第147話 第二章「未到着品の落札」前編
王冠には、値札がない。
そう教える国は多い。
王冠は国そのものであり、土地や倉庫のように売買できない。売れないものは、値段を持たない。値段を持たないものは、尊い。
ところが歴史を開けば、王冠は何度も売られている。
戦費の担保に入れられた。
亡命先の宿代へ変えられた。
宝石だけ外され、剣の柄へ移された。
国民の名で保管されながら、保管庫へ入れる鍵を一族だけが持った。
売れないと言う者ほど、売った時の帳簿を隠す。
カイル・アークレイは、王家の遺物へ値段が付くのを嫌った。
それは王家が尊いからではない。
値段を払える者だけが、歴史の続きを決めることになるからだった。
「調査権、開始額二千ルク」
「高い!」
「黙って」とエリア。
「空箱を調べるだけで二千だぞ」
「空箱ではなく契約履歴です」
「紙を見る値段?」
「あなたが学院で破いた規則帳、十二冊分」とロロ。
「そんなに破いてない」
「八冊」
「減って安心する数じゃない」とカイル。
競売院の中央で、ベルナ・クォートが細い鐘棒を上げていた。
王獣鈴の欠片が盗まれた。
ただし現物は明朝まで来ない。
この矛盾を確認するため、競売院は停止中の契約資料を公開することにした。公開するだけではない。誰が最初に閲覧し、関係者へ質問し、調査結果を市場へ提出できるか。その順番まで競売する。
市場は、問題が起きても市場である。
火事が起きれば水を売り、盗難が起きれば探す権利を売る。
「二千百」と、上層席の男。
「二千三百」と、金糸帽の女。
「三千」
ミラが言った。
風鈴は鳴らさない。
決断ではなく、値上げだった。
「三千二百」
「四千」
「ミラ」とジル。
「何」
「お前の財布、どこで増えた」
「未来」
「今の残高を聞いてる」
「未来市場で現在の話をするな」
「借金市場へ連れて帰るぞ」
ベルナの鐘棒がミラを指す。
「四千。支払保証は」
「自由港の荷重詐欺解決報酬、私の取り分」
「未確定です」
セレナが即座に言う。
「確定したら」
「未確定を保証へ使うなら、割引率が必要です」
「黒い鳥、どっち側」
「事実側です」
「事実、高い」
上層席の男が鼻で笑う。
「四千五百。現金」
ミラの風鈴が一度鳴った。
「六千」
「増やし方が雑!」とハル。
「相手へ迷う時間を売らない」
「自分の考える時間も消えてる!」
「考えた。短く」
「六千五百」
「八千」
「船長」とジル。
「客員航路士」
「訂正する余裕はあるんだな」
「肩書と財布は別」
「財布を義足の修理費と一緒にするな」
「義足は資産」
「担保へ入れたら折る」
「どっちを」
「契約書」
「紙を信用しないくせに」
「だから折れる」
競売院の客は、二人の会話を見ていた。
空賊が未来収入を担保に調査権へ八千ルク。理性を失ったと見る者もいれば、何か値打ちを知っていると見る者もいる。
市場では、他人の確信が商品になる。
ミラはそれを知っている。
知っているから、さらに確信した顔を作った。
「一万」
上層席の男。
ミラは正面から彼を見た。
嘘をつく時だけ、相手へ正面から近づく。
「一万二千。加えて、調査で確認した来歴を全入市者へ無償公開」
客席の空気が変わる。
金額ではない。
公開条件が付いた。
調査権を買う者は、普通、得た情報を売る。先に知った航路、偽造印、売主の弱み。情報を閉じれば、支払った額以上に取り戻せる。
ミラは閉じないと言った。
「無償?」とハル。
「情報は」
「親切?」
「違う。競売条件」
「値段、付けてない」
「調査費に含めた」
「言い換えた」
「言い換えは契約の服替え」
「裸は?」
「見せない」
エリアの右眉が上がる。
「二人とも、競売中です」
「競売中じゃなければ続けていい?」とハル。
「終了です」
「ミラみたいになってる」
「不本意」
ベルナは上層席を見た。
「一万二千、全履歴公開条件。対抗は」
男は口を開き、閉じた。
情報を独占できなければ、調査権の利益は減る。
善意に負けたのではない。採算が崩れた。
「一万二千。一度」
鐘棒が上がる。
「二度」
「待て」
カイルが立った。
客席の視線が集まる。
王太子だと知る者は多い。知らなくても、赤金の髪と深紅の半マント、盾型籠手を見れば、普通の学生ではないと分かる。
「その調査権を競売する前に、王家由来品の返還請求を受理してもらう」
「返還先は」とベルナ。
