第125話 第三章「沈む市場」前編
機械は、正直である。
正直という言葉を、人間は善良の意味で使いたがる。
ロロ・ピクスにとっては違った。
機械の正直さとは、壊れれば壊れた音を出し、足りなければ足りない力しか返さず、無理をさせれば無理をさせた場所から先に裂けることである。
泣きながら動く機関はある。
笑いながら人を殺す機関もある。
だが、どちらも痕を残す。
人間は、壊した後で「最初から壊れていた」と言う。
機械は、いつ壊されたかを傷へ書く。
だからロロは、人より機械を信じた。
正確には、人間が機械へ残した傷を信じた。
「逃げたんじゃなかったのか!」
「逃げたよ」
「戻ってる!」
「目的地に着いた」
「逃走の目的地を捜査場所にするな!」
ミラは自由港第十七層、修理市場の入口で待っていた。
ゼロスター号から盗んだ発進力は、もう義足の結晶内に残っていない。代わりに右膝へ薄い固定帯が巻かれ、彼女は片脚へ体重を寄せない立ち方をしていた。
港の下層から聞こえた三つの破断音。
その確認に来たのだという。
「契約へ逃走条項はない」とエリア。
「調査に必要な移動」
「通知は」
「『今から確かめる』って言った」
「移動方法と行先がない」
「全部書いたら逃走じゃない」
「だから逃走を認めていないのよ」
「成立した契約を、今から成立させ直す?」
「違反記録を一つ増やします」
「記録料は?」
「あなたが払う」
「怖いね、地図屋」
「航路士です」
セレナは黒い証羽へ、時刻と移動経路を書き足した。
「違反かどうかの判断は後です。いまは破断現場を」
「後で払うってこと?」とミラ。
「後で判断するということです」
「後払いと保留の区別、難しいね」
「支払義務の成立前か後かです」
「難しいまま返した」
ハルは左肩を一度回す。
「痛みは」とエリア。
「一。走ったから」
「休止五分」
「市場を見ながらなら?」
「歩行だけ」
「交渉成立」とハル。
「私の条件をあなたが成立させないで」
ミラが短く三度笑った。
「似てきた」
「誰に」
「悪い方へ全員」
「ここ、天国か?」
自由港の修理市場を見たロロは、最初にそう言った。
「地獄の部品置場だ」とジルが訂正した。
「天国と何が違う」
「部品が高い」
「地獄だ!」
横倒しの巡洋艦三隻を、船腹同士でつないだ市場だった。
元砲塔には歯車。
元食堂には帆布。
元医務室には義手と義足の継ぎ金具。
通路の両側へ、翼車、星晶管、航路灯、古い舵輪、何に使うか分からない真鍮の骨が積まれている。
新品はない。
同じ形もない。
壊れた物しかない。
つまり、直す余地しかなかった。
ロロの四本の補助腕が、本人より先に広がった。
「見ろハル! 旧式六爪の二段噛み! 王都じゃ博物館の硝子越しだぞ!」
「何に使うの」
「使える物へ使う!」
「説明が先から後ろへ回ってる」
「用途を固定するから部品が死ぬんだ!」
「ロロ」とエリア。
「分かってる、触らない!」
補助腕の一本が、すでに歯車を持ち上げていた。
「それは触っている状態です」
「重さを確認しただけ!」
「購入前に?」
「買うかもしれない!」
露店の老婆が、歯のない口で笑った。
「十二ルク」
「高っ!」
「王都の修理工だろ」
「何で分かる!」
「値札を見てから触る」
「普通そうだろ!」
「港の修理工は、触って直してから値段を聞く」
「それ、払えなかったらどうする!」
「元へ壊す」
「思想が強い!」
ロロは歯車を戻した。
ただし、元より噛み合わせのいい向きへ。
「八ルク」
「十」
「九」
「成立」とミラ。
「お前が決めるな!」
市場中央に、古い工房があった。
看板には、錆びた字で『カスク帆索・綱・人の修理は不可』と書かれている。
「人は直さないの?」とハル。
ジルは歯形のついた銅笛を噛んだ。
「直したと言う奴は、だいたい自分の都合へ曲げてる」
「じゃ、助けるのは」
「助けた後も、元どおりにならなくていいと先に言う」
「言い方が悪い」とミラ。
「お前にだけ言われたくない」
工房の床は、元船室の隔壁を並べ直したものだった。壁に数百本の索、天井に帆骨、奥に小型の浮力炉。机はすべて床へ縄で固定されている。
ジルは椅子へ座らない。
揺れる床ほど立ちやすい女だった。
「その紙、見せろ」
ミラとの調査契約を受け取る。
紙の匂いを嗅ぎ、上から下まで目を走らせた。
「字を読めるの?」
机の下から声がした。
食堂でハルの一ルクを盗んだ少女が、膝を抱えている。
橙色の大きすぎる甲板服。左右違う靴。右手が六指。
「読めるようになった。残念か」とジル。
「字を読める人、細かい」
「読めない人を細かい字で騙す奴がいるから覚えた」
「覚えたら、騙す側になれる」
「だからお前が見る」
少女は机の下から出た。
ハルの一ルクを机へ置く。
「返すの?」
「安全じゃないけど、持ってると追われる」
「一ルクで追わない」
「無料で追う人の方が怖い」
「名前は」とセレナ。
「先に値段」
「名前を聞くことへ、私は対価を要求しません」
「後で使う?」
「記録へ残す場合は目的を説明します」
