第143話 第十二章「成立、保留、乗船」前編
事件が終わる時、物語は拍手を求める。
犯人は捕まり、危機は去り、朝日が差し、仲間は笑う。
歴史は、その後から始まる。
壊れた橋を誰が直すか。
救助に使った燃料を誰が補うか。
誤って拘束された者へ誰が謝るか。
犯人が作った制度を、犯人だけ取り除いて使い続けるのか。
英雄は一晩で町を救える。
町を一晩で日常へ戻すことはできない。
自由港が落下を止めた翌朝、最初に聞こえたのは歓声ではなかった。
請求書を打つ金槌の音だった。
「痛い」
「知ってる」
「優しく」
「追加料金」
「払う」
「先に言うな。金持ってないだろ」
「三割」
「凍結中!」
ジルの工房で、ロロはミラの星晶義足を分解していた。
港停止から六時間。
空は薄い朝色へ変わり、自由港は雲海の七十メートル上で、仮配分索に吊られている。上層も下層も以前の高さではない。町全体が斜めにずれ、昨日まで隣だった船が二層離れ、遠かった炊事船が窓の正面へ来ていた。
地図は作り直し。
係留は仮設。
共同浮力網は停止。
それでも鍋に火が入り、修理市場は開いた。
人間の日常は、制度より先に再起動する。
「接合核、二本亀裂。踵帆骨三本。蓄勢導管、焼け。右膝は医者」
「膝も直して」
「俺は人を直さない!」
「ジルの看板と同じ」
「ジルが書いたからだ!」
「弟子?」
「違う!」
「腕は似てる」とジル。
「褒めてる?」
「悪口だ」
「どっちでも料金同じにして」
ミラは作業台へ腰掛け、左脚を膝下から外している。
義足を外した姿を、ハルたちの前で隠さない。
深い信頼という言葉を本人へ言えば、たぶん請求される。
切断部には塩かぶれと擦過傷。
リディアの代わりに、白帆医療船の医師が処置をし、右膝は三日間の固定、腰は一週間の重蓄勢禁止と診断した。
「重蓄勢禁止って、どこまで」とミラ。
「荷車一台以上」とロロ。
「荷車の積荷は」
「空」
「空荷なら二台?」
「一台!」
「荷車が小さい場合」
「禁止!」
「数字が雑」
「患者が抜け道を探すからだ!」
ハルは隣の椅子で、左肩へ固定布を巻き直されていた。
痛みは二。
腫れは軽い。
亜脱臼なし。
「俺は?」
「三日、片腕懸垂禁止」とロロ。
「走るのは」
「平地」
「この町に平地ない」
「じゃあ歩け!」
「地図上の平地なら?」
「エリアへ聞け!」
「私を医学規則の抜け道に使わないで」とエリア。
彼女は長椅子へ座り、両踵を冷却布で包んでいる。
左肺の呼吸は落ち着いた。地図筆は、珍しく手の届かない机へ置いた。
「三日、路図の大展開禁止」と医師に言われた。
「小展開は」とハル。
「聞きませんでした」
「珍しい」
「聞けば使うから」
「賢い」
「あなたも見習って」
「俺は聞いた」
「抜け道を?」
「正確な条件を」
「似てきた」とミラ。
「誰に」と二人。
「悪い方へ」
「再使用料」とエリア。
「払わない。終了」
カイルは工房の隅で、肋骨を固定されていた。
「俺だけ扱いが静かだな」
「喋るとずれる」と医師。
「王太子へ黙れと」
「医療命令」
「国法より強い?」
「痛みより弱いなら喋れ」
カイルは黙った。
三秒。
「景――」
医師が固定帯を一段締める。
「黙る」
グラウス・ドレッジは、第一税関裁定所ではなく、修理市場の旧砲塔へ拘置された。
税関は彼の管理下だった。
港主船は証拠現場。
王国船へ移せば外部権力による連行になる。
そこで、登録船主十二、無登録船群の証人九、修理組合、白帆医療船、外部星律官の共同保全区画を作った。
鍵は五つ。
一つでは開かない。
五つ揃わなければ、食事も入れられない。
「多すぎない?」とハル。
「拘束される者の安全もあります」とセレナ。
「守るの?」
「当然です」
「港を落としたのに」
「罪状が重いことと、拘束中の権利は別です」
「逃げたら」
「追います」
「殴ったら」
「止めます」
