第142話 第十一章「港を浮かせる借金」後編
百枚の子札を、十枚ずつ無効化する。
ロロが親札を中央へ置く。
親札の新しい穴へ、ティアが残した航路札の金具が偶然合った。
折れた双規刃の破片一から六。
白環杯の最後にゼロスター号の主帆へ結ばれた、一枚目の航路札。
「何で規格が同じ!」とハル。
「学院の札金具が、旧軍輸送規格を使ってるから!」とロロ。
「便利な偶然?」
「たぶん!」
「たぶんで使うの!」
「今は合うことが事実!」
ロロは航路札を親札と仮配分盤の間へ噛ませた。
本来は、客員航路士の記録を船へ結ぶ金具。
今は、百枚の子札を一枚ずつ読み替える中継器になる。
ティアはいない。
彼女の物語は学院で続いている。
それでも、彼女が自分で選んで残した札は、ここにある。
仲間がいない時、残した物だけが代わりに戦うのではない。
残した物を、今いる者が別の意味へ使う。
「第一群、十枚!」
ロロが弁を落とす。
下層から九十七単位が外れる。
上層へ戻ろうとする負担を、仮配分盤が申告先へ灯す。
「《黄金梯子》十五!」とエリア。
「受領!」
「市場船八!」
「受領!」
「《泥靴》三、一分だけ四!」
「今四!」と船長。
「三十秒経過!」
「あと三十!」
「記録!」
「白帆医療船、船尾三!」
「受けた!」
「支柱船五。ただし人員退避後!」
「完了!」
数字が動く。
誰も同じ量を持たない。
強い船が多く持つとは限らない。
強くても人が残る船は減らす。
弱くても一分だけ受けられる船は、本人の申告範囲で借りる。
平等ではない。
公平とも、まだ呼べない。
生き残るための、暫定的な偏り。
「第二群!」
「待って!」とエリア。
「何!」
「第四十六《名なし二》が十二を申告!」
「持てるのか!」
『持つ!』
若い声。
「構造強度は」
『知らない! 下を助けたい!』
「受けません」
『何で! 俺たちの船だ!』
「選択を尊重するんじゃ」とハル。
「選択だけでは構造は強くならない!」
『落ちるよりいい!』
「あなたの船が折れれば、隣の二船も巻き込む!」
『じゃあ何もさせないのか!』
エリアは息を吸う。
助けたいという意思を、危険だからと切り捨てれば、また本人抜きの保護になる。
そのまま受ければ、意思を尊重する名で死へ押す。
「十二は不可。三なら受けられる可能性があります。代わりに、乗員二人を市場船の索中継へ。あなたの船の負担ではなく、あなたの労働を借りたい」
『……三と二人』
「条件を」
『救命まで。後で十二を持てなかったことを臆病扱いしない』
「記録します。成立」
選択肢は、はいといいえだけではない。
第三の道を示すことは、相手を誘導することでもある。
だからエリアは、自分の提案であると明記した。
「第二群!」
さらに九十七。
港の落下速度が、六割から五割へ。
まだ足りない。
エリアの踵へ、針が刺さる。
三。
呼吸も三。
交代を申請する条件。
「セレナ」
「何です」
「申告読み上げを代わって。私は路図の接続へ集中する」
「受領」
言えた。
胸の奥に、悔しさがある。
自分でできる。
まだ続けられる。
その二つは、本当だ。
同時に、一人で続ければ精度が落ちるのも本当だった。
「ハル」
『今、グラウスと走ってる!』
「今は手を貸して」
『何を!』
「《水平公号》主帆の左索を、ゼロスター号の航路札中継へ接続。私の路図だけでは索の実位置がずれる。あなたの走った記憶で、最短の固定点を選んで」
『俺、地図読めない!』
「だから頼んでる!」
一拍。
『受領!』
