第130話 第五章「喫水線の嘘」後編
測定艇が第九倉庫船の外側へ回ったところで、ロロが操舵輪を叩いた。
「止めろ!」
「急に止まるなって書いてある」と操艇士。
「急に左へ曲がるな、だろ!」
「止まる時は左へ寄る」
「説明書へ書け!」
「帰った奴が少ない」
「港の説明書、死人待ちなのか!」
郵便艇は左へ大きく振れ、隣船の船腹へあと半尺で止まった。
ロロが指しているのは、船腹から突き出た小さな鉄箱だった。
片眼のような丸い硝子窓。
下には時刻鐘へつながる細線。
「定時写真箱」とミラ。
「何を撮る?」とハル。
「自分の船腹。保険会社が取り付けさせる。朝、昼、夕、事故警報の時」
「さっき、写真があるって」
「店の宣伝写真だけじゃ足りない。こっちは同じ角度、同じ倍率、時刻付き」
ロロは鉄箱へ補助腕を伸ばす。
届かない。
「船腹側から開ける?」
「管理甲板は封鎖中」と監視兵。
「外からは」
「点検資格が要る」
「俺、学院の機関資格」
「自由港登録ではない」
「機械は国境で構造変わるのか!」
「責任が変わる」
「便利だな、責任!」
「便利じゃないから、みんな人へ押す」とミラ。
鉄箱は、測定艇の上方八メートル。
船腹は湿った雲塩で滑る。足場は鋲と、折れた砲門の縁だけ。
「俺が行く」とハル。
「左肩」とロロ。
「使わない」
「落ちたら使う」
「落ちない」
「それ、条件じゃなくて願い」とミラ。
ハルは伝話筒を取った。
「エリア。写真箱までの路、描ける?」
『位置を』
「第九倉庫船、北外板、旧砲門から上八。鋲列が二本。船尾側に雲塩」
『現場を見ていません』
「測定艇の鏡板を送る」
『路図は、私が測った場所にしか確定線を置けない』
「じゃあ確定じゃなくて、候補」
通信の向こうで、短い呼吸が入る。
『三本描きます。あなたが選んで』
「成立」
『ミラの言葉を取らないで』
「便利」
『便利な言葉は、誰かへ不便を――』
「それもミラ」
『……第一候補。砲門縁、左鋲列、箱の下。肩へ荷重を掛けない。第二候補は右へ回り込むが、索が長い。第三は上から下りる必要があるので却下を推奨』
「推奨であって命令じゃない?」
『はい』
「第一にする」
『選んだ理由』
「一番短いからじゃない。右手だけでつかめる鋲が多い」
『受領』
エリアの声は、少しだけ柔らかくなった。
ハルは腰へ安全索を付ける。
結び目を二度確認。
「誰が持つ」とミラ。
「ロロ」
「計測中」
「監視兵」
「容疑者の仲間を支える権限はない」と兵。
「じゃあ俺」と操艇士。
「仕事は操舵」とロロ。
「いま止まってる」
「急に左へ寄る船だろ!」
「なら、私」とミラ。
「監視索ついてる」
「二本持てる」
「右膝」
「一。蓄勢零。相手の体重五十五前後、落下時の衝撃は索長で変わる。止めきれなければ勢いを盗る」
「俺、五十五ぴったり」
「服と石」
「石?」
「鞄の底に三つ」
「見た?」
「歩く音」
ハルは配達鞄を押さえた。
旅先の端で拾った小石。誰にも意味はない。だから捨てられない。
「落とすなよ」とミラ。
「俺を?」
「石」
「順番!」
「石は自分で助けを求めない」
短い笑いが三つ。
ハルは船腹を登った。
右手で鋲。
右足を砲門縁。
左足を塗装の剥がれへ。
左腕は身体の近くへ畳む。
肩を使わない登り方は、普段より遅い。遅いことが、彼には痛みより難しかった。
「一、二、三」
『数え方が速い』とエリア。
「聞いてる?」
『呼吸も』
「監視?」
『共同作業』
「違いは?」
『あなたが止められること』
