第157話 第七章「雷雲潜航」前編

人間は、住む場所を止まっていると思いたがる。

 土地は動かない。

 城壁は逃げない。

 道は昨日と同じ場所にある。

 その思い込みがあるから、国境を線で引き、家を代々のものと呼び、墓へ「ここに眠る」と刻める。

 だが実際の土地は動く。

 大陸は沈み、川は曲がり、山は崩れ、都市は焼けた場所を避けて隣へ建ち直す。人間の一生より遅いだけで、地面も旅をしている。

 翼鯨の背に住む者は、その事実を毎朝、足裏で教えられた。

 そして雷雲潜航の日だけは、教え方が乱暴になる。

 最初に閉じたのは、屋根だった。

 市場の布屋根が骨組みごと伏せられ、通りを渡る看板が縄で地面へ結ばれ、煙突の横口へ銅蓋が下りる。

 次に閉じたのは、道である。

 弾力板の継ぎ目から白い安全索が立ち上がり、街路を二歩幅の区画へ分ける。住民は腰輪を索へ掛け、呼吸の上下に合わせて低い姿勢で歩く。車輪台の店は脇道へ固定され、売り物は網の下へ入った。

 最後に、空が閉じた。

 ラナの四枚翼が斜め上へ折れ、巨大な屋根のように背市を包んだ。

 朝の青が消える。

 代わりに、翼膜を透かした鉛色の雲が町全体へ降りた。

「潜航鐘、第一!」

 サーガの声が伝声管へ走る。

『全棟、外板閉鎖。火気停止。金属長物を伏せろ。初めての客は、知った顔をして立つな。知らないと叫べ』

「親切なのに言い方が怖い」とハル。

「叫べ」とエリア。

「俺?」

「初めてでしょう」

「知らない!」

 近くの住民が一斉に指を向けた。

「赤布、腰輪を二重!」

「靴紐が長い!」

「その鞄、胸へ回せ!」

「肩を使うな!」

「最後、誰だ!」

「私よ」とエリア。

 彼女はハルの配達鞄を前へ回し、赤いマフラーの端を短く結び直す。

「首が締まる」

「飛ばされるより軽傷」

「選択肢が強い」

「正確に言えば、あなたが今選べる中では」

「もっと怖くなった」

 エリア自身は右肩の短いケープを外し、腰へ巻いていた。濃紺の三つ編みは首の後ろへ固定。地図槍は伸ばさず、短い筆形のまま。

 カイルは深紅の半マントを畳み、盾籠手の留め具だけ確認する。

「王盾は使うな」とサーガ。

「まだ出してない」

「出す顔をしてる」

「顔に盾が?」

「王子の顔は、使う前から騒がしい」

「失礼だな。俺の顔は平時も騒がしい」

「自覚で減刑されるのは冗談だけです」とセレナ。

 ロロは安全索へ、自作の六輪台を噛ませていた。

 輪は金属ではなく、積層木と鯨守が落ちた皮片を加工した柔材。ラナの皮膚へ触れても擦れを作らない。

 台上には巻き取り機、空気袋、細い聴診索、折り畳み籠。

「何それ」とハル。

「まだ器具じゃない」

「見えてる」

「部品の集団」

「器具との違い」

「成功率」

「今いくつ」

「二十二」

「低い!」

「傷つけない条件を外せば六十八」

「外すな」とサーガ。

「だから二十二なんだよ!」

 ジルが巻き取り機の縄を噛んで引いた。

「太すぎる。内袋のひげへ絡む」

「細くすると切れる」

「二本に分けろ」

「荷重が」

「呼吸が同時に両方へ掛からない位置を取る」

「その位置が分かる?」

「分からなきゃ、錆声なんて悪口で三十年も呼ばれてねえ」

「褒めてる?」とハル。

「本人が悪口って言った」とロロ。

「船乗りは褒め言葉を錆びさせて使うのよ」とミラ。

「新品だと恥ずかしいからな」とジル。

 ミラは左の星晶義足へ防水帯を巻いている。

 自由港で入った細い亀裂はロロが塞いだ。外板は新しいが、接合部の皮膚はまだ赤い。右膝にも厚い布が一周していた。

「お前は中へ残れ」とジル。

「価格」

「命」

「高すぎる」

「払え」

「客員航路士の仕事」

「航路を教えろ。走るのは他で足りる」

「私の義足、走るより滑る」

「今は床が鯨だ。滑った先も鯨だ」

「近道」

「皮膚を切る近道は終了」とハル。

 ミラが彼を見る。

「覚えた?」

「サーガに言われた」

「借りた言葉」

「返すつもり」

「言葉の返却先は難しい」

「来歴を調べる?」

「今から」

 風鈴が一度だけ鳴った。

 潜航鐘、第二。

 ラナの背が前へ傾いた。

 山が頭を下げるような動きだった。

 町の全てが、一瞬だけ坂になる。

「腰!」

 安全索へ掛けた輪が一斉に鳴る。

 ハルは膝を曲げた。

 左肩を守り、右手で索を取る。

 前方の屋根が一枚、固定に遅れて持ち上がった。

「二番染物屋!」

 住民が叫ぶ。

