第126話 第三章「沈む市場」後編
水汲み機は、七分後に水を吐いた。
最初の一杯は錆色だった。
二杯目は薄くなり、三杯目で透明になる。
市場の女店主は三杯目を鍋へ入れず、ロロの前へ置いた。
「飲め」
「俺が直した機械の水を、俺で試すな」
「信用してるんだろ」
「機械は信用してる。配管は知らねえ」
「修理工がそれ言う?」とハル。
「直した範囲だけ保証するのが修理工だ! 町全体の配管まで俺の責任にすんな!」
ミラが契約紙の余白へ書いた。
『水汲み機応急修理。
材料:廃材歯車 一ルク相当。
工賃:本来六ルク。
店主支払:一ルクと魚煮一杯。
ロロ負担:五ルク相当。
再故障時:新規見積。
飲料水の品質:対象外。』
「勝手に帳簿を作るな!」
「無料って言わないため」
「俺が負けたって言っただろ!」
「負けた金額を書いた」
「それで何が変わる!」
「次に同じ人が『前は一ルクだった』って言った時、残りを誰が払ったか分かる」
女店主が契約紙を見る。
「五ルク、借りか」
「違う!」とロロ。
「寄付?」
「違……いや、そうだけど、返さなくていい」
「返さなくていい借りが一番怖い」とパル。
机の下から言われ、ロロの補助腕が全部止まった。
「じゃあ何て書けばいい」
「ロロが決めた」とミラ。
「それだけ?」
「誰が決めたかを消さない。返す義務は作らない。受けた側が、嫌なら断れたことも書く」
「断ったら水が出ない」と女店主。
「選べない条件だった」とエリア。
「なら救難に近い」とセレナ。「ただし直ちに生命危険ではない」
「水がなければ店が止まる。店が止まれば食事が止まる」とジル。「生命危険を一日ずつ薄めると商売になる」
「話がでかくなってる!」とロロ。
「機械一台を直すと、機械一台の外が見える」とミラ。
「見えたからって、俺一人へ払わせるな」
言ってから、ロロは自分の言葉を聞いた。
俺一人へ払わせるな。
それはまさに、共同浮力網が作られた理由だった。
「市場の共同修理費は」とエリア。
「上層の安全設備へ優先」と女店主。
「規約は?」
「読める字で貼ってない」
「あるのかないのか、どっちだ」とハル。
「ある。読めない」
「それ、ないのと同じ?」
「徴収する時はある」とパル。
ジルが咳のように笑う。
「いい港だろ。紙は必要な時だけ実在する」
ロロは帳簿紙を取り返した。
五ルク相当、と書かれた行を消さない。
その横へ、自分で一行足す。
『市場共同修理費へ請求予定。却下時、理由を公開。店主への請求なし。』
「これで?」
「請求が通れば、お前の負担は戻る」とミラ。
「通らなかったら」
「誰が断ったか残る」
「金は戻らねえ」
「記録は金じゃない」
「お前が言うのか」
「金じゃ買えないものへ、値段を付けないために言ってる」
短い笑いはなかった。
ロロは帳簿を折り、工具帯へ入れた。
その直後、上層倉庫から伝声管が鳴った。
『修理工を一名。昇降滑車の異音。即時二十五ルク』
ロロの四本の補助腕が、同時に上を向く。
「二十五」とハル。
「聞こえてる」
「五ルク戻せる」
「二十余る」
「行く?」
水汲み機が、また一度咳をした。
キュッ。
カッ。
ロロは振り返った。
「三番歯じゃない。配管側だ」
「対象外って書いた」とミラ。
「書いたから放っとけるか!」
「上は二十五」
「分かってる!」
「ここは追加料金を払えない」
「分かってる!」
「どっちを選んでも、誰かに値段が付く」
「黙れ!」
ロロは水汲み機の下へ潜った。
