第133話 第七章「量札の穴」前編

穴は、何もない場所である。

 木を削れば木屑が残る。

 紙を切れば切れ端が残る。

 金属へ穴を開ければ、その中心にあったものは消える。

 だから穴は空白に見える。

 しかし歴史家にとって、空白ほど饒舌なものはない。

 誰が開けたか。

 どちらから打ったか。

 先に開いた穴はどれか。

 なぜ、そこだけ無くす必要があったか。

 書かれた文字は嘘をつける。

 消された場所は、消したという事実だけは消せない。

「証人の登録番号」

「ない」とパル。

「出生記録」

「ない」

「保護者」

「いない」

「雇用主」

「いらない」

「では、あなたが誰であるかを何で証明する」

「ここにいる」

 即時裁定所へ戻ったパルは、中央の証言台に立っていた。

 台が高い。

 顔が見えない。

 カイルが黙って踏み台を持ってくる。

「これ、使うのいくら」とパル。

「王室備品」

「王室へ借り?」

「俺の椅子から外した」

「王子の椅子、高い?」

「値段は高い。座り心地は悪い」

「なら、壊しても同じ」

「壊す前提で使うな」

 パルは踏み台へ乗った。

 グラウスが白手袋の右親指を机へ置く。

「存在していることと、証言資格は違う」

「またそれ」とハル。

「事実は繰り返しても変わらない」

「繰り返した回数だけ、人を小さくする事実もある」

「感想は裁定外だ」

「じゃあ今のも感想」

「何が」

「資格がないって、お前の」

 裁定官が槌を打つ。

「外部者、発言を控えよ」

「外部の人間が沈む港を支えても、外部?」

「登録上は」

「登録って便利だな。助ける時だけ人で、話す時は外になる」

「ハル」

 セレナが名を呼んだ。

 止める声ではない。

 言葉を証拠から離すな、という合図だった。

 ハルは口を閉じる。

 セレナは裁定台へ三つの紐を置いた。

「証人は、事件現場への案内、救難時の意思表示、物品受領の三場面で、同じ結び方を用いました。本人性の継続は確認できます」

「港法上の署名ではない」とグラウス。

「港法上の証言資格に、文字署名は必須とされていません」

「本人確認が必要だ」

「本人確認とは、行政登録だけを指すという条文を示してください」

「慣行だ」

「条文ではありません」

「慣行は港を動かしてきた」

「慣行が誰を止めてきたかも、いま確認しています」

 セレナは黒い証羽を立てた。

「パル・スピン。あなたは、見たことだけを話してください。分からないことは分からないと。推測は推測と」

「間違えたら」

「訂正できます」

「罰」

「故意に偽ったと証明されない限り、見間違いだけで罰しません」

「証明する人、誰」

「この場では裁定所。ただし私も記録します」

「勝てる?」

「分かりません」

 パルは、三つの結び目を握った。

「白い手の人の船から、箱を運んだ。灰色の服が持ってきた。箱は三つ。中から一枚落ちた。穴が、こう」

 六本の指で位置を示す。

「どの船だ」と裁定官。

「上」

「船名」

「知らない」

「時刻」

「鐘が六回。寒い風の後」

「日付」

「知らない」

「運搬命令書」

「ない」

「報酬記録」

「一ルク」

「証明は」

 パルは袖から硬貨を一枚出した。

「これ」

「どの支払いか分からない」とグラウス。

「分からないことは、虚偽の証明ではありません」とセレナ。

「幼い無登録者の曖昧な記憶だ」

「曖昧な部分は曖昧として扱います。穴形の一致は、物証と照合します」

「その物証が、容疑者の所持していた偽札だ」

「だからこそ、由来を分けます」

 セレナは、量札を載せた三枚の黒布を開いた。

 一枚目。

 市場船から回収した実札。

 二枚目。

 最下層の浮力炉へ差し込まれた札を、現場立会いのもと一枚だけ抜いたもの。

 三枚目。

 ミラの逃走路で回収された偽札。

 どれも、似ている。

「同じに見える」とハル。

「同じに見えるよう作られています」とセレナ。

「違いは」

「穴ではなく、穴が開いた順序」

 量札は、一枚で一つの意味を持たない。

 外縁の切り込みが、所属層。

 最初の穴が、所有権登録。

 二つ目が、保険区分。

 三つ目が、共同浮力網の負担群。

 中心近くの小穴が、個別船。

 必要に応じ、古い穴を塞ぎ、新しい穴を加える。

 だから一枚の札は、その時点の行先だけでなく、過去にどこへ属したかを傷として残す。

「穴の数なら複製できる」とセレナ。

 彼女は単眼鏡へ細い光を通す。

 裁定所の壁へ、穴の縁が拡大投影された。

「しかし、打ち抜く順序は縁へ残ります。二番目の穴を開けた時、金属は一番目の穴側へわずかに逃げる。後の打撃は、先の穴の返りを潰す」

「返り?」とパル。