「今は?」
「事件の証人になり得るため。ただし答えたくなければ保留」
少女はミラを見た。
「それ、便利?」
「使う人による」
「パル」
「姓は」
「今はスピン」
「今は?」
「変えたらだめ?」
「本人が選び直す手続きはあります」
「手続き、いくら」
「王国では無料です」
「後で取る?」
「取りません」
「どうして」
「名前の訂正へ課金すると、誤って登録された者だけが払うためです」
パルはセレナをじっと見た。
「それ、借り?」
「制度です」
「制度の借りは誰に返す」
「税を払う者全体へ、必要な時に別の者が使える形で返ります」
「難しい」
「私も、完全には説明できません」
セレナが分からないと言うと、パルは少しだけ机の外へ出た。
ジルは契約紙の証人欄を指した。
「字で署名しなくていい。見たことがあるなら、結び目を置け」
「契約できない」とミラ。
「証人は契約者じゃない」
「責任を負えない」
「見たことを言う責任なら、背負える分だけでいい」
パルは短い紐を取り、机の脚へ三回結んだ。
一つ目は右へ。
二つ目は左へ。
三つ目は、引けばほどける輪。
「これ、わたし」
「何を意味する」とセレナ。
「見た。聞かれたら答える。嫌になったら外す」
「撤回条件が入ってる」とハル。
「字より細かい」とエリア。
「結び目は濡れても残る」とジル。
「切られたら」とパル。
「切った刃の跡が残る」
ミラは三つの結び目を見た。
何も言わなかった。
工房の奥で、小さな手押し式の水汲み機が咳をしていた。
キュッ。
カッ。
キュッ。
「三番歯が欠けてる」とロロ。
「触ってないのに?」とハル。
「音」
市場の女店主が、壊れた機械の横で困っていた。魚の塩煮を売る露店。水が出なければ鍋も皿も洗えない。
「直す?」と女。
「材料二ルク、工賃六、危険なし、急ぎ割増二。十ルク」
「五」
「歯車だけで二!」
「今日の売上、まだ三」
「じゃあ直せない」
ロロは言った。
言ってから、機械の咳を聞いた。
キュッ。
カッ。
市場の子供が、空の器を持って待っている。
「……応急なら三」
「一」
「一は材料にもならねえ!」
「魚煮を二杯」
「食費で工賃払うな!」
「嫌なら別へ」
別の修理工は、上層の倉庫船へ呼ばれている。下層市場の小さな仕事は、儲からない。
ロロは四本の補助腕を下ろした。
「一ルクと、魚煮一杯。部品は廃材。次に壊れたら同じ値段じゃない」
「成立」と女。
「お前が言うな」とロロはミラへ先回りした。
「まだ言ってない」
「顔が言ってた!」
「無料にしないんだ」
「一ルクだ!」
「一ルクで十ルクの仕事。九ルクはどこへ行った?」
「俺が負けた」
「違う。お前が払った」
「俺は金出してねえ!」
「時間と部品と、他の仕事を断る分。無料って呼ぶと、誰が払ったか消える」
「困ってるんだから仕方ねえだろ」
「仕方ないなら書け。救難割引、材料寄付、店主の後払い、誰かの共同費。隠すな」
「細かすぎる!」
「細かくしないと、いつか『修理工は善意で働くもの』が規則になる」
ロロの補助腕が、全部ミラを指した。
「お前、俺の工房にいたら三日で追い出す」
「四日分払う」
「そういうとこだ!」
それでもロロは、机の端へ一行書いた。
『水汲み機。通常十。受取一。差額九。理由、生活維持。負担者、ロロ・ピクス。精算、保留』
「最後、私の言葉」とミラ。
「会話で使うと共有になるんだろ!」
「地図屋の理屈まで盗んだ」
「盗みはお前の仕事だ!」
荷重の負担先を示す札〈ウェイト・タグ〉を、ジルは魚煮の皿代わりに使っていた。
「それは証拠ですか」とセレナ。
「工房見本だ。食った後に洗う」
「紙へ載せてください」
「紙は汁を吸う」
「皿があります」
「皿は船が揺れると滑る」
「机へ固定する皿を」
「皿を固定すると、食う方が動く」
「なぜ食事だけでここまで反論を」
「陸の常識を港へ持ってくると、最初に飯が冷める」
ジルは札を拭き、ロロへ投げた。
直径は親指の長さほど。
中心に大穴。
縁へ七つの小穴。
表面には船番号、浮力炉番号、負担上限が刻まれている。
「量札は重りじゃない」とジル。
「見りゃ分かる」
「上層の金持ちは、見ても分からん。札を貨物へ付ければ、重さが消えると思ってる」
「消えない。別へ行く」
「そうだ」
自由港の船は、同じ浮力を持たない。
新しい貨客船は強い炉を持つ。
古い帆船は弱い。
病院船は患者を揺らさないため余力を残す。
倉庫船は荷の出入りが激しい。
そこで港は、船団の共同浮力網〈フロート・プール〉を作った。
千隻近い浮力炉を、索と星晶管でつなぐ。
上の船へ重い荷が入った時、その船だけを沈ませず、余力のある船へ負担を分ける。
量札は、その負担先を決める。
「荷物が上にあっても、重さは下の船へ乗せられる」とロロ。
「正確には、浮力の不足分を下へ請求する」とエリア。
「同じだろ」
「物理的な力の経路と、制度上の負担先は違います」
「だから壊れるんだよ。違うものを同じ札で扱うから」
「札が悪い?」とハル。
「包丁が悪いかって話になる。使い方だ」