第121話 第一章「千隻でできた町」前編
港とは、陸が船へ差し出す手である。
古い航海書はそう書いた。
陸は動かず、船は動く。動く者が帰るため、動かない者が桟橋を伸ばす。ゆえに港は、旅人へ向けて固い地面が行う挨拶だという。
自由港ヴェインに、その説明は当てはまらない。
この町には、陸がなかった。
最初からなかったわけではない。二百八十年前には、雲海から突き出た細い岩礁が一つあったらしい。そこへ嵐で帆を失った軍船が係留され、次の年には税から逃げた商船が横付けされ、さらに沈めるには惜しい廃船、帰る国を失った移民船、船名を削った密輸艇が継ぎ足された。
船は家になった。
家は道になった。
道の下へ別の船が入り、帆柱へ橋が渡り、船腹をくり抜いた市場の下に、さらに古い甲板が埋まった。
公式の船数は時代ごとに違う。
九百八十七隻と数えた役人もいれば、一千百二隻と数えた保険会社もある。壊れた船首だけを一隻に含めるか、三艘を一つの家へ縫い合わせたものをどう数えるかで、町の人口ほど意見が割れた。
住民は議論を短くするため、その町を千隻の廃船をつないだ自由港〈サウザンド・ハル〉と呼んだ。
千という数は、正確さを諦めた時にだけ正確になる。
数え切れないほどある。
それだけを、全員が同じ意味で理解できた。
「船名」
「ゼロスター号」
「支払手段」
「相談中」
「支払いになってない」
「じゃあ、王子」
「人を通貨にするな」
「王子を売るとは言ってない。見せれば信用になるかと」
「俺の顔を担保へ入れる前に、本人へ相談しろ」
「今した」
「相談は提出欄でやるものじゃない」
白環杯から八日後。
ゼロスター号は自由港ヴェインの外縁へ着き、入港櫓から垂らされた書類籠へ、三度目の申請書を返されていた。
一度目は支払手段が『たぶん現金』だった。
二度目は『王室が必要なら払う』だった。
三度目が『相談中』である。
進歩とは、同じ場所で違う失敗をすることかもしれない。
「正式な学生になったのに、書類は前よりひどいですね」
エリアが地図卓の端を左手で押さえ、右手の細い筆で申請書の空欄を示した。
濃紺の旅装。左肩から下げた地図筒。髪の左側だけを細く編んだ三つ編みには、白環杯で使った小さな地図針が差してある。右足の踵にはまだ薄い固定布が巻かれていたが、歩幅はいつもの長さへ戻っている。
「学生証、支払手段にならない?」とハル。
「身分証です」
「身分は信用になる」
「あなたの身分は、八日前に発行されたばかりです」
「新しい方が価値ありそう」
「古い酒と新しい身分を同じ棚へ置かないで」
「なら俺の王太子証明を」
カイルが口を挟んだ。
赤金の髪へ海風ならぬ空風を受け、深紅の半マントを片肩へ掛けている。嵐庭園で負った肋骨の固定帯は外れた。ただし右腕の盾籠手には、リディアが巻いた白い医務糸が一本残っている。全力の王盾は一度、短時間。それが今回の条件だった。
「王家は自由港で最も信用の低い発行元の一つです」とセレナ。
「一つなんだな。最下位ではない」
「海賊組合、亡国政府、昨日できた宗教団体と競っています」
「景気が悪いな」
「その言い方で景気を測らないでください」
セレナは黒い外套の襟を閉じ、六角単眼鏡の位置を直した。
今回、彼女は王国の使者ではない。
自由港から届いた伝羽が第二の天鍵たる王獣鈴の欠片を名乗ったため、来歴と取引条件を確認する外部監査官として同行している。同行費用は王室、滞在費は学院、甘味費だけ本人の私費という、彼女らしい三分割だった。
「現金はあるだろ」とロロ。
機関室から、黄色い作業上着と四本の補助腕が現れる。
「白環杯の賞金」
「修理へ消えた」
「全部?」
「片帆、外板、可変帆骨、観客島から飛んできた椅子の脚、カイルが盾で潰した船首手摺」
「最後は俺の請求か?」
「王室へ送った。返事は『審査中』」
「支払手段が相談中の国から来たんだ、俺たち」
ゼロスター号は修理を終えてはいない。
右舷外板は新しい白板と古い青板が市松に継がれ、貨物用の短桟橋は白環杯前より三分の二の長さになった。主帆の内側には、ティアが残した一枚目の航路札が結ばれている。折れた双規刃の破片を一から六まで並べた札で、風が通ると金属片が控えめに鳴った。
六番目の客員席には、まだ彼女の膝支えが残っていた。
座る者はいない。
空席は、いない人を消す場所ではなかった。
ハルは左肩を一度回した。
痛みはない。
耳の横まで上げると、奥で薄い紙が擦れるような感覚がある。リディアの再診では、普通の走行と両手の綱取りは許可。片腕だけで全体重を支えること、急反転を十回以上続けること、痛みを黙ることは禁止だった。
三つ目は身体の制限というより、性格への処方である。
「回す回数」とエリア。
「まだ一回」
「船を降りる前に三回まで」
「分かってる」
「分かっている人は、今ので二回目と数えます」