ハルはグラウスの杖を避け、帆柱へ飛ぶ。
ミラがその背を守る。
「右の鋲列!」とエリア。
『そこ、二本目が抜ける! 三本目!』
「路図では二本目が強い」
『昨日、警備艇がぶつけた傷がある!』
「記録にない」
『見た!』
エリアは二本目の線を消す。
三本目へ描き直す。
自分の地図が、ハルの身体記憶で訂正される。
怖い。
同時に、正しい。
「三本目へ!」
ハルが索を結ぶ。
ゼロスター号の主帆で、ティアの航路札が鳴る。
第一の客員席から残った金属音。
今いる者の手で、次の負担へつながる。
第三群。
第四群。
第五群。
百枚の子札が、半分まで無効化される。
落下速度、四割。
高度五百。
雲海の白い表面が、下層の窓から見える。
「星粒逆流、始まる!」とロロ。
最下層船の外板へ、白い火花が走る。
「カイル!」
「で、誰を守ればいい!」
「船首六層! 三十秒!」
「分かりやすい!」
カイルは右籠手を左拳で二度叩いた。
王盾炎が開く。
巨大な一枚盾ではない。
下層六層の船首へ、細い深紅の膜を連ねる。
雲海の星粒を受け、流れを左右へ逃がす楔。
「広げすぎ!」とロロ。
「人数が多いほど強い!」
「痛み返しも多い!」
「王族の仕様だ!」
「欠陥品!」
「国民の前で言うな!」
カイルの背中の古い火傷が、礼装の下で赤く光る。
肋骨へ痛み。
「十五秒!」とセレナ。
「まだ半分!」
「切り上げないで!」と全員。
「王族の端数が!」
二十秒。
盾が揺らぐ。
白帆医療船から、看護師たちが補助索を投げる。
市場船から、濡れ布を広げる。
無登録船から、古い帆が出る。
王盾だけで受けない。
「二十八!」
「解除!」
カイルが盾を閉じる。
身体が後ろへ倒れる。
ジルが襟をつかむ。
「一人で格好つけるな、赤い欠陥」
「褒め方が悪い!」
「褒めてねえ!」
雲海接触は、二十八秒遅れた。
その二十八秒で、第六群が切り替わる。
落下速度、三割。
グラウスは脱出路へ向かった。
《水平公号》の船首下に、非常用の細艇がもう一隻ある。
エリアの路図へ、その道が現れる。
「逃走経路」とセレナ。
「封鎖します」とエリア。
「誰の権限で」とグラウスの声。
「救難路優先。あなたの細艇経路は、主帆索と交差します」
「港主船だ!」
「現在、港全体へ接続された救難中継点です」
「私有財産だ!」
「私有船を公共救難へ使った費用は、後で請求できます」
「誰が払う!」
「公開監査で」
「そんな不確かな契約へ従えるか!」
ミラが笑った。
「自分が払う側だと、急に不確かさが怖い?」
「お前は犯罪者だ」
「偽札窃盗は認める。逃げない」
「今、逃げようとしてたのはお前」とハル。
「港主の生存は必要だ!」
「裁定にも必要」とセレナ。「その場で待機してください」
グラウスは細艇へ続く扉を開く。
そこに、パルがいた。
どうやって上がったのか。
登録地図にない排気管を通った。
ノクスと一緒に。
「どけ」とグラウス。
「値段」
「何」
「通る値段」
「払う」
「何で」
「金」
「後から取る?」
「取らない」
「証人」
「今は時間がない!」
「じゃあ保留」
パルは扉の鍵を、六本の指で持っていた。
「返せ!」
「これ、盗んだ」
「犯罪だぞ!」
「別件で認める」
ハルが吹き出す。
「似た!」
「安くなった」とミラ。
グラウスがパルへ手を伸ばす。
ノクスが前へ出る。
二本尾が立つ。
「ノゥ」
低い声。
グラウスの足が止まる。
夜獣は嘘を判定しない。
裁判もしない。
ただ、いま目の前の子どもへ手を伸ばす者を見ていた。
