第139話 第十章「保険金の船」前編
救助は、命を返す行為だと語られる。
返す、という言葉には、もともと持ち主がいたという含みがある。
助けられた命は、誰のものか。
助けた者のものではない。
助けられた者へ返されるべきである。
だが歴史上、救助はしばしば所有の始まりになった。
沈没船を曳いた者が船体を得る。
漂流者を拾った船長が労働を要求する。
飢えた村へ穀物を送った国が、翌年の港を取る。
善意に値段があること自体が悪いのではない。
値段を後から決め、拒めない形で請求することが、人を物へ変える。
ミラ・ベルウェザーは九歳で、その違いを脚の代わりに覚えた。
《水平公号》の甲板は、自由港で最も傾いていなかった。
共同浮力網が切れ、千隻が自由落下へ入っても、この船だけは内部の独立浮力炉と姿勢輪を動かし、床を水平へ保とうとしている。
水平であることは、安全とは限らない。
落ちる部屋でも、床と天井が一緒に落ちれば、杯の中の水はこぼれない。
船内の銀杯は、卓上へ静かに立っていた。
窓の外では町が落ちている。
「趣味が悪い」
ミラは天井梁へ逆さにぶら下がり、小声で言った。
誰も返さない。
七つの風鈴耳飾りのうち、六つは紐で押さえてある。鳴れば警備へ位置を知らせる。鳴らない一つだけが、結びようもなく黙っていた。
船尾から侵入し、保険庫まで五区画。
一つ目は、船主用食堂。
白い卓布。固定具のない皿。落下している今も皿が動かないのは、床下の姿勢輪が一息ごとに船を微調整しているからだ。
二つ目は、権利証庫。
船そのものではなく、船を売る権利、入港を拒む権利、荷を優先して降ろす権利が、薄い筒へ巻かれている。
三つ目は、保険計算室。
壁一面に港の模型。上層船は金、下層船は木、無登録船は透明な硝子で作られていた。
硝子の船は、見ようとしなければ見えない。
「趣味が最悪」
ミラは評価を下げた。
模型上の第四十二層以下には、赤い切離し線が引かれている。
昨日今日の線ではない。塗料の乾き、埃の積もり方から、少なくとも数か月前。
事故は、警報の前から設計されていた。
彼女は卓の下へ滑り込む。
左義足の接合部が熱い。
痛み四。
蓄勢一。
ハルへ言った条件なら、止まる数字だ。
「本人がいない契約は、提案」
自分へ言う。
右膝を伸ばす。
腰を一度、壁へ預ける。
休むことと、諦めることは違う。
九歳の頃、彼女は違いを知らなかった。
係留索事故の日、自由港には三日間の横風が吹いていた。
子どものミラは船倉から勝手に出て、切れかけた外索へ近づいた。
仕事だった、と後に彼女は言う。
実際には半分が仕事で、半分が賭けだった。
大人が怖がる風の中を、自分だけが渡れれば、船に置いてもらえる。
索は切れた。
太い麻縄が生き物のように跳ね、左脚へ巻き付き、係留輪と船腹の間へ引いた。
痛みの記憶はない。
音だけがある。
濡れた木を斧で割る音。
次に目を覚ました時、膝から下がなかった。
船長は言った。
『助けた』
その一語の後に、費用が並んだ。
医師。
止血布。
薬。
欠航。
壊れた索。
血で汚れた甲板の清掃。
代わりに働いた甲板員の賃金。
命の値段ではない、と船長は言った。
救助にかかった費用だ、と。
明細は正しかった。
だから逃げにくかった。
ミラが働けば、食費が加算された。
寝れば寝床代。
義足を借りれば使用料。
成長して義足を替えれば更新費。
払うほど借りが増えた。
救われた命は彼女へ返らず、帳簿の中で船長の所有になった。
十五歳の夜、ミラは船を奪った。
