第129話 第五章「喫水線の嘘」前編
船は、重さを隠せない。
人は肩を張れる。
帳簿は数字を直せる。
権力者は名前を変えられる。
だが船は、積んだ分だけ沈む。
海に浮かぶ船なら水面へ、空を渡る船なら浮力層へ。どれほど旗を立て、船腹を塗り、積荷の名目を「贈答品」や「緊急物資」へ替えても、荷重は船体と空の境へ一本の線を書く。
古い船乗りはそれを喫水線と呼んだ。
自由港に海はない。
それでも名だけは残った。
言葉は、地形より長く生きることがある。
「測るだけなら二刻」
即時裁定所で、グラウスはそう言った。
「二刻後、証拠の有無にかかわらず暫定拘束を決める」
「証拠がなくても?」とハル。
「有罪を決めるのではない。逃走可能性へ備える」
「逃げられないようにすることと、犯人にすることは違う?」
「違う」
「違うなら、先に言え」
「言った」
「長い言葉の真ん中へ隠した」
グラウスは答えなかった。
ミラには監視索が付いた。
首でも手でもない。右手首から三メートル先を、警備艇の滑車へ結ぶ細索である。
「逃げたら締まる?」とパル。
「切れる」とミラ。
「どっちが」
「安い方」
「索だな」とジル。
「信用がない」
「腕より索の方が交換できる」
「一航士、雇用契約を見直す?」
「船長を交換する条項からな」
監視役の警備兵が顔をしかめた。
「切断した場合は逃走とみなす」
「切れた場合は」とエリア。
「同じだ」
「外力で切れた場合も?」
「切断は切断だ」
「原因と責任を分けない規則ですね」
「港の規則だ」
「だから確認しています」
ミラが監視索を指で弾く。
「地図屋、そのうち規則を質問だけでほどくね」
「航路士です」
「名前はほどけない」
「あなたが何度も結び直すからです」
ロロは白墨を二十一本買った。
店主は、一本二ルクと言った。
「高い!」
「港が沈んでる」
「沈むと墨が高くなるのか!」
「みんな線を引く」
「何の線!」
「ここから上は俺の船、ここから下は事故、ここまでなら払える、ここより先は知らない」
「値段の理由が社会不安!」
「三十七ルク」とミラ。
「交渉するな、まだ高い!」
「二十一本で?」
「一本一ルク半!」
「穴半分は使える?」
「割れた硬貨を流通させるな!」
結局、古い真鍮管の修理と引き換えに十九本を得た。
ロロが管の歪みを見て、補助腕二本で固定し、三本目で火を当て、四本目で内圧を測る。五分。
店主は作業を見終えると、白墨のほかに十五ルクを台へ置いた。
「何これ」
「修理代」
「交換だろ」
「墨は部品代。こっちは腕」
「五分だぞ」
「五分で直せる奴へ払う」
「王都だと、五分だから安くしろって言われる」
「時間を買ったんじゃない。直るまでに覚えた年月を買った」
ロロの補助腕が止まった。
機械鳥ピコが、彼の耳元で短く鳴く。
「……十三でいい」
「十五」
「何で客が上げる!」
「値切られるのが嫌いだ」
「俺もだ!」
「成立」とミラ。
「だからお前が決めるな!」
ロロは十五ルクを受け取った。
受け取ってから、何度も穴の縁を親指でなぞった。
「重い?」とハル。
「硬貨一枚は同じだ」
「じゃあ何」
「分かんねえ」
分からないと言える時、ロロの声は小さい。
直せない時より、値段を受け入れられない時の方が、彼は不器用だった。
調査班を三つに分けた。
上層倉庫船は、ロロ、ハル、ミラ、監視兵二名。
中層市場船は、ジル、カイル、セレナ。
下層居住船は、エリア、パル、ノクス。
「反対」とハル。
「何が」とエリア。
「下層が一番危ない」
「だから地図が必要です」
「俺も行く」
「上層で船体の基準値を取る人が要る」
「ロロがいる」
「ロロは計測。あなたは固定索と退避路の確認」
「カイルと代わる」
「カイルは市場で盾を使う可能性があります」
「俺だって」
「何を使うの」
ミラが割り込んだ。
「心配?」
「危ないから」
「誰が」
「エリアとパル」
「二人とも、自分の足で立ってる」
「見れば分かる」
「分かってないから、行動を決めようとしてる」
ハルはミラを見た。
「俺は決めてない」
「代わるって言った」
「提案」
「断られたら」
「……上へ行く」
「なら成立」
「お前が成立させるな」
エリアは地図筒を締めた。
「私は下層へ行きます。踵の痛みは一。呼吸は平常。三十分ごとに報告します」
「一を黙ってた」
「歩き始める前から一です。固定布の圧迫」
「それも報告だろ」
「いましました」
「聞かれたから」
「聞かれる前に、あなたは私の行き先を変えようとしました」
「心配しただけ」
「心配は、相手の行動を先に奪ってよい許可ではありません」
エリアは静かに言った。
静かな言葉ほど、ハルには深く刺さる。
「……分かった」
「本当に?」
「三十分で報告。二になったら休む。呼吸が乱れたら上がる」
「条件を復唱しないで。私は自分で守ります」
「じゃあ、俺は聞く」
「何を」
「困ったら言って」
エリアの返事は、一拍遅れた。