「助けを拒んだら」
「意思能力と危険を確認します」
「細かい」
「細かくしなければ、こちらが同じことをします」
旧砲塔の面会窓から、グラウスは港を見ていた。
杖は押収。
白手袋も証拠袋。
水平器だけは、本人の求めで窓台へ置かれた。
「まだ自分が正しいと思う?」とハル。
「面会目的を言え」
「聞きたい」
「感想なら裁定外だ」
「裁定じゃない」
「なら答える義務はない」
「そう」
ハルは帰ろうとした。
「待て」
「何」
「港は、今後必ず同じ問題へ戻る」
「何で」
「全員の申告を聞き、全員へ拒否権を与え、負担を公開する。平時なら会議だけで港が止まる」
「止まって話せばいい」
「商船は待たない。嵐も待たない。利益が減れば上層船は去る。浮力炉と税収を持つ船が去れば、下層も落ちる」
「だから、数に入らない人へ押し付ける?」
「選べる者が負担を拒めば、選べない者へ行く。制度がなくても同じだ」
「同じじゃない」
「何が」
「隠すかどうか。押し付けた人が、押し付けたって残るかどうか。拒んだ人が、誰を落とすことになったか見えるかどうか」
「見えれば正しくなるのか」
「分からない」
「理想論だ」
「分からないまま、お前一人の答えを正しいことにしない」
グラウスは水平器を見る。
泡は少し右へ寄っている。
「港は傾いている」
「生きてる」
「傾いたままでは、いずれ落ちる」
「直す」
「誰が」
「ここにいる人」
「去る者は」
「去っていい」
「残る者だけで足りなければ」
「別の港を作るか、船を減らすか、助けを頼む。選び直す」
「遅い」
「一人で切るより」
ハルは面会窓へ近づいた。
「遅くても、戻れる」
グラウスは答えなかった。
彼の物語がここで終わるわけではない。
裁定があり、証言があり、港の被害者が彼の顔を見て話す時間がある。
許されるとは限らない。
理解されるとも限らない。
捕まった瞬間、人間が結末になるわけではない。
事件の暫定認定は、昼の鐘に公開された。
一、第一税関金庫の保管物は物理的に盗まれていない。
二、軍式親札から登録荷重九百六十七単位が百枚へ分割され、無登録船群へ付け替えられた。
三、保険危険予約は荷重警報の七分前。
四、切離し計画と救難免責条項は事故前に作成。
五、港主船金庫の打ち抜き機、親札粉、子札穴順、喫水変化、索張力が同じ操作を示す。
六、グラウス・ドレッジは利益当事者として港主非常権限を行使し、共同浮力網を切断した。
最終的な罪状と共犯者は、公開裁定で審理する。
「共犯者、いる?」とパル。
「灰服の運搬人、保険組合の一部、打ち抜き作業者。命令を知っていた範囲が未確定です」とセレナ。
「グラウス一人で終わらない」
「終わらせません」
「全員、捕まえる?」
「同じ罪にはしません。運んだだけの者、計画を知った者、拒否できなかった者、利益を受けると知って加担した者を分けます」
「細かい」
「必要です」
「パルを運ばせた人は」
「調べます」
「勝つ?」
「分かりません」
「でも、やる?」
「はい」
パルは三つの結び目を、暫定認定書の証人欄へ置いた。
ミラの容疑も、別に裁定された。
「偽造量札の窃取、一枚」とセレナ。
「箱半分」とミラ。
「正確に」
「四十七枚奪った。三十六枚を警備に取り返された。十枚は逃走中、税関下の換気口へ投げた。一枚を所持」
「十枚の所在」
「換気口の網へ引っ掛かってるはず」
「回収済みです」
「じゃあ十一枚」
「警備妨害、三件」
「艇二、滑車一。網屋台は警備の請求」
「ゼロスター号の発進力窃取」
「返した」
「無断です」
「利息付き」
「船首手摺が曲がりました」とロロ。
「それ、白環杯から」
「お前ので増えた!」
「何割」
「三!」
「私の取り分と相殺」
「するか!」
「港主船金庫への侵入」
「グラウスが扉を開けた」
「そこまでの侵入です」
「成立」
「親札持出し」
「証拠保全」