 青い布屋根が帆になり、留め具ごと外れかける。その下には、避難が遅れた子供が二人。腰輪は付いているが、索が屋根骨へ絡んでいた。

 カイルが籠手を叩く。

「盾――」

「熱を出すな!」とサーガ。

 王盾炎は火ではない。

 しかし誓力を熱へ変える。ラナの感覚毛帯で広げれば、痛みと誤解される。

 カイルは叩いた拳を止めた。

「別案!」

「屋根の勢いを取る」とミラ。

「近い!」とジル。

「だから取れる!」

 ミラが滑る。

 義足の小帆を一枚だけ開く。青い風輪が右手へ集まり、持ち上がった屋根の進行方向から速度だけを抜いた。

 屋根が空中で止まる。

 止まったのは一瞬。

 盗んだ勢いはミラの身体へ溜まる。

「出口!」

 エリアが路図を足元へ描いた。

 直線ではない。屋根の力を鯨の皮膚へ返さず、既存の安全索へ分散する三角の道。

「右索へ!」

 ミラは盗んだ勢いを自分の義足帆から横へ吐く。

 身体が左へ流れ、屋根は右の索へ柔らかく当たった。

 ジルが結び縄を投げる。

 サーガの鯨守二人が受け、屋根骨を伏せる。

 ハルは子供の索を外した。

「怪我」

「ない!」と年上の子。

「怖かった?」

「知らない!」

 教わった通り叫んだ。

 周囲の大人が一斉に手を出す。

 子供はその中から、自分で母親の手を選んだ。

「いい町」とハル。

「失敗を隠さない町は、まだいい町だ」とサーガ。「屋根留めの名を記録しろ!」

「私です!」と染物屋の男が叫ぶ。「呼気前に二本確認、三本目を省いた!」

「理由!」

「客の布が絡んだ!」

「後で客と一緒に直せ! 今は避難!」

 命令は短い。

 理由は消さない。

 カイルは盾を出さなかった右手を見た。

「使わない方が難しいな」

「王子、成長料金」とミラ。

「払うのか」

「払わせる」

「誰に」

「国民」

「それは増税だ!」

「冗談を言えるなら肋骨は平気」とセレナ。

「診断が雑!」

 潜航鐘、第三。

 空が光った。

 翼膜の向こうで、雷が横に走る。

 音より先に、ラナの皮膚へ銀の線が浮かんだ。巨大な身体の表面へ、生まれつき通電の道がある。雷は背市を避け、四枚翼の縁から腹側へ流れる。

 ラナは雷雲を恐れていない。

 翼鯨の腹には、雲塩を食べる細い寄生虫が付く。

 放置すれば皮膚を裂き、幼い鯨なら飛べなくなる。雷雲へ潜り、低い電流を全身へ通すことで虫を落とす。それは鯨の入浴であり、治療であり、町にとっては年に数度の籠城だった。

「全員、耳を開けろ!」とジル。

「開いてる!」とハル。

「言葉じゃねえ。足で聞け!」

 彼女は床へ片膝をつく。

 右耳は高音を拾いにくい。代わりに手のひらと足裏で振動を読む。

 ドン。

 ラナの内側で、遠い扉が閉じる音。

「外鼻弁、半閉」

 ド、ドン。

「第一気嚢、圧縮」

 低く長い震え。

「次で大吸気。五拍後に背市が落ちる!」

「落ちる?」

「鯨が雲へ入る。町から見れば空が上がる!」

「同じじゃ」

「違う!」とエリア。

「今説明いる?」

「違うものは違う!」

「二人とも伏せろ!」

 五拍目。

 世界が一段、下へ抜けた。

 ラナが雷雲へ潜る。

 背市の建物は布帯で鯨へ抱き付く。

 人間は安全索で建物へ抱き付く。

 雨は上からではなく、前から来た。

 冷たい白が町を殴る。

 視界、三歩。

 呼吸すると雲を飲む。

 翼の向こうで雷が鳴るたび、道の縁が青く光る。

「噴気孔まで二百六十歩!」とエリア。

「直線?」

「現在路図!」

「動く?」

「全部動く!」

 彼女の地図筆から淡青の線が伸びる。

 ただし先まで描かない。今測れた安全索と、次の固定柱までだけ。

「路図、短い」とハル。

「先を決めない。ラナの動きを待つ」

「地図が待ってる」

「あなたも待って」

「走りながら?」

「その程度が限界でしょう」

 ハルは笑い、走った。

 安全索を一つ進む。

 固定柱で輪を掛け替える。

 次の索へ。

 急ぐほど手順を省きたくなる。

 手順を省くほど、鯨の背では空へ近づく。

 ロロの六輪台を、カイルとジルが引く。

 セレナは証羽を外套の内へ伏せ、時刻を声で記録する。

「潜航開始、十の鐘二分。小艇落下から四十八分。第一気嚢の推定位置、右噴気孔下十二間」

「羽根、濡れる?」とハル。

「濡れます」

「記録できない」

「私が覚えます」

「信用してる」

「その一言で証拠能力は上がりません」

「でも落とさない」

 セレナは何も返さない。

 外套の内で、証羽を守る左手だけ少し緩んだ。