第140話 第十章「保険金の船」後編

 自由落下した町では、声にも重さがなくなる。

 伝声筒の中を空気が同じ速度で落ち、音が一瞬遅れて歪む。

 その歪んだ回線へ、カイル・アークレイの声が入った。

『自由港全船へ。保険証券第十九条を読む』

 グラウスが天井を見る。

「回線を切れ」

 護衛の一人が通信盤へ走る。

 ミラが床の銀杯を蹴った。

 杯が飛ぶ。

 護衛が避ける。

 ミラは杯の飛ぶ勢いを盗み、先回りして通信盤の前へ滑る。

「放送料、前払い」

 帆刃で遮断索を切る。

『第十九条。登録船が、保険組合の許可なく無登録船または無資格者へ救難索、浮力、燃料、医療物資を提供した場合、その行為による損傷は補償対象外とする』

 港じゅうで怒号が上がる。

『第二十条。前条の救難により登録荷重が変動した場合、保険組合は不正接続を推定できる』

「その条項は昔からある」とグラウス。

「便利だね」とミラ。「下を助けた船は保険を失う。助けなければ下が落ちる。どっちでもお前が決める」

『第二十一条。無登録者の救命を理由とする緊急行為についても、事後承認を得ない限り同じ――』

 カイルの声が止まる。

 一拍。

『景気が悪いな』

 自由港じゅうの誰かが笑った。

 笑いは許可を取らない。

『この証券を発行した組合の最大持分者は、グラウス・ドレッジ。改訂日は三か月前。第四十二層以下の切離し計画作成日の翌日だ』

「証拠保全官!」とグラウス。

 次にセレナの声。

『保険組合原本にて確認。改訂会議の議事録には「未登録船群の救難が登録船へ過剰負担を生じさせる可能性」とあります。事故前の危険予約、親札の分割、切離し線、救難免責条項は、互いに独立した偶然とするには、同じ利益配分先へ集中しています』

「推測だ!」

『利益関係の事実です。犯意認定は裁定で行います。しかし現在、港主権限による切離し命令の中立性は失われました』

 カイルが続ける。

『登録船主へ。王国の命令ではない。王子のお願いでもない。お前たちの保険契約を読め。下を助けたら保険が切れる。だから助けるなと書いてある。従うかどうかは、お前たちが決めろ』