ハルは三歩目で止まり、足場を選び直した。
下ではミラが索を両手で持つ。
義足側を船縁へ固定し、右脚を半歩引く。力の向きが崩れない立ち方である。
「いつから安全索の専門?」とロロ。
「九歳から」
ミラはそれ以上言わなかった。
係留索事故。
左脚。
救助費という借り。
聞かれていない過去を説明しないのは、隠すことと同じではない。
ハルが写真箱へ手を掛けた時、上層の船内から声が飛んだ。
「何をしている!」
管理人が砲門から顔を出す。
「保険用写真の確認!」とハル。
「外部閲覧は禁止!」
「船が軽くなった記録がある!」
「だから何だ!」
「何で軽くなったか調べる!」
「うちは被害側だ!」
「被害側なら見せて!」
「被害者の記録を、勝手に証拠へするな!」
正しい反論だった。
ハルの手が止まる。
証拠は必要だ。
必要だから取ってよい、とはならない。
「閲覧条件を言って!」
「条件?」
「誰が見て、何を写して、どこまで公開するか!」
管理人は答えに詰まった。
セレナの声が別回線から入る。
『原版は船主が保持。調査班は船腹線と時刻表示だけを複写。積荷、乗員、船内映像は記録しない。公開時は船名を伏せ、裁定提出時のみ原番号を封印添付。撤回は証拠提出前まで』
「いつ回線へ」とハル。
『最初からです』
「全員、俺の通信を聞いてる」
『公開回線です』
管理人が写真箱の内鍵を回した。
「時刻線だけだ」
「成立」
「お前が言うな!」とミラが下から叫ぶ。
扉が開く。
薄い硝子板が六枚、時刻順に収まっていた。
朝の船腹。
六の鐘。
六の鐘二十分。
二十六分。
二十七分。
警報時。
鋲を基準に見ると、二十六分から船が上がり始めている。
「警報より前」とハル。
『何分』とセレナ。
「五分。いや、最初の変化は六の鐘二十六。警報は三十一」
『複写を』
ハルが硝子へ写し紙を当てる。
その瞬間、港全体がわずかに傾いた。
足場の雲塩が剥がれる。
右足が滑った。
「ハル!」
身体が船腹から離れる。
左手が反射で伸びる。
使うな。
ハルは空中で左腕を胸へ抱き、右手だけで安全索をつかんだ。
衝撃が来る。
来なかった。
索が張る直前、その勢いだけが抜けた。
ミラの義足へ青い輪が一つ灯る。
ハルはゆっくり船腹へ戻った。
「痛み!」とエリア。
「肩一、手二、恥ずかしさ四!」
『最後は記録対象外!』
「記録して!」
『なぜ!』
「次に慎重になる!」
ミラが下で笑う。
「恥を安全装置にするなら、無料で残す」
「お前、無料って言った」
「言葉の勢いを盗んで」
「止まってたから無理!」
ハルは写真板の複写を鞄へ入れた。
上層が軽くなり始めた時刻。
警報が鳴った時刻。
同じではない。
船は、金庫が異常を告げる前から、すでに嘘の分だけ浮き始めていた。
同じ言葉が、港の上から下まで落ちてくる。
落ちる間に、重さだけを増して。
中層で合流した時、エリアはパルを背負っていた。
「何があった!」
ハルが駆け寄る。
「寝た」とパル。
「寝た?」
「歩きながら」
「三晩、まともに寝てない」とジル。
「何で」
「沈む船で寝ると、起きた時に下だから」
「いま背負ってるのは」
「本人の同意を取りました」とエリア。
「何て」
「『運ぶのいくら』と聞かれたので、情報提供の対価として相殺すると」
ミラが眉を上げる。
「地図屋、値段を付けたね」
「後から借りにされないためです」
「いい。けど、背負う人の代金は?」
「私は必要ない」
「無料?」
「私が選びました」
「選んだことと、負担が消えることは違う」