「逃げ道、終了」とパル。
第七群。
第八群。
第九群。
残り十枚。
高度二百。
落下速度、一割二分。
「最後、九十七単位!」とロロ。
「受け先が足りない!」
エリアの路図には、空きがない。
すべての船が申告上限。
上層へ戻せば病院船。
下層へ残せば船首が雲海へ入る。
中層の索は限界。
一つだけ、計上されていない浮力がある。
ゼロスター号。
自由港へ来た外来船。
共同網へ正式登録されていないため、配分表の外。
「ゼロスター号の浮力余裕」とエリア。
「修理途中で七!」とロロ。
「七では足りない」
「主機を赤域まで回せば十五!」
「船体が」
「右舷外板は新しい! 左舷は古い! 負担を右へ!」
「十五」
「残り八十二!」
パルが言う。
「町、千隻」
「何」とハル。
「一隻ずつ、ちょっと」
「もう上限だ」
「上限、全部ほんと?」
エリアは路図を見る。
申告上限。
安全を見て低く言った船。
怖くて高く言った船。
分からず言った船。
「再確認する時間は」
「四十秒!」
パルは伝声筒を取った。
「全船。あと、ちょっと持てる人。嘘つかない。無理なら言わない。後で偉いにしない。持てない人を悪いにしない」
子どもの掠れ声が、港へ流れる。
「一でも、半分でも。三つ結んだら、言って」
最初の返事はない。
十秒。
『市場船、半分』
『修理工房、一』
『黄金梯子、もう二』
『泥靴、三十秒だけ一』
『白帆、零点二。手術台の反対側』
『名前のない寝台船、数が分からない。索一本分』
『香料船、袋を捨てる。四』
『税関船、証拠箱を手持ちへ移す。三』
声が続く。
持てる者だけ。
持てない者を責めない。
後で英雄にしない。
エリアは一つずつ路図へ入れる。
半。
一。
二。
小さい数字。
千隻へ分ければ、九十七は一隻の英雄を必要としない。
「八十二!」
「六十四!」
「四十一!」
「二十!」
「ゼロスター、十五!」
「残り五!」
パルが三つの結び目を、仮配分盤の空欄へ結ぶ。
「私たちの船、五」
「どの船」とエリア。
「今いる全部」
「それでは記録できない」
「じゃあ、三つ」
ジルが銅笛を噛む。
「第四十七の支柱船群。三隻共同で五。結び目証人、私」
「構造は」
「私が持たせる」
「誓星術は一度だけ」
「一度でいい」
ジルは三本の索へ、等張結びを作る。
誓星術、結索〈イーブン・ライン〉。
三隻の張力が一度だけ均等になる。
「残り零!」とロロ。
最後の子札を無効化する。
九百六十七単位が、申告された船と索へ暫定配分された。
エリアは路図の全線を閉じる。
「固定!」
ロロが仮弁を落とす。
千隻の索が張る。
船体が軋む。
雲海まで、七十メートル。
落下速度。
零点八。
零点四。
零点一。
零。
自由港は止まった。
静止ではない。
風に揺れ、索が伸び、船は上下する。
それでも、落下は止まった。
誰か一人の力ではない。
一枚の地図でも、一つの魔法でも、一人の犠牲でもない。
誰がどれだけ持つかを隠さず、持てないと言う権利を残し、後で返す期限を付けた借金。
港は、その借金で浮いた。
エリアの膝が折れる。
「三」と彼女は言った。
「踵?」とハル。
「呼吸も」
「今は手を貸す?」
「……今は、手を貸して」
ハルの右手が来る。
彼女は自分で、その手を取った。
《水平公号》の逃走扉は、パルの三つの結び目とノクスの前脚で塞がれている。
グラウス・ドレッジは、水平器の泡を見た。
泡は中央にあった。
港全体は、彼の決めた水平から外れていた。
それでも、生きていた。