第144話 第十二章「成立、保留、乗船」後編
パルは登録窓口へ行かなかった。
「名前を作らないの?」とハル。
「ある」
「正式な」
「パル・スピン」
「姓、自分で付けたんだろ」
「だから私の」
「登録すると、使いやすくなることもある」とエリア。
「使うの、誰」
「あなた自身。救難、食料、学校、異議申立て」
「追う人も」
「使える可能性があります」
「じゃあ今は保留」
「受領します」
「後で、怒らない?」
「なぜ」
「助けたのに登録しない」
エリアは答える前に、言葉を選んだ。
「助けたことは、あなたの行先を決める権利になりません」
「本当?」
「本当です」
「証人」
「私」とハル。
「お前、すぐ自分で払う」
「じゃあセレナ」
「記録します」とセレナ。
「ジル」
「聞いた」
「ミラ」
ミラは義足を調整しながら顔を上げる。
「後で登録したくなっても、今の保留を借りにしない。成立」
パルは三つの結び目を作った。
「今は、パル・スピン」
「今は?」とハル。
「後で同じか、選ぶ」
名前は、過去を固定する札ではない。
未来まで拘束する契約でもない。
少なくとも彼女は、そう使うことにした。
三割契約の精算は、夕方に行われた。
回収財産。
親札一枚。
保険金。
支払い停止。
返還権。
裁定中。
賞金。
未設定。
「三割、零?」とミラ。
「現時点では」とセレナ。
「命懸けで?」
「契約は回収額の三割です」
「港を回収した」
「港の所有権はありません」
「じゃあ何を回収した?」
「負担を決める権利を、公開へ戻した」とエリア。
「値段は」
「まだ決められない」
「高そう」
「高いでしょうね」
ミラは契約紙を見た。
第一項。
調査側は真犯人および盗難対象を特定する。
特定した。
第二項。
依頼側は回収された財産、保険金、返還権、賞金の合計三割を支払う。
今は全部、凍結または未確定。
「失敗契約」とハル。
「調査は成功」
「払われない」
「回収前に三割って決めた私の失敗」
「認める?」
「認める。次は最低保証を入れる」
「いくら」
「食事、医療、義足修理、船室、逃走時の退職金」
「逃げる前提?」
「辞める自由」
ミラは契約紙の終了欄へ線を引いた。
「三割契約、終了」
ハルも署名する。
エリア。
カイル。
ロロ。
セレナ。
ジル。
パルは三つの結び目。
ノクスは前脚を載せ、魚油の跡を付けた。
「また汚れです」とセレナ。
「ノゥ」
「本人は署名だって」とハル。
「翻訳根拠は」
「顔」
「記録できません」
「じゃあ汚れで」
「ノゥ!」
「不服だって」
「都合が良い」
契約は終わった。
終わることは、関係が消えることではない。
終われない契約より、終わった後にも話せる関係の方が長く続くことがある。
「新しい契約」
ミラが紙を一枚、机へ置いた。
ハルが読む。
「客員航路士?」
「船長じゃない。操舵と現地交渉、港内規則、危険時の風盗」
「期間」
「次の三寄港、または三十日。早い方」
「報酬」
「一日八ルク。食事。医療。義足の通常整備。危険手当は事前相談、緊急時は事後公開」
「高い」とロロ。
「安い」とミラ。
「間を」とハル。
「九」とエリア。
「上がった!」
「義足整備を船の必要経費へ含めるなら、日額七。個人装備扱いなら九」
「地図屋、交渉できるね」
「航路士です」
「同職になるなら譲る。七、整備込み」
「任務外の罪状」とセレナ。
「本人が負う。ゼロスター号と学院、王室は隠匿しない」
「契約終了条件」
「双方、三日前通知。暴力、拘束、賃金未払い、無断所有権設定の場合は即時」
「逃走は」とハル。
「辞職」
「連絡なしは」
「一日保留。二日で終了。ただし救難中は延長」
「戻る約束は」
「しない」
ハルは紙を見た。
「行先」
空欄が三つある。
出発地。
目的地。
保留。
「目的地を決めない契約?」
「決めないんじゃない。後で相談する」
「今まで、保留欄は逃げ道だった」とエリア。
「今も」
「誰の」
「全員」
ミラは右小指の古い船長刺青を見た。
昔、逃げられない契約へ押した印。
今度は右親指を、保留欄へ置く。
「目的地、保留。同行、成立」
署名する。
ハルも署名した。
「船長は誰」とミラ。
全員が止まる。
「ゼロスター号、船長いた?」とハル。
「学院登録上は共同実習船」とエリア。
「最終責任者は王太子」とカイル。
「俺、正式な学生になったばかり」
「機関責任者は俺」とロロ。
「航路は私」
「証拠保全時だけ私」とセレナ。
「黒猫」とミラ。
「ノゥ!」
「夜獣!」
「船長不在の船へ雇われた?」
「中の人が喧嘩する船」とエリア。
ミラは、短く三度笑った。
「危ない契約」
「終了する?」とハル。
「乗ってから決める」
ゼロスター号の六番目の客員席に、新しい金具が付いた。
ロロが義足固定用の受けを作る。
緊急時、ミラが座ったまま蓄勢を逃がせるよう、床へ風抜き管を通す。
「勝手に義足を固定しないで」とミラ。
「固定じゃない。選べる留め具」
「外すのは」
「片手」
「動かない時は」
「足踏み」
「義足外してたら」
「肘」
「いいね」
「料金」
「契約の通常整備」
「もう使うのか!」
