第156話 第六章「乾く順番」後編

 羽根に記録して飛ばす通信〈メッセージ・フェザー〉は、鳥ではない。

 薄い記録羽へ風路と宛先を焼き付け、最初の一息だけ魔法で飛ばす。あとは風を読む。風がなければ落ちるし、雷雲へ入れば焦げる。即時通信という名で売られるが、実際には急ぐ紙飛行機である。

「紙飛行機より偉そう」とハル。

「紙飛行機は宛先へ曲がらない」とロロ。

「上手いやつは曲がる」

「自慢?」

「子供の頃、母さんの店で納品票を飛ばした」

「届いた?」

「川」

「終了」とミラ。

 尾側受信塔から、試験羽を三枚飛ばした。

 一枚はラナの背市中央へ。

 一枚はゼロスター号へ。

 一枚は、偽物目録へ反応した逆向き羽と同じ角度で後方へ。

 エリアがラナの当日航路を空中へ重ねる。

 青い線は、九の鐘二十五分の位置から現在まで、緩く北東へ曲がっていた。

「事件時、追い風は尾側から一刻に八里」とジル。

「ラナ自身の速度を引くと」とロロ。

「後方へ飛ぶ羽は、地面から見ればほぼ停まる」とエリア。「でも受信先も航路上を動いていたなら別」

「別地点って、船?」とハル。

「候補です」

 最初の羽が中央へ着く。

 十六秒。

 二枚目がゼロスター号へ。

 二十九秒。

 三枚目は尾を越え、霧へ入る。

 戻り羽が届くまで、二分四十一秒。

 セレナが、偽物目録に反応した自動受信器の記録板を置いた。

 問い合わせ受信。

 七分十二秒後。

 受信塔より後方へ自動転送。

「七分十二秒」とハル。

「往復です」とセレナ。「塔から外部受信器へ三分前後。返答が同じ経路で三分前後。処理時間を加える」

「会場内なら」

「長くても二十秒」

「L・Oは、ラナの背にいなかった」

「少なくとも、受信器は」

 セレナは断定を一歩戻した。

「九の鐘二十五分から三十二分の間、ラナの航路後方、およそ六ないし九里の範囲にありました」

 エリアの路図へ、薄い弧が生まれる。

 円ではない。

 風が運ぶ時間と、ラナが進んだ距離を差し引いた、長い涙形。

 その先端は、今の霧の中へ消えている。

「会場を包んでる霧」とカイル。

「同じ空域へ近づいています」

「相手も動いてる」

「あるいは待っている」

「何を」

 ミラが答えた。

「受け取った物が、自分で来るのを」

 同じ頃。

 王立星航学院の生徒評議室では、紙が乾きすぎていた。

 窓辺へ並べた議事資料。

 掲示板へ貼った公開版。

 名前を黒く塗り、学年と所属を消し、発言者を「装具使用生徒A」とした匿名記録。

 ティア・グランツは、公開を正しいと考えた。

 評議会で何が話されたかを隠さない。

 発言者へ家門や教師から圧力が掛からないよう、名は伏せる。

 内容は要約せず、言葉をそのまま残す。

 三つとも、理由を説明できた。

 三つとも、本人へ聞いていなかった。

「第一条」

 ティアは机の前で言った。

「資料は個人を特定できない形へ処理した」

「できるよ」とマオ。

「どの箇所で」

「『左脚装具』『一年生』『試験門で失格歴』。学院に何人いる」

 ティアは答えない。

 一人だった。

「名は消した」

「顔は残った」

「なら、経歴をさらに削る」

「そうすると、私が何で怒ったか消える」

「目的は意見の公開だ」

「私の体から切った意見を、誰のものとして使うの」

 マオは右眼の単眼レンズを上げた。

 近視の彼女は、遠い相手の表情を読めない。だから怒っている時ほど、相手へ近づく。

「名前を隠せば、私が同意したことになるのか」

 ティアの右手が、双規刃の目盛りへ行きかける。

 途中で止めた。

「ならない」

「匿名だから守ったって言った」

「そう考えた」

「誰を」

「あなたを」

「私に聞かずに?」

 敬語ではなかった。

 マオが本当に怒っている時、規則番号を読む。今は番号を読む前だった。番号にするほど距離を置けていない。

 ティアは掲示板を見る。

 そこにはマオの発言があった。

『補助を用意する前に、使う本人へ聞け。助ける側が便利な補助は、助けられる側には新しい命令になる』