「はい」
ミラの耳飾りが、小さく鳴った。
「地図屋、無料の世話を断った顔じゃないね」
「航路士です」
「呼び名は無料」
「訂正は有料にします」
「値段は」
「あなたが正しく呼ぶまで」
「期間契約、重い」
喫水線の測定は、港の外側から始めた。
空船の喫水は、水面ではなく浮力帯へ対する沈み込みで測る。
各船の船腹には、雲粒が付着して色を変える青灰の塗料が帯状に塗られている。船が重くなれば帯の上まで白い雲塩が付き、軽くなれば乾いた旧線が現れる。
「白墨を引く意味ある?」とハル。
「いまの線を残す」とロロ。「雲塩は風で消える。写真と同じ場所へ引けば、過去との差が見える」
「写真は」
「港の商売人は、自分の店をよく撮る」
「宣伝?」
「保険」
自由港では、記念写真より事故前写真の方が多い。
何も起きていない時の船腹、積荷、索、隣船との距離を残しておけば、何か起きた後に「もともと壊れていた」と言われにくい。
幸福は証拠にならない。
無傷は、時に証拠になる。
最上層倉庫船《黄金梯子号》の船腹へ、ロロが白線を引いた。
「過去写真より、二尺上」
「沈んだ?」とハル。
「逆。いまの雲塩線が下。船が軽くなってる」
ロロは写真を甲板へ貼り、船腹の鋲を基準に線を比較する。
「倉庫は満載」と管理人。
「積荷目録」とミラ。
「外部には見せない」
「見せない料金は?」
「何だそれ」
「見せないことで捜査が遅れ、港が沈んだ分」
「脅しか」
「価格提示」
「同じだ」
「なら、脅しを無料で受ける?」
管理人は目録を出した。
絹。
香辛料。
星晶砂。
時計部品。
総重量は昨日と同じ。
ロロが船底の量札受けを調べる。
「物理荷重はある。浮力炉も動いてる。でも共同網への負担が減ってる」
「誰かが代わりに持ってる」とハル。
「仮説。まだな」
「市場の札」
「一枚じゃ足りない」
「何枚なら足りる」
「町じゅう」
ロロは白墨を投げる。
「だから走るぞ」
自由港を外から測るには、自由港より動かなければならない。
測定艇は古い郵便艇だった。
船首が二度修理され、左右の翼が別の型で、操舵輪には『急に左へ曲がるな』と刻まれている。
「急に右は?」とハル。
「試した奴が帰ってない」と操艇士。
「冗談?」
「料金を払えば本当の方を教える」
「港の人、全員ミラみたい」
「侮辱料」とミラ。
監視索は、警備艇から測定艇へ付け替えられた。
船が港外周を下るたび、索は帆柱や橋へ絡みそうになる。
「切れば?」とハル。
「逃走扱い」と監視兵。
「絡んで事故になったら」
「容疑者の移動責任」
「索を付けた側は」
「監視責任」
「事故責任は」
「状況による」
「便利だな、その言葉」とミラ。
上層第二倉庫船。
過去線より一尺八寸軽い。
第三香料船。
二尺一寸軽い。
第四保険倉庫。
一尺九寸。
「揃いすぎてる」とロロ。
「同じだけ盗まれた?」
「船ごとに積荷も浮力炉も違う。自然に軽くなるなら、こんな揃い方しない」
後方から、警備艇が二隻近づいた。
「裁定所命令。測定終了まで残り一刻。容疑者を中層へ戻せ」
「まだ上層の半分!」とロロ。
「命令だ」
「二刻って言っただろ!」
「市場沈降で短縮された」
「沈んだから調べてる!」
「だから急げ」
「急ぐために止めるな!」
言葉は、目的を同じにしても喧嘩できる。
警備艇が横へ付ける。
監視索を巻き取ろうと滑車が回った。
ミラの右手が開く。
「盗むな!」と監視兵。
「動いてる物を動かなくするだけ!」
「それを盗むと言う!」
「返す予定!」
「いつ!」
「保留!」
滑車の回転が消えた。
その勢いが義足へ流れる。
ミラは測定艇の船尾を蹴り、盗んだ回転を翼帆へ渡した。郵便艇が横滑りし、上層船の間を縫って下へ落ちる。
「急に左へ曲がるなって!」と操艇士。
「左じゃない、下!」
「船の説明書に下はない!」
「自由港で?」
「説明書だけは平面なんだ!」
監視索が帆柱へ巻き付く。
ミラは切らない。
義足の帆を逆へ開き、索が張り切る直前、その巻き取りの勢いだけを盗む。索は緩み、測定艇の後ろで蛇のように波打った。
「逃走ではない」とエリアの声が伝話筒から届く。「調査経路の変更です」
「聞いてた?」とハル。
「三十分報告です」
「踵」
「一。呼吸平常。下層二十六船を測定。結果を送ります」
光の路図が、伝話板へ映った。
下層の船体が赤い点で並ぶ。
上層とは逆に、すべて過去線より深い。
三尺。
四尺。
五尺半。
最も古い居住船は、七尺沈んでいる。
「積荷は」とロロ。
「住民の申告では減少。食料庫も昨日より空。雨水槽は三日前に排水」
「なのに重くなってる」
「共同浮力網への負担値は、閲覧権がなく確認できません」
「量札受けは」
「封印されています。無登録船には開示請求権がないそうです」
「自分が何を持たされてるか見られない?」とハル。
「登録上、自分の船ではないから」
「住んでる」
「事実と資格は違う、と言われました」