒。
ロロが両手を上げる。
「当たり!」
「賭け札は没収しましたわ!」
「心の賭け!」
「最も回収できない賭博です」
ハルは足をどける。
「痛み」
「一から二」
「中止?」
「二で中止」
「ごめん」
「条件どおりです」
「借り、返せなかった」
エリアは右手で口元を隠した。
心から笑う時の癖。
「むしろ増えました」
「二曲?」
「まず一曲を完了してください」
「次は踏まない」
「約束?」
ハルは考えた。
「練習予定」
「逃げましたね」
「エリアの言葉」
「使い方が上手くなりました」
二人は曲の途中で床を下りた。
半曲にも届かない。
借りは残る。
残るものが、失敗だけとは限らない。
次に同じ場所へ立つ理由も残る。
慰労会が終わる頃、ティアは学院掲示板へ一枚の紙を貼った。
『生徒評議会設立準備会 参加者募集』
その下。
『議長候補 ティア・グランツ』
さらに、小さな文字。
『候補者への質問、反対意見、罷免手続案を同時募集』
「自分の悪口も募集?」とハル。
「悪口は意見ではありません」
「どこから違う?」
「具体的な事実と変更要求があるか」
「『辛い物を減らせ』」
「私生活です」
「食堂規則なら?」
「検討します」
マオが最初の質問札を貼る。
『規則を作る会議へ、字を読むのが苦手な人をどう入れる?』
ティアはその場で答えを書かなかった。
「考える?」
「本人と方法を決めます。平易文、読み上げ、図、代理ではなく補助」
「今、答えた」
「正式回答は、マオと確認してから」
「受理」
ハルは掲示板を見る。
「船にいなくても、話あるんだな」
「あります」
「会わない間も?」
「当然です。あなた方に見えないところでも、私は失敗して、選び直します」
ティアは七から十二の札片を内ポケットへ入れた。
「次に会う時、あなたの札に何が増えているか確認します」
「傷?」
「傷だけでないことを期待します」
「煤」
「それも減らしてください」
「穴」
「増やさないで」
「結び目」
「それは見ます」
夜。
ゼロスター号は、修理途中のまま学院港へ浮いていた。
外板一枚はまだ仮止め。
貨物桟橋は短くなり、橋として使った傷が残る。
六番目の椅子は食堂へ戻り、右膝支えを畳んでいる。
主帆内側で、一から六の目盛りを持つ札が小さく鳴った。
風が来る。
星鉄片が帆金具へ触れる。
チン、と一音。
学院寮の窓辺では、ティアの内ポケットにある七から十二の片が、同じ風では鳴らない。
魔法ではない。
遠くの音は届かない。
別々の場所で、別々の時間が始まる。
ハルは船首へ座っていた。
左腕は固定。透明箱から出した羅針盤は、閉じたまま膝にある。
決勝が終わったため、三分割鍵の封印は解除された。
「使わなかった」とカイル。
「うん」
「使えなかったのではない」
「うん」
「次は使うかもしれない」
「うん」
「便利な返事だな」
「考えてる」
ハルは蓋を一度弾いた。
二度。
三度。
「針がなくても、道は見つかった」
「針が要らない?」
「違う」
「では」
「針だけじゃなかった」
エリアが地図卓を抱えて甲板へ来る。
「その訂正は重要です」
「聞いてた?」
「聞こえる距離です」
「地図、終わった?」
「救助路の清書は終わりません。各艇の誤差注記が残っています」
「手伝う?」
「左腕で?」
「話す」
「では、壁傷の匂いを説明してください」
「白い粉。古い鉄。雨前の屋根みたい」
「最後だけ地球の比喩です」
「分かりにくい?」
「分からないので、残します」
「消さない?」
「私が知らないことを、存在しないことにしません」
ノクスが船首へ上がり、二本の尾を夜空へ向けた。
その時、一枚の灰色の伝羽が港の暗がりから飛んできた。
王都の公文書羽ではない。
学院の青印もない。
