第146話 第一章「翼鯨の背の市場」後編
接舷帯の入口には、鯨守がいた。
名をサーガ・リブという。
六十に近い女で、青灰色の髪を頭の中央だけ細く残して剃り、両耳へ骨製の大きな聴音輪を掛けている。右手には槍ではなく、先端へ柔らかな房を付けた長杖。ラナの皮膚を叩かず、毛の流れと震えを読む道具だった。
「火」
サーガが言う。
「機関室のみ、二重蓋」とロロ。
「杭」
「なし。帯留め」
「投錨」
「しない」とエリア。
「感覚毛帯」
「右後翼付け根、三百歩以内へ入らない」
「鯨が進路を変えたら」
「人が町ごと従う」とカイル。
サーガはカイルを見る。
「王子でも?」
「王子だから先に従う」
「言葉は軽い」
「盾は重い」
「鯨へ置くな」
「置かない」
合格とも不合格とも言わず、サーガは白布の通行札を渡した。
ノクスだけが札を受け取らない。
「獣は?」とハル。
「本人へ聞く」
サーガが膝を曲げる。
「ラナの背へ乗るか」
「ノゥ」
「降りたくなったら」
「ナァ」
「人へ従うか」
ノクスはサーガの聴音輪を嗅ぎ、顔を背けた。
「受領」
サーガは赤い布輪を一本、ノクスの前脚へ結ぶ。首輪ではない。本人が前脚を抜けば外れる結び方だった。
「丁寧」とハル。
「鯨の町で、鯨より雑に獣を扱えば笑われる」
「人は?」
「人は自分で雑に扱われる契約へ署名する」
ミラの風鈴が鳴った。
「気に入った」
「値段を聞くな」
「もう払った。入市料」
「それは町へ」
「町があなたへ払う」
「なら私はラナへ払う」
「どうやって」
サーガは長杖の房で、背の一部を撫でた。
「痛い場所を覚える」
市場は歩いていた。
正確には、人が歩くたび市場の方も上下した。
香辛料店の吊り皿は、ラナの吸気に合わせて左右へ揺れる。魚屋は空を泳ぐ帆魚を網から一匹ずつ外し、まだ生きているものだけ水槽へ戻す。時計屋の針は地面の動きを打ち消すよう二重軸になっている。靴屋は左右で底の厚さが違う「鯨歩き靴」を売っていた。
「買う?」とエリア。
「俺の靴で平気」
「あなたの靴は地球製で替えがない」
「大事にしてる」
「壁を走る人の大事は信用しません」
「信用、何ルク」とミラ。
「あなたには売りません」
「高い」
「不売です」
「もっと高い」
ハルは笑いながら、街路の端へ目を向けた。
道の下は鯨の背だ。
青黒い皮膚が、板の隙間から見える。呼吸のたび細かな銀毛が同じ方向へ伏せ、次に戻る。
道端の子どもが、落とした木玉を拾う。
拾う前に手を止め、ラナの皮膚が上がるのを待つ。
下がる瞬間に取れば、強く押さずに済む。
暮らしは、大きな知識だけでできていない。
毎日同じ生物へ触れ、昨日より少し痛くない方法を覚えた小さな手順でできている。
「そこの役立たず船!」
錆びた声が、頭上から落ちた。
全員が見上げる。
市場の二階橋。
油布の片長コートを風へ鳴らし、長い脚を手摺へ掛けた女がいた。右耳の上半分が欠け、左手には歯形のついた銅笛。
「ジル!」とミラ。
「船長じゃない奴が、船長みたいな顔で来たな」
「誰が船長じゃない」
「客員航路士」
「長い」
「肩書は長いほど仕事をしない」
「偏見」
「経験」
ジル・カスクは手摺から飛び降りた。
揺れる床へ、音もなく着く。
静止した地面では眠れない女は、動く場所ほどまっすぐ立った。
「港に残ったんじゃ」とハル。
「残った。三日」
「短い!」
「三日で仮索が二本切れ、船長会が六回揉め、パルが匙を四本返した。十分だ」
「誰が港を」とミラ。
「残ってる奴」
「無責任」
「お前が言うと風向きが腐る」
「何で先に着いてる」
「速い船に乗った」
「ゼロスター号も速い」
ジルは接舷帯の向こうに見える、左右で帆布の色が違う船を眺めた。
「どの部分が」
「今後」
「未来を売る市場へ来たからって、性能まで先売りするな」