「緊急性は認めます。ただし手続違反は残ります」
「黒い鳥、帳消しにしないね」
「あなたが望まないでしょう」
ミラは少し黙った。
「望まない」
「では、条件付き猶予案。偽札経路の証言、灰服運搬網の捜査協力、被害弁済のうち故意損害分。逃走しないこと」
「期間」
「公開裁定終了まで」
セレナはためらわず答えた。
「最長六十日。延長は本人同意または新たな証拠に基づく裁定」
「船は出られる?」
「所在報告と召喚応答を条件に」
「王国へ連れてく?」
「自由港の事件です。港裁定を優先」
「罪を消さない」
「消しません」
「私をここへ縛らない」
「縛りません。ただし逃げれば猶予は終了」
「高い」
「拒否できます」
「拒否したら」
「暫定拘束を争います」
「成立」
ミラは右小指の古い船長刺青ではなく、右親指で署名した。
セレナも署名する。
追う者と逃げる者の関係は、終わらない。
形が変わる。
無登録者向け救難窓口は、窓口ではなかった。
窓のある建物へ入れない者がいる。
列へ並べない者がいる。
名前を言えない者がいる。
そこで、修理市場中央の元砲台へ、三つの入口を作った。
紙で申請する机。
声で伝える録音管。
結び目や絵を置く板。
受付は、登録番号を最初に聞かない。
最初の問いは一つ。
『今、危険か』
危険なら先に救う。
費用、責任、登録、滞在資格は後。
契約前に行う救命。
名前だけでは制度にならない。
だから、救命後の手順も書いた。
材料費。
労働費。
設備管理者の責任。
公費負担。
本人が選べる支払方法。
免除条件。
異議申立て。
遡及請求の禁止。
雇用、所有、居住権との切離し。
ロロは三日眠らず、表を作った。
「長い」とパル。
「短くすると隠れる」
「読めない」
「だから絵も作った」
材料は釘の絵。
労働は手。
公費は港の旗。
免除は開いた手。
後払いは月。
異議は二本の矢印。
所有禁止は、人と鎖の間へ大きな切れ目。
「鎖、怖い」とパル。
「じゃあ変える」
「消す?」
「切れた縄にする」
「それなら分かる」
ロロは描き直した。
ジルが横から覗く。
「材料と労働を分けたのはいい。だが、腕の値段が安い」
「高くしたら下が払えない」
「払えない人への免除と、お前の腕が安いことは別だ」
「同じ金が来ないなら同じだろ」
「違う。無料にすると、次の金持ちも無料で使う」
修理市場の店主が、壊れた姿勢輪を持ってくる。
「これ、直せるか」
ロロの目が光る。
「旧式三重軸! 壊れ方がいい!」
「壊れ方を褒めるな」
「直すなら四十ルク」とジル。
「高い!」とロロ。
「市場相場は五十」と店主。
「何で客が上げる!」
「昨夜、うちの船を三分持たせた盤を作った修理工だろ」
「それとこれは」
「技術の値段だ」
ロロは口を開く。
閉じる。
「部品別。軸交換なら三十五。磨いて再使用なら二十八、ただし半年保証なし。今すぐなら緊急料五」
全員が止まった。
「何」とロロ。
「値段を言った」とハル。
「修理屋だから言う!」
「自分で下げなかった」とエリア。
「選択肢を出しただけ!」
ミラが短く三度笑う。
「成立」
「お前が決めるな!」
店主は三十五ルクを選んだ。
その隣で、下層の魚売りが壊れた水汲み機を持っている。
「こっちは」とロロ。
「一ルクしかない」
「部品三。作業五。でも救難被害だから港公費へ四、修理市場基金へ三、本人一。残りは免除」
「後で増える?」
「増えない。ここに書く」
「払えなかったら」
「今月は一。食料不足なら免除申請。申請できなくても、窓口へ来い」
「名前がない」
「絵か結び目」
魚売りは、札へ魚の尾を描いた。
「それでいい」
ロロの帳簿は黒字ではない。
赤字でもない。
誰が払わず、誰が代わりに払い、どこが不足しているかが見える帳簿になった。
不足が見えることは、解決ではない。
見えなければ、いつも同じ者が黙って埋める。