第131話 第六章「契約できない子」前編
署名は、名前ではない。
名を書けない者もいる。
名を持たない者もいる。
名を持っていても、書いた瞬間に追われる者もいる。
それでも社会は、紙の最後へ細い空白を作り、そこへ印を置けと言う。
その空白は、本人の意思を残すために生まれた。ところが長く使われるうち、意思があることより、正しい形の印があることの方を重く見るようになった。
人間は、証明のために形を作る。
やがて形が人間を証明するようになる。
自由港の下層には、その逆を生きる者がいた。
自分がここにいることを、紙へ書かないことで守る者たちである。
第四十二層へ続く道は、地図上に存在しなかった。
第四十一層の旧客船、その洗濯場にある排水口を開ける。
中へ入り、六十歩ほど横へ這う。
途中で上下が反転する。正確には配管が船腹を回り込み、足元だった壁が壁のまま足元になる。
その先に、甲板があった。
「秘密通路?」とハル。
「生活通路」とパル。
「排水管が?」
「上の人が捨てた水、下の人が使う」
「飲むの?」
「煮る。飲めない時は洗う。洗えない時は火を消す」
「火を消せない時は」
「逃げる」
パルは言葉を短く切った。
短い答えは、考えていないからではない。長く説明している間に、相手が先へ決めることを知っている者の話し方だった。
彼女の右手には、前払いの食券が一枚ある。
ミラがジルの工房で発行した、木片へ三つの切り込みを入れた券。店名も品名もない。
「何を食べるか書かないの?」とエリア。
「書いたら、その店でしか使えない」とミラ。
「金額は」
「一食」
「量が違うでしょう」
「違う。だから食べる前に選ぶ」
「選べる店がなければ」
「私が探す」
「あなたの負担が未記載です」
「親切」
「値段を聞く人が?」
「私の親切は私が値段を決める」
「無料?」
「保留」
「便利ね、その欄」
「逃げ道は、入口より先に作る」
ミラの監視索はまだ右手首へ付いていた。
索の先には警備兵ではなく、ジルがいる。
市場沈降で警備艇が別任務へ回され、グラウスは「登録船の一航士による監督」を条件に下層調査を許可した。ジルは契約書へ署名せず、索を左手へ三重に巻いて「切れたら殴る」とだけ言った。
「誰を」とカイル。
「切った奴」
「事故で切れたら」
「事故を殴る」
「強いな」
「紙より話が早い」
セレナは第四十一層に残った。
即時裁定の延期交渉と、保険書類の保全を続けている。
ロロは下層の浮力炉を確認するため同行し、カイルは王盾の使用を一度に限定したまま後衛を務める。
ノクスはパルのすぐ後ろ。
赤い布環を前脚へ巻き、二本尾を低くして進む。
「臭い?」とパル。
「ノゥ」
「私?」
「違う」とハル。「多分」
「多分で近づける?」
「ノクスは嫌なら離れる」
ノクスはパルの踵へ鼻をつけた。
「近い」
「気に入ったんじゃない?」
「値段」
「魚一切れ」
「ノゥ!」
「本人が上げた」とロロ。
パルは初めて、声を隠さず笑った。
第四十二層から下には、船名がなかった。
名前を削った船。
船首だけの家。
翼を失った渡し船。
沈没した船をさらに下から受け止め、支柱になったまま住居へ変わった古軍艦。
上層の道路は甲板だった。
ここでは甲板の裏が道路だった。
船腹へ打った足場。
外板から吊るした寝台。
折れた帆柱の中に作った竈。
係留鎖の輪へ板を渡した教室。
人は、場所が足りなければ、場所でない物を場所にする。
「人口は」とエリア。
「数えたら取られる」とパル。
「何を」
「人」
「税?」
「子ども。働ける人。船。寝る場所」
「誰に」
「数えた人」
エリアの筆が止まる。
彼女は路図へ人の数を書こうとしていた。
書かなければ避難計画を作れない。
書けば、その記録が別の者へ渡る可能性がある。
「地図に名前は入れません」とエリア。「人数も、避難に必要な範囲だけ。外へ渡す時は、あなたたちへ見せます」
「読めない人は」
「読める人だけで決めません」
「どうする」
「……図で示す。実際に歩く。直したい場所へ石を置いてもらう」
「時間かかる」
「かかります」
「上は待つ?」
「待たせます」
パルは振り返った。
「地図屋、強い?」
「航路士です」
「間違えた。待たせ屋」
「その呼び名は拒否します」
「拒否、成立」
「あなたまで似ないで」
ミラが三度笑った。
最下層の浮力炉は、炉というより骨だった。
六隻の船底を貫く星晶管。
継ぎ足された導線。
異なる時代の調整弁。
どの部品にも、別の船名が刻まれている。
「これを共同網へつないだのは誰だ」とロロ。
「上の人」とパル。
「いつ」
「私が小さい時」
「今も小さいだろ」
「今より」
「何年前」
「冬、三回」
「三年?」
「寒い風が三回来た」
「ここ、季節をそう数えるのか」
「税が来ないから」
ロロは浮力炉の蓋を開く。
量札受けが二段ある。
一段目は居住船自身の負担。
二段目には、見慣れない札が何十枚も差し込まれていた。
「触るな」とミラ。
「分かってる」
「補助腕が四本とも触りたい形してる」
「形を読むな!」
ロロは手袋を替え、札へ直接触れず、細い鏡を差し入れた。
「穴は見える?」とハル。
「半分。市場の札と同じ位置がある。けど証拠にするなら外す順番も記録しないと」
「セレナがいない」
「だから外さない」