「穴の裏へ出る、とがった縁」

「触ると切れるやつ」

「そうです」

「知ってる」

「どこで」

「箱の中」

 グラウスの左手が、杖を握り直した。

 水平器の泡は中央。

 泡より指の方が、傾きを隠せない。

 セレナは続けた。

「市場札。所有穴が先、保険穴、負担群、個船穴。通常順です。最下層札。所有穴、保険穴の後、一度負担群を塞いだ痕があり、その上から別群と個船穴が打たれている」

「付け替え」とロロ。

「はい」

「偽札は」

「外見だけなら同じ。しかし順序が逆です。個船穴を先に開け、その後で所有穴と保険穴を模している」

「何で逆にする」とハル。

「先に行先だけを大量生産したからです」

 セレナは偽札の裏面を投影する。

 中心近くの小穴だけ、縁が古い。

 周囲の穴は新しい。

「誰かが最初に、下層の個別船を示す穴だけ百枚分開けた。その後、正規札に見えるよう所有と保険の穴を足した」

「偽札は下へ重さを送るため」とエリア。

「可能性が高い。しかし、それだけでは誰が作ったかを示しません」

「ミラの逃走路で見つかった」とグラウス。

「はい」

「本人も盗んだと認めた」

 ミラは被告席の索を、指へ巻いていた。

「言う?」とハル。

「質問料」

「契約の三割に入ってる」

「最近みんな強い」

 セレナが正面から問う。

「あなたは、この偽造量札を所持していましたか」

「してた」

「どこで得た」

「盗んだ」

 裁定所がざわめく。

「何から」

「灰色の運搬人。上層から下へ札箱を運んでた」

「いつ」

「警報の十五分前」

「なぜ」

「パルから、同じ仕事をしたって聞いてたから」

 パルが顔を上げる。

「いつ聞いた」

「前の冬。匙を三本返した夜」

「覚えてた?」

「無料の情報は高くつく」

「私、払ってない」

「だから忘れなかった」

 ミラはグラウスを見る。

 正面から。

 ハルは、その癖をもう知っている。

 彼女は嘘をつく時、相手へ正面から近づく。

 ただし今は、椅子へ縛られている。

 距離を詰められない。

「警報前、灰服が札箱を税関下へ運んでいた。止めた。箱を奪った。半分は取り返された。残った一枚を持って金庫廊下へ行った」

「なぜ通報しなかった」とグラウス。

「誰へ」

「警備へ」

「その灰服を護衛してた警備へ?」

「証拠は」

「ない。だから確かめに行った」

「そして警報が鳴り、逃げた」

「捕まったら札が消えると思った」

「実際、落とした」

「落としたんじゃない。警備兵に切られたコートの内袋から落ちた」

「映像は」

「裁定後まで見せないって、白い手の人が言ってる」

 グラウスの白手袋が、わずかに擦れた。

「空賊の自己弁護だ」

「はい」とセレナ。

 ミラが眉を上げる。

「はい?」

「現時点では、あなたの供述だけです。真実としては扱いません」

「助けないね、黒い鳥」

「助けるために記録していません」

「嫌いじゃない」

「感想は不要です」

「好きとも言ってない」

「言葉遊びも」

「料金外?」

「時間外です」

 穴の順序だけでは足りない。

 セレナは金属粉を集めた。

 市場札の縁。

 最下層札の穴。

 偽札の内袋。

 第一税関廊下の床。

 真鍮は同じでも、打ち抜き機ごとに油が違う。

 古い機械は鯨脂。

 新しい機械は星樹油。

 軍需型は、焼き付き防止に青い雲鉛粉を混ぜる。

「匂いで分かる?」とハル。

「一部は」

「ノクス」

「使いません」

「何で」

「金属油の識別なら、試薬で再現できます。ノクスの反応は記録しにくい」

「ノゥ」

 夜獣は不満そうに二本尾を打った。

「役なし?」とパル。

「役を与えるために使うのではありません」とセレナ。「必要な時に必要な能力を借ります」

「借り賃」

「干し魚二枚」とロロ。

「ノゥ!」

「三枚だって」とハル。

「値上げを通訳するな」

 試薬皿へ粉を落とす。

 市場札。

 青紫。

 最下層札。

 青紫。

 偽札。

 青紫。

「同じ油」とエリア。

「旧軍式の打ち抜き機です」とセレナ。

 グラウスがすぐ答える。

「自由港へ流れた軍需機は十二台ある」

「一覧を」

「提出済みだ」

「十一台です」

 セレナは書類を一枚、掲げた。

「十二台目は、二十七年前に港主船へ譲渡。現在地は『廃棄』とだけ記載」

「廃棄証明は」

「沈没で失われた」

「どの沈没」

「前港主時代だ」

「船名」

「記録庫で確認しろ」

「記録庫は昨日から封鎖中です」

「港が沈んでいる」

「便利ですね、その理由」とハル。

 グラウスの杖が床を鳴らす。

「外部者は黙れ」

「黙ると港が浮く?」

「裁定が進む」

「結論へ?」

「必要な結論へ」

「誰に」

 グラウスは答えない。