第132話 第六章「契約できない子」後編

「請求項目」

 ミラは甲板へ座り込んだまま言った。

「救難器封印破損。赤索一巻。仮札一枚。固定紐二本。カイルの盾、医務費は王室。私の監視索は港側。管は元から壊れかけ、全額請求は拒否」

「今やる?」とハル。

「今やる。後にすると、誰かが『命を助けた分』まで足す」

 パルは膝を抱えている。

 震えは見える。

 泣かない。

「私へ来る?」

「来させない」とハル。

「お前が決めるな」とミラ。

「じゃあ」

「本人へ見せる」

 ロロが工具箱の裏板を帳簿代わりにし、項目を書いた。

 材料。

 作業。

 既存設備の欠陥。

 港の救難義務。

 本人の負担。

 最後の欄へ、大きく零と書く。

「何で零」とパル。

「救難器が登録を要求したせいで危険が増えた。お前の不正利用じゃない」とロロ。

「でも使った」

「使うための道具だ」

「私には使えない道具」

「だから道具の方が間違ってる」

「機械は正直なんだろ」

 ロロは答えるまで少し時間がかかった。

「正直だ。だから間違った命令にも正直に従う。悪いのは、何を正しいって教えたかだ」

 ミラが帳簿を指す。

「無料じゃない」

「零だろ」

「パルが払わないだけ。港の救難予算、設備管理者、監視索を切らせた裁定所、各項目へ請求する」

「取れる?」とパル。

「分からない」

「取れなかったら」

「私たちが赤字」

「後で私へ戻す?」

「戻さない条項を書く」

 ロロは追記した。

『救助対象への遡及請求なし。雇用、所有、居住、航海参加の義務へ転換しない』

「長い」とパル。

「短くすると隠れる」とロロ。

「読めない」

「読む。何度でも。違うと思ったら止めろ」

 ロロは一字ずつ説明した。

 パルは三つの結び目を、帳簿板の穴へ結んだ。

 食事は、第四十四層の炊事船で取った。

 船名はない。

 鍋だけが大きい。

 薄い豆煮。

 硬い平パン。

 魚の骨を煮た塩汁。

 パルは平パンを半分食べ、残りを袖へ入れた。

「持ち帰る?」とエリア。

「明日」

「明日も用意する」

 パルの手が止まる。

 エリアも止まった。

「……約束ではありません。提案です。明日の分をこちらで決めるのではなく、必要なら相談する」

「今のパン、持ってていい?」

「あなたの食券で買った、あなたの分です」

「食券、ミラの」

「あなたへ渡した時点で、あなたのもの」

「返せって言わない?」

「言わない」

「証人」

「私」とハル。

「近い」

「俺がいるから?」

「お前、すぐ自分で払うって言う」

「悪い?」

「払えなくなった時、怒る人がいる」

「俺は怒らない」

「自分へ怒る」

 ハルは返せなかった。

 パルは机の下へ手を伸ばし、匙を一本取った。

 袖へ入れる。

 ジルは見ていた。

 止めない。

「安全?」とハル。

「まだ」

「いつ返す」

「返したくなったら」

「それでいい」とジル。

「店のだぞ」とロロ。

「私が払う」

「それ、無料を隠してない?」

 ミラが笑う。

「修理工、覚えたね」

「うるせえ。帳簿に書く。匙一、ジル立替、返却時精算」

「匙まで?」

「小さい物から曖昧にすると、大きい物で誤魔化される」

 パルはロロの帳簿を見た。

「私の名前、書く?」

「嫌なら書かない」

「じゃあ、三つ」

 彼女は欄へ三つの小さな結び目を描いた。

 同じ頃、王立星航学院では、生徒評議会の第一回公開会議が始まっていた。

 会議室には、学院史上初めて、教師より多くの生徒がいた。

 ティア・グランツは議長席へ座らなかった。

 右膝の古傷は、長く曲げていると熱を持つ。立った方が楽という理由もある。だが何より、高い椅子から公平を配る姿が、自分でも気に入らなかった。

「発言時間は一人二分」

 彼女は砂時計を置いた。

「身分、学年、科、成績にかかわらず同じ。途中で遮らない。議題外の発言は次回へ回す」