「扇動だ」とグラウス。

「選択を見せるのは、扇動?」とミラ。

「不安を煽っている」

「不安はもう落ちてる」

 伝声筒へ、別の声が入る。

《黄金梯子号》、下層へ予備索を出す! 保険は切れ!』

『第三香料船、燃料二樽! 後で払え、払えなきゃ香辛料袋を縫え!』

『白帆医療船、無登録者も受け入れる! ただし重傷優先、身分順はなし!』

『市場船、食料庫を開ける! 盗難扱いにする奴は後で私が殴る!』

 契約は、人を止める。

 契約を読んだ人間が、止まらないこともある。

「港主命令だ、従え!」

 グラウスが通信へ怒鳴る。

『港主権限により、救難行為を禁止する!』

『終了時刻は』とセレナ。

「何」

『非常権限の終了条件と時刻』

「危機が去るまでだ」

『危機を判断する者は』

「港主」

『あなたが利益当事者です』

「港を守る責任者でもある」

『責任は権限を無限にしません』

 グラウスの声が低くなる。

「外部の法を持ち込むな」

『自由港法第零条。自由な契約は、契約主体の生存を故意に失わせるため用いてはならない』

 ジルの声だった。

「第零条などない!」

『だから今、書いてる!』

 誰かがまた笑う。

 笑いの中で、港の落下速度は増している。

 金庫前の戦いは、水平の床で行われなかった。

 《水平公号》の姿勢輪が限界へ近づき、船体が一息ごとに左右へ振れる。

 グラウスは杖の水平器を見ながら刃を出す。

 右。

 左。

 床が傾く直前に踏み替える。

 彼は戦士ではない。

 だが、傾く船で四十年生きた男だった。

「右へ二度、左へ一度」とミラ。

「何を数える」

「癖」

「船の姿勢だ」

「お前の身体も同じ」

 右へ傾く。

 グラウスの左足が先に出る。

 ミラはその靴の勢いを盗んだ。

 足だけが止まり、上体が進む。

 杖刃が外れる。

 ミラの帆刃が白手袋を切る。

 右親指の布ではなく、左手の甲。

 血が出る。

「値段は」とグラウス。

「今の?」

「傷」

「自分で決めて」

「なら、お前の脚一本」

「もう半分しかない」

「残りだ」

「高い」

 護衛二人が左右から来る。

 一人は止まった網を持つ。

 動いていない網からは勢いを盗めない。

 学習している。

 もう一人は捕縛棒を床へ固定し、通路を狭める。

 ミラの逃げ道が消える。

「動かない物で囲めば、お前はただの片脚だ」とグラウス。

 義足接合部が痛む。

 幻肢が、ない足先を掻く。

 ただの片脚。

 九歳の船長も言った。

『足のない子どもを置く船はない』

 だから働け。

 だから払え。

 だから従え。

 ミラは笑った。

 短く、一回。

「ただの片脚を安く見るね」

 彼女は義足を外した。

 接合錠を二つ開く。

 星晶義足が膝下から外れ、床へ落ちる。

 全員の動きが止まった。

 ミラ・ベルウェザーが義足を外した姿を見せるのは、深い信頼の時だけだ。

 ここに信頼する相手はいない。

 だからこれは、信頼ではない。

 相手の前提を捨てるためだった。

「動けない」と護衛。

「誰が?」

 ミラは片脚と両手で床へ伏せる。

 低い。

 網の下。

 右手を床へつき、身体を旋回させる。

 義足がなくなった分、重心が変わる。

 グラウスの読んでいた歩幅も、踏み替えも、全部消える。

 片脚で跳ばない。

 両腕で梁へ上がる。

 捕縛棒を支点に、身体を振る。

 動いているのは自分。

 自分の勢いは盗めない。

 だが、船が傾き、固定棒が床へ引かれる微細な振動は動きである。

 その振動を一息ずつ盗む。

 小さい。

 小さい勢いを、十。

 二十。

 三十。

 義足がない右膝へ、蓄勢の負担が直接来る。

 痛み五。

 止まる条件。

 本人がいない契約は提案。

 けれど、条件を言った相手の顔が浮かぶ。

 ハル。

 エリア。

 ジル。

 ロロ。

 パル。

「……五」

 ミラは声に出した。

 誰も返事をしない。

 返事がなくても、報告は嘘にならない。

 彼女は動きを止めた。

 護衛が近づく。

「終わりか」とグラウス。

「休止」

「拘束しろ」

 護衛が腕を伸ばす。

 その瞬間、船が大きく右へ傾いた。

 共同浮力網を失った上層船が、《水平公号》の左舷へ衝突したのだ。

 護衛の身体が横へ投げられる。

 動いた。

 ミラの右手が開く。

 三人分の横滑り。

 崩れる棚。

 回る姿勢輪。

 衝突船の反発。

 全部の勢いが、外した義足の星晶核へ流れ込む。

 床に転がっていた義足が青白く燃える。

「脚は、履いてなくても脚だよ」

 ミラは片手で義足をつかみ、杖のように床へ突いた。

 蓄えた勢いを一部解放。

 衝撃波が通路を走る。

 護衛は壁へ押し付けられ、捕縛棒が折れる。

 ミラは義足を再接続した。

 接合部へ激痛。

 六。

 数字を細かく言いたくなる。

「六・二」

 グラウスが眉をひそめる。

「何だ」

「痛み」

「誰に報告している」

「契約側」

「聞こえない」

「戻ったら請求する」

 親札を抜く。

 金庫内の量札受けが警報を鳴らす。

『保険原資の不正持出し』

「正しい」とミラ。

「犯罪だぞ」とグラウス。