「ルーメン王家」
「所有証」
「王家記録」
「原本は」
「王城」
「現物との照合は」
「まだできない」
「では、請求は保留」
「国家の公印を出せる」
「国の公印が、ラナの背で最初に受け取られる権利を持つ根拠は」
「第二の天鍵は国の安全に関わる」
「安全は所有証ではありません」
セレナと同じことを、競売主が言う。
カイルの右手が籠手へ行った。
叩かない。
怒りを力へ変えれば、王子の権威を証明してしまう。
「危険物の一時差止めは」
「申請できます。競売院、鯨守、輸送者、現行受領権者の四者審査」
「王家は」
「申請者」
「一票もない?」
「あります。申請する一票」
「少ないな」
「大きすぎた歴史があります」
客席の奥で、誰かが笑った。
王子を笑ったのか、競売主の言い方を笑ったのかは分からない。
カイルは座らなかった。
「王獣鈴と呼ばれた物は、王家が作ったと記録されている」
「王家記録では」とセレナ。
「今は俺が話してる」
「だから訂正しています」
「味方しろ」
「王国法の監督官として、所有権を証拠なしに拡張する王太子へ味方できません」
「友人としては」
「座ってください」
「冷たい」
「具体的です」
ハルがカイルの袖を引く。
「来歴、見てからにしよう」
「取られた後じゃ遅い」
「取られたって、誰から?」
その問いで、カイルは止まった。
王家から。
そう答えれば簡単だった。
だが王獣鈴の欠片が、いつ王家の手を離れ、誰が拾い、誰が守り、誰が売ることを決めたのか、彼は知らない。
知らない歴史を王家の名で短くすることはできる。
短くした歴史の外に、誰かが残る。
「……返還請求は保留する」
カイルは言った。
「ただし危険物差止めの申請準備へ入る。現物確認と来歴確認を条件にする」
「受領しました」とベルナ。
「王子の発言を受領って言うな」
「市場では、王子も発言者です」
「景気が悪い」
「座れ」とジル。
「お前まで」
「立ってると後ろが見えない」
王権が実務に負ける時、たいてい理由はその程度である。
「一万二千。一度、二度、三度。調査権、ミラ・ベルウェザーへ」
鐘棒が台を打った。
乾いた音が一つ。
ベルナは契約板を差し出す。
板の下には、琥珀色の樹脂を入れた浅い皿がある。
「右手小指の旧船長印で」
「肩書、失効中」
「個人印として登録されています」
「嫌なところだけ正確」
「市場ですから」
ミラは右手小指を樹脂へ触れ、契約板へ押した。
風鈴の刺青が、琥珀色に写る。
「成立」とミラ。
「まだです」とベルナ。
「押した」
「乾いていません」
「押した時じゃないの?」とハル。
ベルナは隣の茶売りへ合図した。
茶売りの少年が二つの小杯を持ってくる。
一つをハルへ、一つをミラへ。
「試飲契約。飲み終えたら一ルク」と少年。
「飲んでから払う?」とハル。
「印が乾いたら買ったことになる」
少年は小さな木札へ樹脂印を押す。
次に、温かい茶杯を札の横へ置いた。
樹脂の縁が先に曇る。
中央の光沢が消える。
印の内部へ細い金線が走った。
「今、成立」
「押した時と違う?」
「押した時は、成立させる意思を置いた。乾いた時、周りが読める形になった」
「濡れたまま逃げたら」
「不成立」
「飲んだ後なら」
「無銭飲食」
「契約より普通の罪!」
ミラの調査印は、まだ濡れていた。
「息、吹けば」とハル。
「唾が混じる」とセレナ。
「火で乾かす」とロロ。
「温度で時刻が変わる」とベルナ。
「鯨の背だと全部変わるだろ」とジル。
「だから乾燥卓を使います」
競売台の左右には、白い石卓が五つ並ぶ。
風、湿度、ラナの体温を均すための卓だという。
「均すって、完全に?」とエリア。
「完全という語を市場で使う方とは契約しません」とベルナ。
「正確」
「誉め言葉として受領します」
ハルは茶を飲んだ。
塩と柑橘の味がした。
「一ルク」
少年が手を出す。
「現金、カイル」
「俺を通貨にするな」
「借りるだけ」
「王子を財布にするな」
「じゃあエリア」
「なぜ順番が私」
「払ってくれそう」
「理由が正直で不快」
セレナが一ルクを置いた。
「貸付です。返済時刻を記録します」
「一ルクで時刻まで?」
「金額で精度を変えません」
「ミラより強い」
「競合」とミラ。
調査印の金線が最後まで走った。
「成立しました」とベルナ。
ミラは風鈴を鳴らす。
「今度こそ、契約成立」