「見返りを求めていません」
「求めない人が、いつも一番高いものを取ることがある」
エリアの目が細くなる。
「何を取ると言うの」
「相手が断る機会」
パルがエリアの背で、片目だけ開けた。
「降りる?」とエリア。
「眠い」
「では、このまま」
「それ、私が決めた?」
エリアの息が止まる。
「……決めていません。提案しました」
「じゃ、成立」
パルはまた目を閉じた。
ミラは何も言わず、短く一度だけ笑った。
ハルはエリアの地図筒を受け取ろうと手を出す。
彼女は先に渡した。
「持つ」とハル。
「今は、測定結果の整理へ両手を使います」
「分かった」
「軽いからではありません」
「聞いてない」
「あなたは聞かないまま持つから」
「じゃあ、何て言えばいい」
「私はまだ考えています」
「何を」
「頼むことと、任せることの違い」
「同じじゃない?」
「だから考えています」
地図筒は軽かった。
軽い物ほど、持つ理由が重くなることがある。
測定結果を、ジルの工房の床へ並べた。
上層十五船。
中層二十八船。
下層三十四船。
過去写真、喫水線、索張力、浮力炉出力、現在の積荷。
ロロは白墨で、船ごとの変化を矢印にした。
上層は上向き。
下層は下向き。
中層は、上と下の間でばらつく。
「雨なら全体が重くなる」とロロ。
「積荷移動なら、動かした船と受けた船が物理記録へ出る」とセレナ。
「浮力炉の劣化なら、古い船ほど沈む。でも上層にも古船はある」とエリア。
「風向きなら、片側へ傾く」とカイル。
「じゃあ、何」とパル。
ロロは白墨を二本重ねた。
「上の負担が、下へ移ってる」
「どこから」とハル。
「全部から少しずつ」
「どこへ」
パルが、床の一番下へ小石を置いた。
「ここ」
「何で分かる」とロロ。
「道が曲がった」
「道?」
「下へ行く時、昨日まで渡れた板が、今日は壁になってた。下の下。名前のない船」
エリアが路図を広げる。
「登録地図には、第四十一層までしかありません」
「その下」とパル。
「港外?」
「港の下」
「同じじゃないの?」とハル。
「住んでる人には違う」
パルは六本の指で、路図の端をつまんだ。
「地図が終わった先に、船がある」
エリアが、線のない余白を見る。
彼女の路図は、測った場所へしか道を描けない。
描かれていない場所が、存在しないわけではない。
「案内できる?」とハル。
「値段」
「先に言って」
「下で困ってる人を、上へ連れてくる」
「それ、私への値段?」
「俺たちの仕事」
「払ったことにならない」
「じゃあ、食事」
「何回」
「必要なだけ」
パルの顔が固くなる。
「必要って、誰が決める」
ハルは答えられない。
ミラが机を指で叩いた。
「一食。前払い。案内が終わったら、次を決める。断っても前払い分は返さない」
パルは考えた。
「匙は」
「一本付く」
「返す?」
「安全だと思ったら」
「保留」
「案内は」
「成立」
パルは床の小石を、さらに下へ動かした。
「最下層は四十一じゃない。四十七。四十二から下は、数えないから数字がない」
ロロは矢印を延ばす。
上層から減った負担。
中層を通り。
登録地図の終わりを越え。
すべて、同じ場所へ集まっていた。
「荷重移転の終点」とセレナ。
「無登録居住区」とエリア。
「港にいないことになってる船」とハル。
ミラが右膝の固定帯を締め直した。
「事故にしても、人数へ入らない場所」
港は嘘をついていた。
帳簿でではない。
地図ででもない。
水のない喫水線が、その嘘を船腹へ白く書いていた。