羽軸へ、錨と継ぎ船を組み合わせた自由港の通行印だけが押されている。
伝羽はゼロスター号の主帆を一周し、ハルの膝へ落ちた。
「誰から」とカイル。
「署名なし」とエリア。
「開いていい?」
「受取人は」とティアの声が桟橋からした。
帰ったはずの彼女が、移動椅子で港へ来ている。
「まだいた?」
「掲示板の鍵を返しに来ました」
「本当?」
「半分は」
「残り」
「札が正しく結ばれたか確認」
「今、鳴った」
「聞こえませんでした」
「魔法じゃないから」
ハルは伝羽の宛名を見る。
『ゼロスター号・航路決定者へ』
「みんな」とハル。
「曖昧です」とエリア。
「でも全員」
「開封を」とカイル。
ハルは羽軸を折った。
灰色の光が、短い文を空中へ出す。
『自由港より通告。
王獣鈴の欠片、一片。
三日後、公開競売へ出品。
入港を望む者は、船名と支払手段を届け出よ。』
それだけだった。
差出人名。
欠片の入手経路。
競売の目的。
誰が買うか。
何もない。
「王獣鈴」とカイル。
「知ってる?」とハル。
「古い王獣儀礼の名だ。欠片が本物かは分からない」
「競売」とロロ。
いつの間にか機関室から出ている。
「支払手段っていくら!」
「まず値段を聞く」とドラン。
「お前もいたの!」
「請求書を届けに」
「全員、帰ってない」
「船がまだ出ていませんから」とエリア。
ハルは伝羽を見た。
「三日後」
「肩は一週間、艇外禁止」とリディアの声が通信筒から飛ぶ。
「何で聞いてるの!」
「船の医務筒を切り忘れています」
「行けない?」
「航行自体は、治療条件を守れば審査します」
「今すぐ出るとは言ってない」
皆がハルを見る。
「何」
「成長」とカイル。
「評価は後」とエリア。
「肩を治す」とハル。
「それから?」
彼は自由港の印を見る。
知らない場所。
知らない競売。
知らない欠片。
答えはない。
だから、道を作る余地がある。
「それから、みんなで決める」
エリアの口元が、少し緩んだ。
「受領」
ティアは桟橋から、主帆の札を見上げる。
「私は学院へ残ります」
「分かってる」とハル。
「自由港へ行くなら、戻る日を断言しないで」
「更新を返す」
「伝羽で?」
「急ぎは」
「札は?」
「会った時」
「受領します」
港の風が、主帆の内側を通った。
一から六の目盛りが、また一度鳴る。
船と学院。
進む者と残る者。
どちらも止まってはいない。
道は一本でなくてよい。
同じ結末へ向かわなくてもよい。
離れた後にも、それぞれの場所で事件が起き、失敗があり、選び直しがある。
航路札は、必ず帰る約束ではない。
帰らなかった時間を消さず、次に会った時、互いの道を説明するための空白である。
ゼロスター号の六番目の椅子は、誰も座っていない。
けれど空ではなかった。
膝支え。
香辛料の染み。
開いた規則円。
座面裏の『先に聞く』。
人が離れた後も、その人の物語が続いていることを示す痕が残る。
ハルは零星針を閉じ、自由港の伝羽を地図卓へ置いた。
「エリア」
「はい」
「まだ描かないで」
「なぜ」
「肩治して、船直して、値段聞いて、それから」
「順番を覚えましたね」
「正式学生だから」
「初日です」
「初日から」
ロロが機関室から怒鳴る。
「正式学生なら修理代の署名しろ!」
「初日から請求?」
「在籍前の分も!」
「過去へ規則出すな!」
「借金は過去から来る!」
笑い声が港へ広がった。
白環は遠くで、修理のため静止している。
観客島のあった場所には、仮の救難灯が点いている。
最短ではない道。
誰か一人の針だけでは見つからない道。
途中で訂正し、役割を渡し、離れた者の話まで続けられる道。
ゼロスター号の主帆で、最初の航路札が三度目の小さな音を立てた。
第五巻 了