上層の依頼へは、ジルが銅笛を三回鳴らして別の修理工を回した。
紹介料は取らなかった。
そのことを、ミラは帳簿へ書いた。
「書くな」とジル。
「無料を隠さない」
「私が隠したい時は」
「隠す権利も書く?」
「紙が自分を食い始めるぞ」
「濡らせば止まる」
「だから紙を信用するなってんだ」
配管を開けると、内部から真鍮札が一枚出た。
水汲み機の札ではない。
隣の煮炊き船の共同炉へ付くはずの札だった。
「何で水管に」とハル。
「落としたのを子どもが皿にしてた」と女店主。
「札なしで炉が動く?」
「予備札を差してる」
「じゃあこれは古い?」
「昨日まで使ってた」とパル。
彼女は札を六指で持ち、光へ透かす。
「穴、増えたから捨てた」
「穴が増えたら捨てる?」とセレナ。
「読めない穴は怖い」
ロロは札を洗い、机へ置いた。
ジルが魚煮の汁を少し垂らす。
「何すんだ!」
「重さの流れを見る」
札の細い溝を、汁が走る。
外周の切れ込みから、内側の穴へ。
途中で一度止まり、別の穴へ折れる。
「荷重の登録路」とジル。「穴の位置で、共同網のどの船群が支えるか決まる」
「この最後の穴は」とロロ。
「市場下の居住船」
「煮炊き船の炉を、下が支えてた?」
「昨日から」とパル。
「誰が変えた」
「札を替えた人」
「その人は」
「灰色」
セレナが顔を上げる。
「服の色だけ?」
「顔は見てない。顔を見ると、向こうも見る」
パルは札を机へ戻した。
「穴は見る。穴は、こっちを見ない」
「穴を読める?」とロロ。
「形は」
「意味は」
「大人が変える」
ジルが札を光へ掲げる。
「包丁は誰が切られるか決めない」
「量札も自分では決めねえ」
「でも、決めた人の名前が薄い」
ロロは札を光へ透かした。
「穴の位置が負担先?」
「外周の切れ込みが層。内側の穴が船群。中心近くの傷が個船」とジル。
「穴の数じゃない」
「順番もある」
「順番?」
「札を付け替えるたび、新しい穴を打つ。古い穴は埋めない。どこからどこへ動いたか、履歴になる」
「紙が濡れても残る」とパル。
「そう教えた」とジル。
「でも、穴を読める人が嘘ついたら?」
「別の奴にも読ませる」
「全員が同じ船なら?」
ジルは銅笛を噛んだ。
「いい質問だ。嫌な答えしかない」
市場の床が、ゆっくり傾いた。
最初、魚煮の汁だけが動いた。
量札の縁へ流れ、机の右端から落ちる。
次に、棚の歯車が一つ転がった。
ロロは音を聞く。
コロ。
カン。
カカカカカ。
「全員、止まれ!」
市場全体の音が変わった。
床板の軋み。
帆柱の曲がり。
係留索の震え。
船が一隻沈む音ではない。
三隻の市場船が、同じ方向へ、同じ速さで下がっている。
「西下、追加一・二度!」とエリア。
「上層から荷が落ちた?」とハル。
「逆だ!」
ロロは工房を飛び出した。
市場通路の露店が、少しずつ壁へ変わる。吊っていた鍋が横へ流れ、荷箱が滑る。住民は慣れた動作で索をつかむが、子供と客は遅れる。
「係留索、張力測る!」
「どこ!」とハル。
「三本全部!」
「同時は無理!」
「だから仲間がいる!」
ロロは左の主索へ。
エリアは中央。
ジルが右。
ハルとカイルは、滑る荷箱を止める。
セレナは退路を記録しながら、証羽を目印として壁へ刺す。
ミラは走り出した露店車の勢いを一台ずつ奪い、安全な横路へ流す。
ノクスはパルの襟をくわえた。
「自分で走れる!」
「ナァ」
「六指だからって持ちやすくない!」
「ノゥ」
「何て?」とハル。
「『お前は襟で運ぶ』だろ」とロロ。
