第124話 第二章「三割の容疑者」後編
「契約、もう一枚」
ジルが言った。
「成立した」とミラ。
「油紙へ写せ。魚汁のナプキンが証拠で通るのは、魚が裁定官の時だけだ」
「紙を信用しないんじゃなかった?」とハル。
「信用しねえから、二枚にする」
「二枚なら信用が増える?」
「違う場所で濡れる」
「濡れる前提なんだ」
「船の紙だぞ」
ジルは食堂の会計板を勝手に裏返し、太い油筆で契約を写し始めた。細字の免責だけはわざと大きく書き、余白へ『ここを小さくする奴は手も小さい』と注釈を足す。
セレナが止める。
「原文にない文言です」
「注釈だ」
「契約文と区別を」
「色を変える」
「赤は訂正に使います」
「じゃあ魚の血」
「色の問題ではありません」
「役人は色より面倒だな」
「色を決めたのも役人です」
「自白した」
ミラは椅子へ逆向きに座り、背もたれへ顎を載せた。
義足の風室はまだ薄く青い。盗んだ勢いを完全に逃がしていないため、左踵が床を一定の拍で叩いている。
止まると痛む。
動けば逃走と見なされる。
拘束というものは、鎖だけで作られるのではない。本人の身体に必要な動きへ、罪の名前を付けることでも作れる。
「その脚、動かしていい」とハル。
「許可?」
「提案」
「誰への」
「警備へ」
「本人より先に?」とエリア。
「……動かしたい?」
ミラは彼を見た。
「動かしたい」
「じゃあ、言えばいい」
「警備の人。義足の蓄勢を抜くため、三歩ぶん動く。逃げない。見てて」
警備隊長が眉を寄せる。
「一歩」
「三歩」
「二歩」
「一歩半を二回」
「言葉で歩幅を分けるな」
「じゃあ二歩。成立」
ミラは立ち、食堂の傾いた床を二歩だけ滑った。
義足の青が薄れる。
戻る時は普通に歩き、椅子へ座った。
「戻りは歩数へ入らない?」とハル。
「帰りは別契約」
「逃げ道が増えた」
「戻り道」
その言い換えに、ハルは一瞬だけ黙った。
ミラは見なかったことにした。
契約の写しが完成すると、セレナはミラの赤茶コートを指した。
「所持品確認を行います」
「身体検査?」
「外衣の袋だけ。拒否できます。その場合、量札所持の疑いは未確認のまま残ります」
「拒否したら疑いが増える?」
「増えません。減らないだけです」
「同じ数字の顔を変えるの、得意だね」
「意味が違います」
「数字は意味で太る」
ミラはコートの内袋を自分で返した。
壊れた風鈴。
短い帆刃。
穴あき硬貨七枚。
義足用の塩除け油。
魚の骨を削った針。
そして、真鍮の量札が一枚。
警備隊長が腕を伸ばす。
「それだ」
「触らないで」とセレナ。
黒い証羽を札の下へ滑らせ、直接指を触れずに受ける。
「正規札?」とハル。
「外見上は」とロロ。
四本の補助腕が同時に近づく。
「近い!」とセレナ。
「触ってない!」
「工具が呼吸しています」
「してねえ!」
「お前の補助腕、さっきから札へ求婚してる」とジル。
「機械への侮辱だ!」
「人への求婚の方が侮辱みたいに言うな」
ロロは単眼拡大鏡を下ろした。
「穴の縁が変だ。外側は新しい。中心は少し古い」
「どういう意味」とハル。
「同時に開けてない」
「量札は普通そうだろ」とジル。「行先を変えるたび穴を足す」
「でも、こいつは順番が……まだ分かんねえ。比較が要る」
札の端には、二つの穴が近接していた。
古い軍需品に見られる二重穴であることを、この場で知る者はジルだけだった。
彼女は銅笛を一度噛んだが、何も言わなかった。
「どこで手に入れた」と警備隊長。
「拾った」
ミラは正面から彼を見た。
ハルはまだ、その距離の癖を知らない。
「どこで」
「金庫の近く」
「いつ」
「警報の前」
「なぜ持ち去った」
「落とし物は持ち主へ返すため」
「持ち主は」
「調査中」
「逃げた理由は」
「質問が一周した。二回目は料金倍」
警備隊長が札を取り上げようとする。
ノクスが、その手と札の間へ頭を入れた。
黒い毛。
二本の尾。
前脚の赤い布環。
「この獣は、嘘を嗅ぐのか」と隊長。
「違います」とセレナ。
「破られた約束の残り香へ反応する」とエリア。
「なら札を嗅がせろ。誰が偽ったか分かる」
「分かりません」
「なぜ」
「札には多くの契約が重なっています。製造、所有、保険、係留、運搬。どの約束の痕か区別できない」
「便利な時だけ使う力か」
「便利に見える時ほど、使わない判断が必要です」とセレナ。
ノクスは札を嗅いだ。
一度、くしゃみをした。
次に、食堂の入口、警備隊の拘束索、会計台の未払い札、ミラの契約紙へ順番に鼻を向ける。
「全部?」とハル。
「ノゥ」
「港全体が約束破り?」
「契約の町だから、破られた約束も多い」とジル。
「答えにならない」
「だから猫を裁定官にしてねえ」