 最初の三人はうまくいった。

 寮費。

 食堂の量。

 飛行実習の安全索。

 四人目が、マオ・ケルンだった。

 左脚の星鉄装具を鳴らし、机まで歩く。

 書類を置く。

 呼吸を整える。

「外壁授業の、移動、時間について」

 言葉が遅いわけではない。

 話す前に、どの言葉なら本人抜きの同情へ変えられないかを選ぶため、間が必要なのだ。

「介助路を、増やす、だけでは、足りません」

 砂が落ちる。

「介助路へ、入るための、申請が、授業開始の、三日前で――」

 二分が尽きた。

 ティアは槌を打った。

「時間です」

 マオの口が、次の言葉の形で止まる。

「続きは書面へ」

「書面を、作る時間が、ない人は」

「時間です」

 規則どおりだった。

 全員へ同じ時間を配った。

 だからこそ、ティアは槌を置いた後、自分の手が何を切ったのか分かった。

 平等な二分は、二分で話せる者にだけ平等だった。

「議長」とマオ。

「何」

「今の、私の意見は、どこまで、記録されますか」

「途中まで」

「途中の意見は、意見ですか」

 ティアは答えなかった。

 答えを急げば、また時間の速い側から決める。

「この規則は、次回まで保留にする」

「今日の、会議は」

「続ける。ただし、あなたの残りは最後に取る」

「私だけ?」

 今度は、ティアが止まった。

 特別扱いにすれば、本人抜きの配慮になる。

 同じにすれば、また切る。

「……いま答えを持っていない」

 議長が分からないと言うと、会議室は静かになった。

 ティアは、その静けさを失敗と呼ばなかった。

 まだ成功とも呼ばなかった。

 白環杯で得た答えを学院へ持ち帰っても、学院は答えどおりには動かない。

 物語が続くとは、たいていそういうことである。

 自由港の炊事船で、パルは二杯目の豆煮を断った。

「前払いは一食」

「おかわり込み」と店主。

「書いてない」

「ここじゃそうだ」

「後で請求する?」

「しない」

「証人」

 店主が天井を指した。

「鍋」

「鍋は喋らない」

「毎日ここにいる」

「成立」

 パルは二杯目を受け取った。

 食べ終えてから、急にロロの量札見本を指さした。

「それ、運んだ」

 全員の視線が集まる。

「いつ」とセレナはいない。代わりにエリアが、声を低くした。

「冬の後。鐘が六回鳴る日」

「どこからどこへ」

「白い手の人の船から、税関の下。箱、三つ」

「白い手?」とハル。

 パルは自分の右親指だけを布で隠す真似をした。

 グラウス。

「本人を見た?」

「遠く。運ばせたのは灰色の服」

「箱の中が量札だと、なぜ分かる」とロロ。

「一枚落ちた。拾った。穴が二つ、近い」

 ロロが、グラウスの提示した偽造札を思い出す。

 近接した二重穴。

「何枚あった」

「いっぱい」

「数字」

「分からない」

「箱の大きさ」

 パルは机の端から端まで腕を広げる。

「これくらい。三つ。重くない」

「真鍮札なら、数百枚入る」とロロ。

「どこへ置いた」

「税関の下の穴。入れたら一ルク。名前を聞かれない仕事」

「同じ穴形を、ほかにも見た?」

 パルは頷いた。

「下の炉。今日。市場。昨日。もっと前も」

「全部、二つが近い?」

「同じ」

 彼女は右手の六指で、机へ穴の位置を置いた。

 一つ。

 二つ。

 近接した二つ。

 外側の欠け。

 量札は名前を書かない。

 穴で負担先を示す。

 そして、名前を持たない子どもだけが、その穴の同じ形を覚えていた。

「証言を残す」とエリア。

「名前、書く?」

「あなたが決める」

「三つで」

 パルは紐を結んだ。

 三つの結び目。

 紙の署名ではない。

 だが、彼女がここにいて、見たことを話したという痕だった。

 その痕は、金庫の扉より小さい。

 小さいものが、大きな制度を開くこともある。