第145話 第一章「翼鯨の背の市場」前編
市場とは、ここにある物を売る場所ではない。
少なくとも、歴史の半分はそうだった。
春に播く麦を冬に買う。
まだ港を出ていない香辛料へ値段を付ける。
生まれていない仔馬の脚へ期待を掛ける。
明日晴れると信じ、今日の雨傘を安く手放す。
人は未来を所有できない。
だから未来へ近づく順番を売った。
それを商いと呼ぶ者もいれば、賭けと呼ぶ者もいる。二つの違いは、当たった者が歴史を書いたかどうかにすぎない。
アステリアで最も大きな未来市場は、同じ場所に二度と戻らなかった。
四枚翼の巨大空鯨〈エア・ホエル〉の背に町を載せ、風路と季節と本人の機嫌に従って、空を歩いていたからである。
「町が、息してる」
「町ではありません。町を載せた生物が呼吸しているの」
「同じじゃない?」
「違います」
「何が」
「町へ失礼か、鯨へ失礼かを選びなさい」
「選択肢が両方失礼なんだけど」
自由港ヴェインを離れて五日目。
ゼロスター号は、翼鯨ラナの右後方へ回り込んでいた。
ラナは、空へ浮かぶ島より大きかった。
濃い藍色の背。銀粉を溶かしたような腹。左右二枚ずつ、合計四枚の翼は薄い膜ではなく、雲を押す幅広いひれに近い。ひれの縁だけが半透明で、朝日を通すたび街一つ分の虹が空へ折れた。
背中には町がある。
家々は鯨の皮膚へ釘を打たない。柔らかな白木の骨組みを、自然に隆起した背びれの谷へ沿わせ、厚い布帯で抱くように固定している。道は石畳ではなく、何百枚もの弾力板。ラナが息を吸うと、中央大路が一尺持ち上がる。吐くと、店先の看板が一斉に下がる。
屋根は低い。
煙突は横向き。
水槽は全て半分しか満たさない。
揺れを止めるのではなく、揺れと暮らすための町だった。
「翼鯨の背市カンティレーナ」
エリアは船首で地図筆を走らせる。
「常設人口三千四百。競売期は最大一万。ラナの呼吸周期は通常、吸気十二分、保息三分、呼気九分。ただし朝の上昇風と雷雲前で変動する。右後翼の付け根から三百歩以内は感覚毛帯。立入禁止。火気は腹側風下のみ。投錨は禁止」
「地面が動く以外は普通の町だな」
「地面が動く時点で普通の残りが少なすぎます」
「船も動く」
「船へ道を建てません」
ロロが機関室の天窓から顔を出した。
「建ててるだろ、これ。船室、厨房、寝台、客員席。町より狭いだけだ」
「なら、ゼロスター号が息を始めてから同列に扱います」
「機関は息みたいなもんだ」
「止まったら死ぬ?」とハル。
「修理代払えば生き返る」
「命の定義が工房寄りすぎる」
ロロの補助腕が四本とも、船縁の外へ伸びていた。
翼鯨を見たいのではない。見えている係留具を全部分解したい形だった。
「触るなよ」とミラ。
「触ってねえ」
「腕が触る前払いしてる」
「腕の感情を読むな!」
六番目の客員席で、ミラ・ベルウェザーが三枚の風鈴を鳴らした。
赤茶の片長コート。銅色の巻き髪。左膝下の星晶義足は、自由港でロロが応急修理した継ぎ目へ新しい白金帯を巻いている。右膝の固定布は取れたが、急減速のたび腰へ手が行く。それを指摘すると、彼女は治療費の見積もりを小数まで返した。
「ラナへ接舷するまで八分」とミラ。「案内料、一人二ルク」
「案内、エリアがしてる」とハル。
「地図屋は情報。私は値段」
「値段を案内するの?」
「市場で一番大事」
「命より?」
「命に値段を付ける奴から逃げるには、そいつの値段を先に知る」
「深いこと言って二ルク取ろうとしてる?」
「今ので三」
「増えた!」
「学習料」
ミラは短く三度笑った。
自由港の事件から八日。
彼女はゼロスター号へ乗ったまま、目的地を保留し続けていた。
ただし保留は停止ではない。
朝はエリアと航路を選び、昼はロロへ義足の可動角を一度ずつ値切り、夜はハルへ「無償救助の借りがどれだけ人を縛るか」を講義し、その講義料を払わせようとした。
誰も払っていない。
請求書だけが増えた。
「肩」
エリアが言う。
「まだ回してない」
「今、二回」
「いつ見た」
「一回目は翼鯨が見えた時。二回目はミラが急減速した時」
「方向じゃなく俺を見てた?」
「事故要因を見ていました」
「俺、要因」
「上位です」
ハルは左肩を下げた。
痛みはほとんど消えている。
普通に走る。両手で綱を取る。低い壁なら越えられる。ただし片腕だけで体重を吊るすことと、急な引き上げが続くことはまだ禁止。身体は治った部分から忘れるが、仲間は治っていない部分から覚えていた。
「接舷帯、来ます!」とエリア。
ラナの背で、白い布輪が開いた。
輪は杭ではなく、八本の太い帯で背びれの隆起へ回されている。その外側へ船を結ぶ。鯨が皮膚を震わせれば帯ごと緩み、強く引けば先に船側の留め具が外れる。
生物を港へする時、人間は二種類に分かれる。
港なのだから使えるだけ使う者。
生物なのだから一切触れるなと言う者。
カンティレーナの住民は、その間で三百年暮らした。
触れる。だが痛みの出る場所を覚える。
乗る。だが降りる手段を残す。
利益を得る。だが鯨が進路を変える権利まで買ったとは言わない。
完全な共生ではない。
完全でないことを毎朝確認する習慣だった。
「速度、合わせる!」
エリアが路図を開く。
淡青の線がゼロスター号の船首から伸び、ラナの呼吸で上下する接舷帯へ重なる。
「右二度。降下半!」
「受領」とミラ。
義足の小帆が展開する。
彼女は操舵輪へ触れず、甲板を滑って右舷帆索を引いた。
ゼロスター号が傾く。
「近い!」とロロ。
「近づいてるから」とハル。
「板一枚の値段が見える距離だ!」
「安心した」
「高いって意味だ!」
船首が白い布輪へ入る。
ラナが息を吐いた。
町全体が一度、沈む。
ゼロスター号だけが遅れて浮き、接舷帯へ斜めから押し込まれた。
「左!」とエリア。
「もう左!」とミラ。
「もっと!」
「値段上がる!」
「船板より安く!」とロロ。
ハルは船首索へ飛ぶ。
一、二、三。
右手で索を取り、左手は添えるだけ。
身体を回して引く。肩で止めず、腰と足で衝撃を逃がす。
布輪の外へ出かけた船首が戻った。
カイルが右籠手を甲板へ押し当てる。
王盾を出さず、自分の体重と足で船尾を支えた。
「王子の使い方が係留材になってきたな!」
「市場では信用が低いらしいからな。物理から始める!」
「景気は」
「悪い!」
ロロが留め具を閉じる。
ゼロスター号は、ラナの背へつながった。
その瞬間。
足元の町が、ゆっくり持ち上がる。
家々が上がる。
人々が上がる。
干し布も、果物籠も、競売旗も、同じ呼吸へ乗る。
ハルの胃だけが一拍遅れた。
「船酔い?」とミラ。
「町酔い」
「新しい。診断料」
「お前、病気見つけるたび儲ける気?」
「治さないから安い」
「悪い医者!」