ロロの補助腕が全部、抗議するよう上を向いた。
「修理途中だ!」
「知ってる。港じゅうに請求書が飛んだ」
「払われてない!」
「それも知ってる」
ジルは脇へ抱えていた筒をセレナへ渡した。
「自由港側の来歴写し。濡れても残る結索記録付き。競売主は、王獣鈴の欠片が明朝到着すると言ってる」
「現物を見ましたか」とセレナ。
「見てない」
「封印記録」
「灰風便の小艇に一つ。外からは骨白の箱だけ」
「所有者」
「それを調べろって話だ」
カイルの表情が変わった。
王獣鈴。
第二の天鍵とされる遺物。
王家の古記録では、巨大生物と浮島の鼓動をつなぐ鈴。その欠片が自由港の競売札へ載っていたから、彼らはここまで来た。
「王家へ返還を求める」とカイル。
「早い」とセレナ。
「王家の遺物だ」
「それは王家記録上の分類です」
「他に何がある」
「発見者、保管者、修理者、奪われた者、売買代金を払った者。少なくとも五つ」
「天鍵を市場へ流す方が危険だ」
「危険であることと、あなたの所有であることは別です」
「俺のじゃない。国の――」
「国を一人称へ縮めないでください」
セレナの声は低い。
カイルは反論しかけ、止めた。
「……現物を見る前に命令は出さない」
「記録します」
「言い方が逮捕延期みたいだな」
「延期ではなく、常時検討です」
「景気が悪い」
競売院は、ラナの背で最も高い建物だった。
高いといっても四階しかない。
それ以上は横風で危険なため、代わりに円形の屋根が広い。中央の競売台を囲み、客席が同心円に並ぶ。椅子は床へ固定されず、揺れに合わせて滑る短い溝へ入っていた。
競売台の上には、白い保管台がある。
空だった。
金属箱も、布も、欠片もない。
あるのは一枚の黒い札だけ。
『第二天鍵候補片。
現物、灰風便にて輸送中。
到着予定、明朝六の鐘。
本日競売対象、受領順位一件』
「空っぽを売るの?」とハル。
「未来市場です」とエリア。
「明日来るなら、明日売ればいい」
「明日には値段が決まっているから、今日売る人が儲かる」とミラ。
「見ないで?」
「見た後は、見た情報を持つ者が強い」
「見ない全員なら公平?」
「同じ無知を配っても、同じ財布にはならない」
「ティアが聞いたら頭痛しそう」
「第一条、空箱を売るな」とロロ。
「彼女はそんな雑な条文を書きません」とエリア。
「第二条、ロロへ修理費を払え」
「それは規則でなく願望」
ノクスが保管台へ跳び乗った。
空の台を一周する。
鼻を低くし、二本尾を別方向へ伸ばした。
「匂う?」とハル。
「ナァ」
「ない?」
「樹脂」とセレナ。「契約印の残りです」
「ノクス、何て」
「証拠ではありません」
「翻訳も?」
「推測です」
ノクスは不満そうにセレナの外套へ爪を掛けた。
その時。
競売院の鐘が三度鳴った。
一度目で扉が閉じる。
二度目で客席の話し声が止まる。
三度目で、競売台の上へ橙色の長衣を着た女が立った。
五十代半ば。髪を金属針で扇形に留め、十本の指へ違う材質の印環をはめている。
「競売主ベルナ・クォートより、全入市者へ告知」
声はよく通った。
慌てていない。
慌てないよう訓練された声だった。
「第二天鍵候補片。王獣鈴の欠片と称される未到着品について、緊急停止が申請されました」
客席がざわめく。
カイルが立つ。
「輸送事故か」
「違います」
「現物確認は」
「まだ到着しておりません」
「なら何が」
ベルナは、空の保管台へ手を置いた。
「盗まれました」
沈黙が落ちる。
ハルは空の台を見る。
次に、明朝到着予定と書かれた札を見る。
「待って」
誰も待たない市場で、彼は言った。
「まだ来てないんだろ」
「はい」
「来てない物を、どうやって盗む」
ベルナ・クォートは、十本の印環を一度だけ握った。
「それを確認する権利も、これから競売に掛けます」