正確には、船長契約を偽造し、乗組員の過半へ別契約を提示し、旧船長へ救助費の元金だけを置き、利息と所有権を拒絶して出港した。
空賊行為。
契約詐欺。
船舶窃盗。
彼女は三つとも認めた。
認めないのは、自分の命が旧船長の資産だったという一点だけである。
「思い出に料金を付けているのか」
声がした。
ミラは帆刃を抜いた。
白い手袋。
水平器付きの杖。
グラウス・ドレッジが、計算室の入口に立っている。
護衛は四人。
灰色の制服。
全員、腰へ量札打ち抜き器を下げている。
「盗み聞き、いくら?」とミラ。
「独り言へ値段は付かない」
「私の時間を使った」
「私の船で」
「船に耳はない」
「船主にはある」
「じゃあ聞いた分、払って」
「何を望む」
「親札」
グラウスは笑わない。
「安い要求だ」
「なら出して」
「札だけでいいのか」
「今は」
「お前の罪状を消す。船を一隻。港内自由航行権。保険組合の持分二分。パル・スピンへ居住登録。ジル・カスクの旧税債務も免除する」
ミラの耳飾りは鳴らない。
「値段が細かいね」
「お前は細かい方を信用する」
「私が欲しい物を並べたつもり?」
「欲しくないと言えば嘘になる」
「嘘じゃない。条件が足りない」
「何だ」
「誰から取る」
「保険金と港税だ」
「どの船の」
「港全体」
「数に入ってない船からも?」
「救済には費用が要る」
「救済って言葉、高いね」
「命は安くない」
「だから所有していい?」
「所有の話はしていない」
「居住登録をくれる。代わりに誰が港へ残るか、お前が決める。船をくれる。代わりにどの航路を通れるか、お前が決める。罪を消す。代わりに、何を黙るか、お前が決める」
「契約は決めるためにある」
「一方が全部、決める契約?」
「嫌なら拒める」
ミラは窓の外を見る。
第四十二層以下が、切離し線の向こうで落ちている。
「パルは拒めた?」
「彼女は契約していない」
「だから重さだけ載せた?」
「量札の操作が私だという証拠はない」
「親札に新しい粉がある」
「誰かが使った」
「鍵は」
「複数ある」
「危険予約は事故前」
「予測だ」
「切離し線は数か月前」
「災害計画だ」
「灰服が偽札を運んだ」
「個人の不正だ」
「全部、別?」
「事実は分けて判断する」
「黒い鳥の言い方を盗んだね」
「正しいから使った」
「分けるのと、切るのは違う」
ミラは帆刃を開く。
短剣の背から、赤茶の小帆が展開する。
「お前は、都合の悪い繋がりだけ切ってる」
護衛が動いた。
四人同時。
前二人は捕縛棒。
後二人は風術封じの網。
ミラは走らない。
姿勢輪が船を水平へ戻す瞬間を待つ。
床が右へ一寸動く。
動いた。
右手を開く。
床の横移動から勢いを盗む。
船は一瞬、水平へ戻りきれず傾く。
護衛の足が滑る。
ミラだけが、盗んだ横勢を義足へ流し、左壁を走った。
捕縛棒が空を打つ。
網が投げられる。
網の重りの勢いを奪う。
布だけが天井から落ちる。
「止まった物からは盗めない」とグラウス。
「調べた?」
「お前の前科は読んだ」
「好き?」
「使える人物を調べる」
「人を値踏みする趣味」
「値段を付けるお前が言うのか」
ミラは壁を蹴る。
「違うよ」
帆刃が護衛の打ち抜き器の帯を切る。
「私は、相手が断れる値段を聞く」
器具が空中へ落ちる。
落下勢を盗み、身体を天井へ反転。
「お前は、断れない相手へ値段を付ける」
義足の結晶爪が梁へ噛む。
「それを、値踏みって言うんだ」
《水平公号》の沈没保険金庫は、計算室の下にあった。
扉は第一税関より小さい。
