第123話 第二章「三割の容疑者」前編

容疑とは、証拠の手前にある仮設の橋である。

 橋である以上、渡るために使う。

 住むためには使わない。

 ところが人は、橋の上へ家を建てたがる。

 一度「あいつが怪しい」と言えば、その上へ噂の壁を立て、過去の悪評を屋根にし、反論を窓から捨てる。やがて橋だったことを忘れ、最初からそこに真実の家があったと言い始める。

 自由港では、その家にも賃料が付いた。

 疑われた者は逃走保証金を払い、疑う者は誤認補償を積み、裁定までの拘束時間には一刻ごとの料金が発生する。

 潔白は無料ではない。

 有罪も無料ではない。

 無料なのは噂だけであり、だから最も高くつく。

「右!」

「誰の右!」

「船首基準!」

「船首が三つある!」

「じゃあ一番新しい船首!」

「見分け方!」

「塗料が剥げてない!」

「全部剥げてる!」

 自由港で追跡をする時、方向の言葉は役に立たない。

 上層西橋を抜けたミラは、横倒しの駆逐船、その船腹へ縫い付けられた漁船、漁船の帆柱を使った昇降梯子を一息で渡った。

 走るのではない。

 滑る。

 左義足の踵帆が風をつかみ、右足が甲板を蹴るたび、彼女の身体は道の上を半歩だけ浮いた。直角に曲がる時は帆を畳み、壁へ義足の結晶爪を当て、止まらず向きを変える。

 追う警備艇が投網を射出した。

 ミラは振り向かない。

 耳飾りの一つを指で弾く。

 網の重りが彼女へ届く直前、その飛ぶ勢いだけが抜けた。

 網は空中で布のように垂れ、下の屋台へ落ちる。

「魚一匹追加!」と屋台主。

「請求は警備隊へ!」とミラ。

「お前へ送る!」

「住所保留!」

「住所を会話分類にするな!」

 ハルは横倒しの船腹を駆けた。

 左手は使う。

 ただし引かない。

 綱へ添えて方向だけを変え、体重は右手と両足へ分ける。地球で配送をしていた頃、狭い非常階段や工事中の足場を走った経験はある。だが、階段が空へ向かい、足場の裏側にも店があり、その店の客が天井を歩いている町は初めてだった。

「ハル、下へ三段!」

 エリアの声が、背後から飛ぶ。

 地図卓に描かれた光の線が、斜め下へ伸びた。

「近道?」

「現在地からは!」

「その言い方」

「三十秒後には橋が回る!」

「道が動くの?」

「荷揚げのため!」

「町に止まってるものないのか!」

「金庫!」

 ミラが前から答えた。

「開いてないんだろ!」

「だから止まってる!」

 ハルが三段下の帆橋へ飛び降りる。

「一、二、三」

 着地。

 左肩へ衝撃が上がったが、痛みは一未満。報告するほどではない、と言いかける自分の判断を、彼は先に疑った。

「肩一!」

「受領!」とエリア。

「そこまで叫ぶ?」

「聞こえなければ記録にならない!」

 後方では、カイルが警備艇の船首へ片足を乗せていた。

「乗せてくれ」

「封鎖中だ、王子でも――」

「王子ではない」

「顔が王子だ!」

「さっき十ルク払ってやめた」

「何の話だ!」

「景気が悪い話だ!」

 警備艇が急加速する。

 その瞬間、ミラが帆柱から飛び降り、空中で右手を開いた。

 艇の速度が消えた。

 前へ出るはずだった船体が、急に風の中へ置き去りにされる。乗員は手摺へ倒れ、カイルだけが左手で帆柱をつかんで耐えた。

 奪われた勢いは、ミラの義足へ青白い筋となって流れ込む。

 結晶の内部に、風の輪が一つ増えた。

「止まれ!」と警備兵。

「止まれって命令、私には褒め言葉!」

 ミラはその勢いを使い、十数メートル先の吊り市場へ跳んだ。

 しかし、何でもできるわけではない。

 着地先に、太い木箱が置かれている。

 通路を塞ぐ、車輪のない箱だ。

 ミラは右手を向けた。

 何も起きない。

「動いてない」とハル。

「観察点一ルク!」

 彼女は舌打ちし、帆刃を抜く。

 片刃の短剣が展開し、布帆を張った湾曲刀へ変わった。刃で箱を切るのではない。脇の滑車索を切り、頭上の空樽を落とす。落下する樽の勢いを盗み、自分へ足し、箱の横を壁走りで抜けた。