 正しい。

 重要である。

 広く読まれるべきだと、ティアは判断した。

 判断した者の名は、資料に残っていない。

 使われた者の名だけが、黒塗りの下から見える。

「撤去する」とティア。

「全部?」

「あなたが選ぶまで」

「私一人が選ぶの」

「発言者だから」

「一緒に喋った人もいる。オルト教官の数字も使った。掲示を見て意見を変えた子もいる」

「では全員の同意を」

「全員一致まで隠す?」

 ティアは黙った。

 規則を作る時、人は入口を一つにしたがる。

 同意か、不同意か。

 公開か、非公開か。

 実名か、匿名か。

 しかし人の言葉は、一枚の扉ではない。

 名前は出してよい。

 身体の詳細は出したくない。

 議事録へは残したい。

 新聞には載せたくない。

 今日なら話せる。

 来月は消したい。

 同じ発言にも、複数の受け取られ方がある。

「先に聞け」とマオ。

「分かった」

「分かった顔で終わるな」

「第一条。現在の掲示は一時撤去」

「条文に逃げた」

「第二条。発言ごとに、実名、匿名、評議会内のみ、公開不可、後日撤回の欄を作る」

「欄を選べない人は」

「口頭。印。代理記録。ただし代理人の名も残す」

「未成年は」

「保護者の同意だけで上書きしない」

「先生が圧力かけたら」

「異議窓口を、私以外にも置く」

「右膝が痛いのに立ってる人は」

 ティアの姿勢が、さらに真っ直ぐになった。

「関係ない」

「本人へ聞いた」

「……座る」

 彼女は椅子へ座った。

 右膝を曲げる時、ほんの少し息を止める。

 マオは掲示板から紙を剥がした。

「これ、捨てる?」

「いいえ。公開を停止した記録として保管する」

「誰が見られる」

「今から決める」

「一緒に」

「お願いする」

「命令じゃなく?」

「お願いだ」

 マオは白墨の端を噛みかけ、やめた。

「保留」

「それはミラ・ベルウェザーの言葉だ」

「便利だから借りた」

「使用料を請求される」

「議長払い」

「私費と公費を混ぜない」

「そこは変わんないんだ」

「変える必要がない部分まで変えるな」

「その判断も、先に聞け」

 ティアは、一度だけ笑いそうになった。

 笑わず、公開停止票へ自分の名を書いた。

 匿名ではなく。

 ラナの背へ、遠い学院の会話はまだ届かない。

 届いたのは、乾燥実験の結果と、霧の中へ伸びる涙形の候補範囲だけだった。

「最終受領者は、会場内にいない」とハル。

「受信器が会場外」とセレナ。

「また訂正」

「人と器具を同じにしないでください」

「でも器具は持ち主のところへ」

「所有者のところとも限りません」とミラ。

「代理」

「貸与。盗難。設置。自動運用」

「候補増やすな」

「減らすのは証拠」

 ジルが窓を開けた。

 湿った風が入り、五枚の模造板へ触れる。

 乾いた印は変わらない。

 もう戻せない。

 遠くで雷が鳴った。

 ラナの四枚翼が、一枚ずつ角度を下げる。

 背市の屋根が折り畳まれ、露店の車輪へ止め具が掛かり、吊り看板が地面へ伏せられる。

 町が、鯨の身体へ近づいていく。

「潜航準備」とサーガ。

「涙形の先は」とカイル。

 エリアが路図を伸ばす。

 候補範囲は一つの場所を指していない。

 ラナと同じ速さで移動してきた何かの航路を指している。

「固定塔ではありません」

「船団?」

「少なくとも一隻。事件時からラナの後方六ないし九里を保ち、今は霧へ入った」

「見張られてた」とロロ。

「競売品を待っていた」とミラ。

「小艇は鯨の中」とハル。

「受信器は鯨の外」とセレナ。

「二つ追う」

「先に一つです」とサーガ。

 老鯨守は長杖を上げ、床へ三度打った。

 第一打で、窓の外の旗が下がる。

 第二打で、遠くの鐘が閉鎖音を返す。

 第三打で、ラナの背全体がゆっくり沈んだ。

「次の呼吸で、雷雲へ入る」

 霧の外へいる相手を追う前に。

 彼らは、生きた鯨の内側へ落ちた宝を追わなければならなかった。