「翻訳が雑!」
ロロは主索へ耳を当てた。
金属繊維の震えが、骨へ入る。
一万八千。
二万。
二万三千。
張力が上がり続けている。
「荷物の増え方じゃねえ」
「何が違う」とジル。
「三本同時。同じ比率。市場へ物が落ちたなら、近い索から先に増える。これは外から均等に乗せられてる!」
ジルの左手が索へ結び目を作る。
「二点の張力を一度だけ均す。長くは持たん」
彼女の古い誓紋が、指の間で錆赤に光った。
結索〈イーブン・ライン〉。
二本の索の震えが、一拍だけ揃う。
「中央を抜け!」とジル。
「抜いたら落ちる!」
「今のうちに支えを替える!」
ロロの四本の補助腕が、工具箱を開く。
「ハル、上の帆柱へ予備索を通せ!」
「距離!」
「十八歩、途中に壁!」
「道!」
「作れ!」
「担当逆!」
ハルは走った。
傾いた市場では、床と壁の区別が消えている。横倒しの屋台を踏み、帆柱へ飛ぶ。左肩は使わない。右手で索を投げ、足で柱を挟む。
「一、二――」
市場の下から、低い破断音がした。
ブツン。
一本目。
次の音は、ほとんど同時だった。
ブツン。
二本目。
「早い!」
「三本目、来る!」とジル。
ロロは中央索の断面を見た。
外から切られていない。
摩耗でもない。
張力が限界を越え、内部から揃って裂けている。
「全員、つかまれええええ!」
三本目が切れた。
市場船三隻が、一段下へ落ちた。
落下は二メートルにも満たない。
だが、町にとって二メートルは階段一つではない。
上の橋が外れ、下の屋根へ船腹がめり込み、横向きだった通路が縦になる。鍋、歯車、人、札、魚、声が同じ方向へ落ちる。
カイルの右籠手が燃えた。
「背後、三十七人!」
守る人数を先に申告する。
深紅の盾が市場の下側へ開いた。落ちた荷箱が炎の壁へ当たり、勢いを失う。
「十二息!」とセレナ。
「数えるな、短くなる!」
「数えなくても短い!」
エリアの光路が、落下方向と直角へ三本走る。
「一番近い道ではなく、一番荷重の少ない道へ!」
「どれが少ない!」と住民。
「青い布の下! 赤い帆は通らないで!」
ハルが予備索を帆柱へ巻いた。
右手だけでは締め切れない。
「ロロ!」
「今行けねえ!」
「エリア!」
彼女は二本の地図線を維持している。両踵へ針のような痛みが走り、顔が白い。
「カイル!」
「盾中!」
助けを求める声は、相手が空いている保証ではない。
それでも、求めなければ選択肢に入らない。
「ミラ!」
ハルが叫んだ。
風鈴が鳴る。
ミラは滑る荷車三台を止めた直後だった。義足に溜めた勢いを、予備索の自由端へ放つ。
索が空中で一周し、帆柱へ締まった。
「一回、貸し!」
「値段!」
「後で決めろ!」
「保留!」
ハルは結び目へ最後の力を入れた。
予備索が張る。
市場船の落下が止まった。
止まったのは、一段だけだった。
下には、さらに十数層の船がある。そのすべてから、木と鉄の苦鳴が上がってくる。
ロロは切れた索の張力計を拾った。
最後の数値は、市場の実重量をはるかに越えていた。
足元へ、量札が一枚転がる。
魚煮の皿にしていた見本ではない。
市場船の浮力炉へ実際につながっていた札。
穴の位置が、さっきまでと違う。
「誰かが、ここへ重さを乗せた」
「何の重さ」とハル。
ロロは上を見る。
上層の税関金庫。
見えている宝石。
消えた登録荷重。
まだ証明ではない。
だが、機械は正直だった。
「上にある何かの分まで、下が払ってる」
港は、一度止まった。
止まっただけで、軽くなってはいない。