「今のは確認」
「確認も回転です」
「肩の回数まで契約にする気?」
「契約ではなく記録」
「似てる」
「違います」
「何が?」
「契約は行動条件を合意するもの。記録は起きたことを残すもの」
「じゃあ、肩を回さないって約束したら」
「回した時、記録が増えます」
「逃げ道がない」
「身体から逃げないで」
入港櫓の上から、係員が空の書類籠を振った。
「次で不備なら外待ちだぞ!」
「支払手段」とエリア。
「現金残高」とロロ。
「二十二ルクと穴半分」とカイル。
「穴半分って何」
「割れた硬貨」
「それを現金残高へ入れるな!」
穴あき共通硬貨〈ルク〉は、中央へ開いた穴に紐を通して携帯する。地域ごとに価値は違うが、二十二ルクでは王都の安宿に四人泊まれるかどうか。自由港の係留費がいくらか、彼らは知らない。
知らない値段を払う時、人は二種類に分かれる。
安いと思い込む者と、高いと思い込む者である。
彼らの前へ現れた少女は、第三の種類だった。
「今なら四十八ルク」
声が、頭上から落ちてきた。
正確には少女の方が落ちてきた。
上層の帆柱から一本の係留索を滑り、銅色の短い巻き髪を風へ散らし、左右で丈の違う赤茶のコートを翻して、ゼロスター号の船首へ着地する。
左脚だけ、木板を叩く音が違った。
膝から下の星晶義足。
半透明の結晶骨格へ細い金属帆骨が走り、踵と脹ら脛から畳まれた小帆がのぞいている。片耳には、形も材質も異なる風鈴の耳飾りが七つ。着地の衝撃で六つが鳴り、一つだけ鳴らなかった。
「何が四十八?」とハル。
「入港、係留、案内、封鎖時の退避、王族を見なかったことにする口止め、修理工が勝手に部品を外さない保証」
「最後、俺に対する料金だろ!」とロロ。
「危険物は追加料金」
「俺を危険物に入れるな!」
「四本腕で他人の港へ来て、工具箱を抱えて、目が『外せる』って言ってる」
「目は喋らねえ!」
「補助腕が全部、あの滑車を指してる」
ロロの四本の補助腕が、同時に引っ込んだ。
「証拠保全官を前に、口止めを料金項目へ入れましたね」とセレナ。
「見なかったことにしない保証へ変える?」
「料金が逆です」
「じゃあ五十二」
「上がった」
「正確な説明には手数料がかかる」
少女は右手を差し出した。
「ミラ・ベルウェザー。船長。案内契約、四十八ルク。今決めるなら四十六。五息後は五十」
「値段が時間で増えるの?」
「時間は減るからね」
「何が減る」
「私の機嫌」
短く三度、笑った。
ハルは差し出された手を見た。
右小指に、古い船長契約らしい小さな刺青がある。
「その親切、いくら?」
「親切じゃなくて商売」
「じゃあ、その商売、何を守る?」
「支払った人の船」
「支払わない人は?」
「沈まない程度には放っておく」
「程度って」
「港で一番高い単位」
エリアが間へ入った。
「案内範囲を正確に」
「入港門から競売登録所、係留所、税関、修理市場。迷子一人回収につき二ルク」
「迷わなければ?」
「その分、私が損する」
「迷わせる気?」
「道は自由だよ。料金も自由」
「自由を値上げの言い換えにしないで」
ミラの灰緑の目が、エリアの地図筒へ移った。
「地図屋?」
「航路士です」
「道を決める人」
「選択肢を描く人」
「同じだね」
「違う」
「違うって言える道を描けるなら、半分同じ」
「半分は違います」
「残り半分、保留」
耳飾りが一度鳴る。
ミラはどんな会話も三つへ分類する。
成立。
保留。
終了。
それは口癖というより、世界へ付ける留め金だった。
「二十ルク」とロロ。
「四十六」
「二十二しかない」
「王子を担保」
「俺を戻すな」とカイル。
「労働で払う」とハル。
「何ができる?」
「走れる」
「港には足が余ってる」
「届ける」
「荷物も余ってる」
「落ちた人を助ける」
ミラの笑いが止まった。
一瞬だけである。
次には、口元だけがまた上がる。
「それは先に値段を決めた方がいい」
「命に?」
「助けた後の借りに」
風が、鳴らない耳飾りを揺らした。
「三十二ルク。残り十は修理工の点検作業。王子の顔は無料で見なかったことにする。成立?」
ロロが叫ぶ。
「俺の労働を勝手に値引きへ入れるな!」
「じゃあ王子の労働」
「何をすればいい?」とカイル。
「港で王子をやめる」
「難易度が高い」
「高いから十ルク」
セレナが申請書を取り上げ、支払手段欄へ書いた。
『現金二十二ルク。機関点検十ルク相当。残額は案内終了後、請求根拠を確認して精算』
「勝手に」とロロ。
「点検する予定は?」
「ある」
「なら記録しました」
「契約成立」とミラ。
「私は署名していません」
「あなたの契約じゃない。船の契約」
「船は署名できません」
「だから中の人が喧嘩する」
ミラは申請書の端へ、流れるような署名をした。
その下に三つの小さな欄を描く。
成立。
保留。
終了。
保留欄だけが、最初から少し広かった。