代わりに、鍵が三つある。
港主の指紋。
保険組合の量札。
船体が水平であること。
「三つ目、趣味?」とミラ。
「保険原資は、安定時にだけ動かす」
「港が落ちてても、船が水平なら安定?」
「測定可能な条件だ」
「人より泡を信用する」
「泡は嘘をつかない」
「杖を傾ける人は?」
グラウスの杖が、一度止まった。
ミラは気づく。
彼は、水平が好きなのではない。
傾きが怖い。
自由港の古い事故記録に、二十三年前の大崩落がある。
無登録の船村が嵐から逃れて港へ接舷し、規格外の係留が連鎖破断。上層を含む百八隻が沈み、当時少年だったグラウスは、家族船を失った。
記録には、船村が原因と書かれていた。
原因は一つではなかった。
上層が補修費を削ったこと。
救難時の負担配分がなかったこと。
船村へ正規接舷を許さなかったこと。
だが少年の記憶には、傾く床と、下から引く無登録船だけが残った。
「また落ちると思った?」とミラ。
「感情分析か」
「交渉」
「港は一度、数えられない船に殺された」
「港が?」
「私の父と母もだ」
「だから今度は、先に切る」
「港を残す」
「何を残せば港?」
「契約だ」
「人じゃない」
「人は去る。船は壊れる。契約だけが次の者へ残る」
「悪い契約も」
「直せる」
「直す人を落として?」
「全員を救う制度は、全員を殺す」
「それ、救えなかった人の言葉じゃない」
「何」
「救わなかった人が、後から使う言葉」
グラウスの顔から、初めて平静が剥がれた。
「お前に何が分かる」
「分からない」
「なら語るな」
「分からないから、本人を数から外さない」
「理想論だ」
「理想にも値段はある。払う人を先に決めればいい」
「決まらなければ」
「保留」
「港は待たない」
「だから先に救う」
ミラは金庫扉へ目を向ける。
「契約前に」
グラウスは左手を上げた。
護衛が退く。
「最後の提案だ」
「値下げ?」
「値上げだ。港主船の共同船長権。私が制度を作り、お前が現場を取る」
「私に切らせる?」
「お前なら、切るべき索を知っている」
「知ってるよ」
ミラは切れた監視索の端を見せた。
「人を救う時、切る索」
「同じだ」
「違う」
「結果として一部を捨てる」
「助けるために切るのと、数をきれいにするために切るのは違う」
「死者には分からない」
「生きた人が決める」
「誰が」
「助かった後で、全員」
「遅い」
「生きてる人の会議は、死者の代わりに一人で決めるより遅い」
グラウスは杖を金庫扉へ当てた。
「なら、証明しろ」
港主指紋が開く。
保険量札が入る。
姿勢輪が水平を示す。
三つの鍵が揃う。
扉が開いた。
「見せるの?」
「親札を取ってみろ。共同網はもう切った。札一枚で港は戻らない」
「証拠は戻る」
「証拠で人は浮かない」
「証拠がないと、落とした人が次も浮く」
金庫内に、軍式親札がある。
大きさは掌二つ分。
古い真鍮。
近接した二重穴。
その周囲へ、新しい穴が百。
打ち抜き粉が青く残る。
ミラは風送管へ粉と封蝋片を入れた。
自分のコート糸を切り、採取印として添える。
鈴線を鳴らす。
三、親。
長一、金庫。
二、粉。
返事はない。
契約紙の向こうが、忙しすぎる。
あるいは、もう落ちている。
ミラは親札へ手を伸ばす。
グラウスの杖が横から来た。
杖ではない。
内部から細い刃が伸びる。
ミラは帆刃で受ける。
金属音。
「提案は終了?」
「お前が拒否した」
「拒否できた。そこだけは契約」
互いの刃が離れる。
船が落ちる。
それでも床は水平だった。