浮力炉が低く鳴った。
床が一度、沈む。
パルの顔から血の気が引いた。
「来る」
「何が」
「押し戻し」
上層から荷重が追加される時、この層では先に配管が唸る。
次に、船腹の支柱が曲がる。
最後に、道が道でなくなる。
「全員、壁側!」とエリア。
路図が青く開く。
その瞬間、前方の連絡管が折れた。
人が一人通れる太さの旧給水管。
パルが渡り終える直前、上側の支持金具が抜け、管全体が下へ垂れる。
「パル!」
少女の右手が縁をつかむ。
六本の指が、濡れた鉄へ並んだ。
足元は、雲海まで続く空白だった。
管の内部から、赤い救難索が落ちる。
自動救助器。
近くの登録札を読み、索を身体へ巻き、浮力炉から引き上げる装置である。
赤い輪がパルの胸元へ触れた。
『利用者札を提示してください』
「ない!」とパル。
『登録番号を口頭入力』
「ない!」
『船員番号』
「ない!」
『居住登録』
「ないって!」
『契約主体を確認できません。救難索を停止します』
赤い索が、彼女の目の前で巻き戻り始めた。
「止めろ!」
ハルは走った。
「足場が落ちる!」とエリア。
「分かってる!」
「左肩を使わないで!」
「分かってる!」
分かっているという言葉は、危機の中で最も信用されない。
だからハルは、動きで示すしかなかった。
折れた管へ飛び移る。
右手で外板の継ぎ目をつかむ。
左手は、伸ばさない。
パルまで二メートル。
管がさらに垂れ、彼女の身体が空へ出る。
「救難器を再起動!」とロロ。
「本人札がない!」
「仮登録を作る!」
補助腕が制御箱を開く。
中には契約封印。無許可で破れば、利用料だけでなく設備損害と不正利用罰が加算される。
「壊したらいくら!」とパル。
「今それ聞くな!」
「後で払えない!」
彼女が片手を離しかける。
借金を負うくらいなら、落ちる。
その選択が理解できない者は、借金を数字だと思っている。
パルにとって借金は、人へ捕まるための紐だった。
「払わせない!」とハル。
「お前が払う?」
「俺が――」
「言うな!」
ミラの声が飛んだ。
「その約束、今するな!」
「じゃあどうする!」
「先に救う! 払う人は後で分ける!」
「後でって、逃げてる!」
「逃げ道を残す! 今は落ちないために!」
ミラは監視索を右手でつかむ。
「ジル、切る!」
「理由」
「救難!」
「成立!」
ジルの左手が銅笛を抜く。
笛の縁で監視索を切断した。
警備上は逃走。
現場では救助。
ミラが走る。
右膝の固定帯が軋む。
折れた管が落ちる勢いへ手を向ける。
移動物から勢いを盗む風術。
管の落下が鈍る。
盗まれた勢いが義足へ青い輪となって溜まり、ミラの身体を下へ引く。
「長くは無理!」
「何秒!」とロロ。
「値段次第!」
「数字で言え!」
「十二!」
ロロが契約封印へ工具を差し込む。
「壊すぞ!」
「記録する」とエリア。
「責任は!」
「救難参加者で後から分ける!」とミラ。
「パルへ乗せない!」とハル。
「それも後で書く!」
「今言った!」
「口頭仮契約!」
「成立でいいのか!」
「救助対象の同意がない!」
ハルはパルを見る。
「引く! いい?」
少女の目が、彼の左手と右手を交互に見る。
「いくら」
「今は決めない。助かった後、全部見せる。嫌な項目は異議を言える。お前を持ち主にはしないし、誰の物にもならない」
「署名」
「なくていい」
「後で、言ってないって言う?」
エリアが路図の端から紐を切った。
管の手摺へ三つ、結ぶ。
「この場の言葉を、私が記録します。セレナにも渡します。あなたの三つの結び目を同意の印として添える。違うなら、今ここで直して」
パルの右手が動く。
管へ結ばれていた古紐を、六本の指で三度結んだ。
「引いて」
「成立!」
ハルが右手を伸ばす。
届かない。
あと指三本分。
エリアが背後から彼の腰帯をつかんだ。
「今は、手を貸して」
言葉が、危機の中で妙に明瞭だった。
ハルは振り返らない。
「どこへ」
「私の左手を、あなたの腰帯へ固定。あなたは右手だけ伸ばす。左肩は使わない。私は路図を維持するため右手を空ける」
「分かった」
「返事だけでなく」
「任せる!」
エリアの左手が腰帯を締める。
彼女の右手は路図へ光を走らせ、崩れかけた足場の安全線を描く。
ハルの身体が半歩、空へ出た。
右手がパルの六指をつかむ。
「引く!」
「うん!」
ロロが救難器の封印を破った。
赤い索が再び射出される。
登録番号の代わりに、ロロが自作した仮札を差し込む。
『契約主体、不明』
「主体は本人!」
『形式不備』
「形式は後!」
『請求先――』
「全員!」
自動索がパルの腰へ巻き付く。
ミラの十二秒が終わる。
折れた管が一気に落ちた。
ハルの身体も引かれる。
左肩が反射で動く。
「使わない!」
自分へ叫ぶ。
右腕だけでパルを抱え、エリアの固定を信じる。
カイルが背後から王盾を一瞬だけ開いた。
炎の盾は人を押し上げない。
落ちてくる外板を受け、二人へ当たる経路を変えた。
ジルが等張結びで索の力を三方向へ分ける。
ノクスが赤い救難索を牙で引く。
パルの身体が甲板へ戻った。
ハルが続く。
最後にミラが、溜めた落下勢を逆向きへ解放し、折れた管を空へ蹴り返した。
管は船腹へぶつかり、潰れた。
全員が止まった。
息だけが、止まらない。