席の背へ、小さな風鈴が三つ下がった。
一つは木。
一つは真鍮。
一つは欠けた硝子。
「七つじゃない」とパル。
「船に全部持ち込むと、帰る場所がなくなる」とミラ。
「ここ、帰る場所?」
「保留」
ティアの航路札は、主帆の内側に残っている。
六番目の席には、まだ新しい航路札を結ばない。
航路札は、同行した者が別の場所へ進む時、船へ残すものだ。
ミラは今、乗ったばかりだった。
パルは席の下へ潜る。
「お前も乗る?」とハル。
「今は乗らない」
「何で」
「下の道、直す」
「一人で?」
「同じ飯の人と」
「また会える?」
「値段」
「その時決める」
「成立」
パルは腰袋から匙を一本出した。
ゼロスター号の食堂で使っていた、少し曲がった匙。
ハルの配達鞄へ入れる。
「返すの?」
「まだ」
「入れたけど」
「預ける」
「違いは」
「戻った時、取りに来る」
ハルは鞄を閉じた。
「預かる」
「後で料金、言わない?」
「言わない」
「証人」
「船じゅう」
「多い」
出港は、三日後になった。
自由港の仮配分索が安定し、ゼロスター号へ割り当てた十五単位を別船へ移し終えるまで待った。
ミラは急かさなかった。
「時間は減ると値段が上がるんじゃ」とハル。
「待つ時間を先に契約した」
「違う?」
「選んだ待ち時間は、盗まれた時間じゃない」
エリアがその言葉を、地図の余白へ書いた。
「何」とミラ。
「記録」
「使用料」
「あなたの客員契約へ含む」
「強い」
出港前、学院から伝羽が届いた。
ティアの筆跡。
『第一回評議会。全員へ同じ二分を配り、マオの発言を途中で切った。規則を保留した。次の会議までに、発言の速さが違う者を同じ議題へ入れる方法を考える。そちらの港では、署名できない者の意見をどう残したか、結論ではなく失敗も送ってほしい』
ハルが読む。
「ティアも失敗した」
「当然です」とエリア。
「嬉しそう」
「嬉しくありません」
「口元」
エリアは右手で口を隠した。
「失敗を送れるのは、続ける人だから」とカイル。
「王子、たまにいいこと言う」とロロ。
「たまにを取れ」
「始末書の数を減らしたら」
「無理だな」
返事には、パルの三つの結び目を写した。
救難器を壊したこと。
費用を後から分けたこと。
全員へ同じ負担を戻さなかったこと。
まだ未登録者全員を制度へ入れられていないこと。
成功だけを送れば、成功を真似した者が同じ失敗をする。
ゼロスター号が自由港を離れる朝。
千隻の町は、まだ傾いていた。
白い仮索。
色の違う修理板。
量札監査を告げる旗。
無登録救難窓口の三つの入口。
グラウスの港ではない。
ハルたちの港でもない。
残った者が、これから何度も決め直す町だった。
ジルは港へ残る。
「船長なしで?」とミラ。
「お前が客員航路士になったから、私は船長代理を辞める」
「いつ代理に」
「お前が勝手に出た時」
「契約書は」
「ない」
「無効」
「なら船長不在だった。問題ない」
「一航士」
「何だ」
「帰港予定」
「決めない」
「保留?」
「終了してから決める」
ミラは風鈴を一度鳴らす。
「成立」
パルはジルの横で、三つの結び目を掲げた。
ノクスが前脚を上げる。
「ノゥ」
「何」とハル。
「干し魚、未払いだって」とパル。
「四枚?」
「五」
「増えた!」
「救難割増」
「本人が言った?」
「顔」
「セレナに怒られる翻訳」
ノクスは満足そうに尾を振った。
ゼロスター号の帆が上がる。
片帆だった船は、まだ左右違う布を使っている。
完全には直っていない。
完全でなくても出発できる。
「係留解除!」とロロ。
「右舷、自由!」とエリア。
「左舷、借金なし!」とカイル。
「それを確認するのは私です」とセレナ。
「目的地!」とハル。
全員がミラを見る。
彼女は六番席へ片脚を固定し、三つの風鈴を鳴らした。
「保留」
「船、出せない!」
「まず港外へ。そこで相談」
「航路士二人いて、目的地なし?」
「道はある」とエリア。「行先が未決定なだけ」
「違う?」
「大きく」
その時、入港櫓から伝羽が飛んできた。
白い羽。
遠方の競売会で使う、封蝋付き依頼羽。
セレナが受け取り、表だけを読む。
『護送依頼。
未着品、一件。
品は、まだ到着していない。
到着前に、護送者を求む』
「意味分かる?」とハル。
「分かりません」とセレナ。
「競売品が届いてないのに、どこから護送する」とロロ。
「未着だから探す?」とカイル。
「依頼料」とミラ。
封筒を裏返す。
金額は書かれていない。
「安い」と彼女。
「書いてない」とハル。
「だから高くできる」
「受ける?」
「目的地は」
「保留」
「依頼は」
ハルは、自由港を見る。
傾いた町。
残る人。
出る船。
預かった匙。
次の事件が何か、まだ知らない。
誰に会うかも、何が届いていないかも。
知らないことは、答えではない。
入口である。
「保留」
ミラが笑う。
「上手くなった」
ゼロスター号は、千隻の町から離れた。
主帆の内側で、ティアの航路札が鳴る。
六番目の席で、三つの風鈴がそれへ答える。
目的地はまだない。
だから彼らは、相談するために空へ出た。