「止まってる物からは盗れない!」とハル。

「二点目は無料!」

「何で!」

「一度払った情報だから!」

 追跡は、港の上と下を二度入れ替えた。

 市場の天幕を走り、逆さに吊られた救命艇の底を越え、船首像の口から中層の食堂へ出る。食堂では朝粥が並び、客が追跡者を見ても席を立たない。

「ミラ、またか」と店主。

「今日は何割?」

「三割!」

「前は四割だったろ」

「今回は命じゃなく容疑!」

「安くなったな」

「信用が上がった!」

「逆だ!」

 ミラは卓上の金属皿を一枚、指で弾いた。

 皿が回る。

 その回転を盗む。

 義足の小帆が開き、彼女だけが横へ滑る。

 ハルは卓を飛び越えた。

 その横から、小さな橙色が伸びる。

 右手。

 指が六本。

 ハルの腰袋から、穴あき硬貨が一枚消えた。

「取った!」

「見てたなら取れてない」

 机の下から、煤黒の短い髪と琥珀色の目がのぞく。

 少女は硬貨を歯で確かめ、問いの最後だけ声を上げた。

「それ、追うのいくら?」

「無料」

 少女の目が細くなった。

「嘘」

「どうして」

「無料は後で高い」

「返して」

「先に値段」

「一ルク」

「持ってる」

「じゃあ返して」

「交渉下手」

 彼女は硬貨を自分の袖へ入れ、机の反対側から消えた。

「ハル!」とエリア。

「今、盗まれた!」

「追っている相手を増やさないで!」

「増やしたのは向こう!」

「容疑者を足し算しない!」

 ミラは食堂の出口で振り向き、短く三度笑った。

「歓迎されたね」

「あの子、知ってる?」

「質問一ルク」

「俺の一ルク返してから言え!」

「それはあの子の売上」

 警備隊が前後の扉へ現れた。

 食堂の出口が閉じる。

 ミラは中央の卓へ上がり、周囲を見回した。

「八人、網二、弩一。狭い。終了」

「何が」とハル。

「逃走」

「諦める?」

「分類を変える」

 風鈴が一度鳴る。

「交渉、成立」

 ミラは両手を上げた。

 武器を捨てない。

 義足も止めない。

 ただ、逃走を終了して会話を開始しただけである。

 セレナが食堂へ入った時、警備隊長はすでに拘束索を投げようとしていた。

「待ってください」

「外部官に指揮権はない」

「承知しています。私は指揮していません。あなたが今から、未提示の容疑で身体を拘束しようとした事実を確認しました」

 警備隊長の手が止まる。

 セレナは黒い証羽を一枚出した。

 羽根の表面へ、彼女が見た食堂の配置が淡く残る。

「拘束理由を」

「第一税関金庫の登録荷重窃盗。現場から逃走。過去の量札偽造。港税未払い。空賊行為」

「最後の三件は今回の拘束理由ですか」

「信用評価だ」

「信用と事実を同じ欄へ入れないでください」

「こいつは盗賊だ」

「職業分類です」とミラ。

「認めるのか!」

「空賊。盗賊だと陸にも対応しないといけない」

「細かい!」

「細かいから契約が生きる」

 カイルが遅れて入ってきた。

「事情を聞く間、王室の身分で――」

「王子は十ルクで終了」とミラ。

「一日契約だったのか?」

「入港中」

「まだ港内だ」

「じゃあ保留」

「便利だな、その三分類」

「便利な言葉は、だいたい誰かへ不便を押しつける」

 ミラは卓から降りた。

 義足の帆を畳む。

 結晶内部には、盗んだ勢いがまだ青く回っている。完全に静止すると身体のどこかへ流れ込むのか、彼女は右足を小刻みに動かしていた。

 急に止まれない。

 止まらないのではなく、止まると痛む。

 ハルはそれを見たが、口にはしなかった。

「金庫へ入った?」とセレナ。

「入ってない」

「扉へ触れた?」

「触れてない」

「登録荷重を移した?」

「質問が広い。今日? 人生で?」

「今回の金庫について」

「してない」

「現場から逃げた理由」

「逃げる理由があるから」

「その理由を」

「値段が合わない」

「では、いくらなら話す」

「三割」

「何の」

「回収額」

 食堂が静かになった。

 ミラは近くの紙ナプキンを取り、油染みのない面へ文字を書いた。

『第一税関・登録荷重喪失事件 調査契約

 一、ミラ・ベルウェザーは真の荷重移転者を特定する。

 二、依頼側は回収された財産、保険金、返還権、賞金の合計三割を支払う。

 三、ミラ・ベルウェザー本人が犯人である可能性を排除しない。

 四、本人が犯人だった場合、成功報酬は被害返還へ充当。

 五、逃走は調査行為に含む場合がある。

 六、死亡は契約不履行ではなく終了として扱う。』

「最後を消して」とハル。

「何で」

「死んだら終わりって書くな」