「夜獣」とハルとエリアが同時に訂正した。
「息が合うな」
「事実です」
セレナは量札を黒布へ包み、封印した。
「これはミラが登録荷重を盗んだ証明ではありません」
「偽札を持っていた」と隊長。
「所持の証明です」
「現場にいた」
「所在の証明です」
「逃げた」
「行動の証明です」
「三つそろえば十分だ」
「三つの意味が同じなら」
ミラが短く三度笑った。
「黒い鳥、疑いを分割して安く売るね」
「混ぜて高く売らないだけです」
「嫌いじゃない」
「感想は記録しません」
その時、食堂の外で杖の石突きが一度鳴った。
警備隊が左右へ分かれる。
白と紺の長衣を着た男が入ってきた。
五十を越えた細身の体。灰色がかった金髪を後ろへ撫でつけ、両手に白い手袋。右手の親指だけ布が切られ、爪と指腹が露出している。左手の杖には小さな水平器が埋め込まれ、男は傾いた食堂の床でも、泡が中央へ来る角度で杖を立てた。
「港主グラウス・ドレッジ」とジルが低く言う。
「敬称を一つ落としたな、カスク」
「濡れた紙から落ちた」
「まだ濡れていない」
「先に落とした」
グラウスはミラを見た。
「自由港は、自由な者が責任を引き受ける場所だ」
「責任を引き受けられる者だけを自由って呼ぶ場所でしょ」
「言葉遊びは裁定で」
「言葉で人を落とすのも裁定で?」
「第一税関の沈没保険金庫は、私の管理下にある。保管中の星重石は現存。扉、封印、監視網に破損なし。登録荷重九百六十七単位のみが消えた」
「九百六十七」とセレナ。「測定誤差は」
「零点二」
「喪失時刻」
「鐘が鳴った時刻」
「同義ではありません」
グラウスの目が、わずかに細くなる。
「外部官は、港法へ意見できない」
「意見していません。言葉を分けました」
「分けることで結論を遅らせる」
「結論を急ぐことで、事実を変えないためです」
「容疑者は現場にいた。偽造量札を所持していた。逃走した」
「偽造量札?」とハル。
ミラは答えない。
グラウスは白手袋の右親指で、薄い真鍮札を一枚掲げた。
円形の縁へ穴が四つ。
そのうち二つは近接し、古い傷のように重なっている。
「彼女が逃走路へ落としたものだ。第一税関の登録形式を模している」
「落とした?」とセレナ。
「警備が回収した」
「落ちるところを見た者は」
「監視記録がある」
「原記録を確認します」
「裁定後に」
「証拠確認が後?」とハル。
「港封鎖中は、登録船の安全が優先される。即時裁定を行う」
「誰が裁く」
「登録船主の代表」
「下の船は?」
「無登録だ」
「町にいる」
「存在と資格は違う」
グラウスは水平器の泡を見た。
「港は現在、下層へ零点六度傾いている。議論の時間はない」
「傾いてる原因を、容疑者一人へ乗せるの?」
「原因と責任を分けるほど、港は余裕を持たない」
「分けないから、誰かへ全部乗せられるんだろ」
ハルが言うと、グラウスは初めて彼を正面から見た。
「地球人」
「知ってる?」
「王都の事件は、保険市場を動かした」
「俺、相場になった?」
「未知は常に相場になる」
「じゃあ俺の意見も値段つく?」
「契約資格があれば」
「資格がなかったら」
「意見ではなく、要望だ」
ミラが一歩、グラウスへ近づいた。
嘘をつく時だけ、相手へ正面から近づく。
まだハルは、その癖を知らない。
「私が盗んだ」とミラ。
食堂の空気が変わる。
ジルが銅笛を噛んだ。
セレナの右手が証羽へ伸びる。
「何を」とハル。
「今から確かめる」
「それは答えじゃない」
「答えは高い」
ミラは正面からグラウスの目を見た。
「だから裁定まで、私を捕まえればいい」
「ミラ」とジル。
「一航士、契約は成立した」
「逃走条項は削られたぞ」
「通知はした」
次の瞬間。
食堂の外で、ゼロスター号の機関が唸った。
ロロが遠隔で船を移動させようとしていた。
封鎖索の落下から、船尾を守るための短い噴射である。
ミラの右手が開く。
町を隔てた船の発進力が、風の線となって彼女へ飛んだ。
「おい!」
ロロの補助腕が全部上を向く。
ゼロスター号は、船首だけ前へ沈み、停止した。
ミラの義足に、青い輪が二重に灯る。
彼女は卓を蹴り、天井の砲門へ飛び込んだ。
「契約外だ!」とエリア。
「調査行為!」
「削除した!」
「保留欄!」
「そこへ何でも入れないで!」
ハルは追って砲門へ跳んだ。
ミラが空中で振り返る。
「三割の容疑者を信じる?」
「七割は?」
「まだ値段が付いてない!」
「じゃあ追って決める!」
二人の下で、ゼロスター号の主帆が力を失った。
代わりにミラが、隣の甲板へ弾丸のように飛ぶ。
港の下層から、木が裂ける音が三つ続いた。
一つ目は遠い。
二つ目は近い。
三つ目は、町全体の足元から聞こえた。
疑いの橋を渡っている間にも、港は沈み始めていた。