「別件で認める」

「また罪を増やす」

「命を減らすより安い」

 彼女は親札をコートの内側へ入れる。

 だが共同網は切れている。

 札を確保しても、港は落ち続ける。

 船窓の外。

 自由港全体が雲海へ近づく。

 雲海は海ではない。

 濃密な星粒と水分の層で、船体が高速で入れば外板を削り、浮力炉へ逆流を起こす。最下層から接触すれば、連結された船が順番に折れる。

 残り高度、千二百。

 グラウスは船橋へ走る。

「独立脱出艇を出す!」

「一人で?」

「港主の生存は再建に必要だ」

「港は人じゃなく契約なんでしょ」

「契約を知る者が要る」

「他にもいる」

「全体を知るのは私だけだ」

「一人しか知らない制度を、公共って呼ばない」

 グラウスは船橋扉を閉める。

 ミラが追う。

 彼は脱出艇の鍵を開けた。

 小型艇は、保険金と原本証券を積むため、どの船より強い独立浮力炉を持つ。

 二席。

「来い」とグラウス。

「まだ提案?」

「港は止まらない。お前の仲間も死ぬ。親札を持って逃げれば、後で真相を証明できる」

「生き残ってから裁く?」

「それが現実だ」

「誰が生き残るか、またお前が決める」

「二席ある」

「千隻に?」

「二人が残れば、作り直せる」

「同じ港を?」

「より強い港を」

「じゃあ、終了」

 ミラは脱出艇の係留輪を切った。

「何を!」

 艇が船外へ飛び出す。

 無人のまま。

 グラウスが追おうとする。

 ミラは艇の発進勢を盗んだ。

 独立炉の全加速。

 これまで義足へ溜めたどの風より大きい。

 星晶骨格に亀裂が走る。

 右膝が崩れる。

 腰が焼ける。

「それほど溜めれば、お前が壊れる!」

「知ってる」

「何のためだ!」

「港を止める」

「足りない!」

「足りない分は」

 ミラは歯を見せる。

「みんなへ請求する」

 《水平公号》の主帆は、港全体の上にあった。

 ミラは船橋の外へ出る。

 風がない。

 自由落下中、船と周囲の空気が同じ速度で落ちるため、相対風が弱い。

 帆は垂れている。

 彼女は主帆索へ義足を掛けた。

 蓄勢七。

 八。

 九。

 痛みは、数字にできない。

 数字にできない時、彼女は怒っている。

 自分へ。

 グラウスへ。

 救助を借金へ変えた船長へ。

 そして、誰かへ頼ることを最後まで負けだと思う自分へ。

「全港へ」

 通信盤を開く。

「ミラ・ベルウェザー。調査契約側。親札確保。港主船の中央弁切断を確認。これから、溜めた勢いを全部返す」

『返す先は!』ロロ。

「主帆。上向き」

『一枚の帆じゃ船だけ折れる!』

「索を港へつないで」

『何本!』

「動く分だけ!」

『数字!』

「分かんない!」

 ロロが息を呑む音。

 ミラは、分からないと言った。

 契約では最も嫌う言葉。

『受領!』

 エリアの声。

『主帆から各層へ、既存係留の生存線を描く。ジル、張力を均等化。カイル、最初の衝撃だけ盾。ハル――』

『走ってる!』

「どこへ」とミラ。

『お前の風を渡す索へ!』

「料金は!」

『戻ってから決めろ!』

 声が割れている。

 それでも届く。

 下を見る。

 千隻の船。

 上層の白い船。

 中層の市場。

 下層の名なし船。

 索が一本ずつ、主帆へつながる。

 ジルの等張結びが、異なる太さの綱を一時だけ同じ負担へする。

 カイルの深紅盾が、主帆の下へ小さく開く。

 エリアの青い路図が、風の通る順序を描く。

 ロロの仮配分盤が、どの索を先に張るか灯す。

 ハルが、最後の中継索を抱えて逆立つ帆柱を走っている。

 パルが、登録地図にない結び目の場所を指す。

 ノクスが赤い索を牙で引く。

 セレナの証羽が、全部を記録する。

 契約側。

 ミラは、その言葉を初めて安いと思った。

「返す」

 義足の全ての風輪を開く。

 移動物から勢いを盗む風術。

 盗んだものは、持っている限り、借りである。

 彼女は蓄えた全勢いを、逆方向へ解放した。

 風が生まれた。

 自由落下の町の中で、初めて上へ吹く風。

 《水平公号》の主帆が爆発するように張る。

 帆柱が曲がる。

 索が一斉に鳴る。

 上向きの衝撃が、千隻へ伝わった。

 下層の落下が鈍る。

 中層の船が震える。

 上層の姿勢が崩れる。

 ミラの義足から光が消える。

 結晶骨格の亀裂が、踵から膝まで走る。

 彼女は主帆索から落ちた。

 右手だけでつかむ。

「止まった?」

 通信に問う。

 ロロの返事が来ない。

 計器の警報だけが聞こえる。

 やがて、息を切らした声。

『落下速度、四割減!』

「四割」

『足りない! まだ雲海へ向かってる!』

 ミラは笑おうとした。

 一回も出ない。

 全部返した。

 それでも足りない。

 港は重すぎた。

 自分一人の盗んだ風では、千隻の町を浮かせられない。

 当たり前だった。

 当たり前を認めることが、彼女には一番高かった。

「……助けて」

 声は小さかった。

 料金も、条件も、取り分も付けなかった。

 通信の向こうで、誰かが息を吸う。

『受領』

 エリアの声だった。

 港はまだ落ちている。

 だが、助けを求める言葉だけは、上へ届いた。