「事実だよ」

「事実でも契約へ書く必要はない」

「書かない死は、誰の負担になる?」

「死なない条件を書け」

「条件で死ななくなるなら安いね」

「安い高いの話じゃない」

「全部そう言う人ほど、後で値段を他人へ払わせる」

 ミラの声は笑っていた。

 目は笑っていない。

「三割。命が懸かるなら四割」

「今、三割って言った」

「まだ私の命が懸かってない」

「拘束されそうだよ」

「拘束は時間。命じゃない」

「時間は減るって言った」

「よく覚えてる。観察料一ルク」

「俺の一ルクはあの子が持ってる!」

「じゃあ借り」

「借りを増やすな!」

 エリアが契約書を取った。

「第一条、特定の定義がない」

「名前か、仕組みか」

「両方」

「二割増し」

「第二条、回収された財産の評価主体がない」

「あなた」

「私が?」

「地図屋は境界を引くでしょ」

「財産評価は地図ではない」

「所有の地図」

「言葉を似せて仕事を増やさないで」

「三条、自分の容疑を書いたのは評価します」とセレナ。

「褒められた。割引なし」

「五条は削除。逃走を事前に無制限許可できません」

「じゃあ『依頼側へ可能な範囲で通知』」

「可能かどうかを誰が決める」

「私」

「却下」

「厳しい」

「契約は、破る時の言い訳を書く紙ではありません」

「違う。破った後、何が残るかを書く紙」

 ミラの言葉に、食堂の奥で低い咳のような笑いがした。

 片側だけ丈の長い油布コートを着た女が、入口の柱へ寄りかかっている。

 暗い赤茶の太い編み髪。右耳の上半分が欠け、左頬には白い塩焼け。歯形のついた銅笛を口元へ当てていた。

「紙が濡れたら何が残る、船長」

「一航士の悪口」

「なら十分だ」

「ジル」とミラ。

「肩書を付けろ」

「逃げる時だけ船長扱いするのやめて」

「捕まる時だけ一人になるな、この役立たず船め」

 ジル・カスクは警備隊を見回した。

「で、拘束索は誰が結んだ」

「港警備だ」

「右巻きだな。引けば手首へ食い込む。容疑者の腕を壊す規則か?」

「標準だ」

「標準ってのは、責任者の名前を隠す毛布だ」

 警備隊長が顔を赤くする。

 ミラはナプキンの最後へ、三つの欄を描いた。

『成立/保留/終了』

「依頼人は?」

 ハルたちは顔を見合わせた。

 誰が依頼するのか。

 宝石の持ち主でもない。

 自由港の住民でもない。

 王獣鈴の欠片を追って来ただけで、今回の事件には本来、関係がない。

「関係がないなら」とセレナが言う。「外部監査として事実だけを確認し、港の裁定へ提出します。私個人が成功報酬を約束することはできません」

「王室が」とカイル。

「王国の予算を、港内窃盗の三割へ使う根拠は?」

「ないな」

「即答しないで探してください」

「王子をやめてる間は予算がない」

「便利にやめないで」

 ハルは契約書を見た。

「三割って、何を三つに分けるの」

「百を」とミラ。

「そうじゃなくて。盗まれたの、重さだろ」

「そう言ってるね」

「重さを回収したら、三割もらう?」

「重さを持って帰れるなら」

「重いよ」

「三割なら軽い」

「百分率で物理を変えるな」

「物理だって契約に従う町だよ、ここは」

 ミラはハルの顔を見た。

「怖くない?」

「何が」

「犯人かもしれない私へ、犯人捜しを頼むの」

「自分で書いた」

「書いたから信じる?」

「書かなくても疑う」

「ひどい」

「書いたから、どこまで疑えばいいか分かる」

 ミラの耳飾りが鳴った。

「それ、いくら?」

「質問」

「答え」

「案内料の残り」

「高い」

「そっちが決めた」

 短い笑いが三つ。

 ハルは契約書へ署名しようとした。

「待って」とエリア。

「何」

「船の契約は全員で」

「時間が」

「急ぐことと、一人で決めることは違う」

 ハルは手を止めた。

 カイルが左手で署名した。

 ロロは成功報酬の上限へ二重線を引いた。

 エリアは調査範囲と撤退条件を足した。

 セレナは自分が依頼人でなく、証拠監査者であると明記した。

 ノクスは紙の端を嗅ぎ、前脚の赤い布環で一度踏んだ。

「署名?」とハル。

「汚れです」とセレナ。

「本人の意思は」

「ノゥ」

「肯定?」

「魚の匂いがするだけ」とロロ。

 最後にハルが書く。

 契約は成立した。

「依頼側、六人と一匹?」とミラ。

「船」とエリア。

「船は署名できないって言ったでしょ」

「だから中の人が喧嘩する」

「それ、私の言葉」

「契約へ入れた時点で共有です」

「地図屋、怖い」

「航路士です」