第158話 第七章「雷雲潜航」後編
噴気孔の外縁は、建物十棟が並ぶほど大きかった。
普段は濃藍色の皮膚に閉じた二本の裂け目に見える。
今は潜航吸気のため、右側が半月形に開いていた。
縁には人間の柵がない。
柵を立てる杭を打てないからだ。
代わりに、離れた背びれ二か所から白い索を渡し、その間へ鯨守の吊り足場を下げる。
「現場権限」とサーガ。
彼女はカイルを見る。
「町を止める命令を出せるか」
「王命なら」
「出すか」
カイルは噴気孔を見る。
小艇が内側へある。
王獣鈴の欠片も、おそらくその箱にある。
王家由来と呼ばれる物。
町を止める――ラナの航路を強制変更し、雷雲から抜けさせれば、救出は楽になる。
ただし鯨の治療を中断し、寄生虫を残す。急旋回で背市へ別の危険も出る。
「選択肢を住民へ説明できるか」とカイル。
「今なら三分」
「三分で投票?」
「投票じゃない。鯨守、外板班、医療班が拒否権を持つ」
「俺は?」
「提案権」
「王子が提案だけ」
「嫌か」
「好きだ」
カイルは伝声管を取った。
『王太子カイル・アークレイより、背市へ。王家由来とされる品が右噴気孔内へ落下した。回収のため潜航を中断する案はある。ただしラナの治療を止め、急旋回の危険を増やす。俺は中断を命じない。鯨守、外板班、医療班の判断を聞く』
返事は速かった。
『鯨守、拒否』
『外板班、拒否。今から旋回すれば南市場が外れる』
『医療班、拒否。虫落とし未完』
カイルは管へ言う。
『受領。潜航継続。品より先に、町とラナを守る』
「王家の宝だぞ」とベルナが後ろで言った。
競売主も現場へ来ていた。十本の印環を布で包み、濡れないよう胸へ下げている。
「だから何だ」とカイル。
「失えば、王家から請求が」
「王家は俺だ」
「その言い方は独占に聞こえます」とセレナ。
「今だけ格好つけさせろ!」
「事実を訂正しただけです」
「王家の一人として」とカイルは言い直した。「品のために鯨を傷つける請求は出さない」
「記録しました」
「格好、半分戻った?」
「保留」とミラ。
噴気孔の縁へ、ロロが小さな木片を置いた。
木片には受領札の写し。
向かい側にはサディから借りた受信器。
「遠隔で権利物を受領する術〈リモート・ハンド〉。名前が大げさすぎる」
「手が伸びるのでは?」とハル。
「伸びない。見ろ」
ロロが受信器を右へ動かす。
木片の底に付けた小さな舵が右へ曲がる。
風を受け、木片がゆっくり右へ滑った。
「物が消えて出るんじゃない」とハル。
「受領順位のある札と、受信器の向きを結ぶだけ。船に舵がある。箱に車輪がある。鳥なら飛ぶ。動けない石なら何も起きない」
「遠隔で受け取る、じゃなく」
「遠隔で『こっちへ来い』を付ける」とエリア。
「命令だ」
「物へは選択権がない」とミラ。
「運ぶ人には?」
「今回、人が乗ってない」
「だから危険を聞く相手がいなかった」とセレナ。
小艇は瞬間移動していない。
保管台から消えたわけでもない。
受領札の向きへ舵を切り、霧の受信器へ飛ぼうとした。
その途中に、ラナの吸気があった。
「受信器が外にある限り」とロロ。「中へ落ちても舵は外を向く」
「小艇の位置が分かる?」
「舵が何かへ当たれば音が偏る」
ジルが細い聴診索を噴気孔へ垂らす。
先端は丸い空気袋。皮膚へ当たっても傷を付けない。
索が十間。
二十間。
雨と風の音の下に、かすかな金属音がある。
カン。
間。
カン、カン。
「右へ首振ってる」とジル。
「受信器は尾側」とエリア。
「一致」
「なら引き上げる!」
ハルが索へ手を伸ばす。
「これは聴く索だ」とロロ。「引く強度ない」
「次のを」
「まだ作ってる!」
噴気孔の奥で、空気が逆流した。
ジルの顔が変わる。
「伏せろ!」
全員が安全索へ沈む。
ラナの内側から、熱い息が噴き上がった。
完全な呼気ではない。外鼻弁を調整する短い咳。
聴診索が鞭のように跳ねる。
ハルは右手で掴んだ。
引かれる。
左肩が反射で前へ出る。
痛みが走る前に、彼は手を放した。
索は空へ舞う。
「ハル!」
「取らないで!」
エリアの声が先に来た。
「でも」
「肩」
「分かってる!」
索が霧へ飛ぶ。
このままなら失う。
ハルは一、二、と数えた。
三が出ない。
以前なら跳んでいた。
自分の身体を、最も安い縄として使っていた。
「エリア」
「何」
「手伝って」
短い言葉だった。
彼にとっては、噴気孔より深い。
エリアの顎が少し下がる。
「役割」
「俺を固定。右手だけ伸ばす。肩は使わせない」
「了解」
彼女は白い日傘を半展開する。
地図槍グリムリリーの柄を安全索へ横渡しし、ハルの腰帯を二点で固定。自分の踵を床へ鳴らし、路図を短く引く。
「三歩先まで。私が止める」
「届く」
「届かせる」
ハルは前へ出た。
右手を伸ばす。
聴診索の端が指先をかすめる。
「あと半歩!」
「肩を出さない!」
「腕短い!」
「今伸ばせないものを私の責任にしないで!」
カイルが後ろからハルの配達鞄を押す。
「半歩、貸す!」
「王子、雑!」
「返済不要!」
「ミラに怒られる!」
「今は取れ!」
ハルの右手が索を掴む。
エリアが即座に引き戻す。
カイルが腰帯を支える。
左肩は固定されたまま。
索が戻った。
「取った!」
「一人で取ってない」とエリア。
「分かってる」
「言って」
「取ってもらった」
「成立」とミラ。
風鈴が鳴った。
その音を、ラナの内側から別の音が打ち消した。
ゴン。
重い。
近い。
聴診索の先で、小艇が動いた。
「第一気嚢の底へ落ちた」とジル。
「まだ届く?」
「今なら」
サーガが長杖を皮膚へ押し当てる。
目を閉じたまま、首を振った。
「違う」
「何が」
「内鼻弁が開く」
「どこへ」
「次の袋だ」
ラナの身体が、雷を受けて震える。
外から青白い光が走り、噴気孔の奥が一瞬だけ照らされた。
巨大な空洞。
柔らかなひだ。
その底で、折れた白い小艇が見えた。
舵は、なお尾側を向いている。
銀の手形が明滅する。
「止めろ!」とロロ。
誰に向けた命令でもなかった。
内鼻弁が開いた。
第一気嚢の底が割れるように、暗い通路が現れる。
小艇は一度、縁へ引っ掛かった。
箱の固定帯が軋む。
次の瞬間、雷雲潜航で生まれた圧力差が、艇を奥へ引いた。
白い船尾が消える。
聴診索が一気に引かれ、先端の空気袋が裂けた。
「切れ!」とジル。
ロロが刃を入れる。
索を失う。
噴気孔の奥で、遠い金属音が三度した。
第一気嚢ではない。
人間がまだ足場を作ったことのない、内側の呼吸路。
「小艇が」とハル。
サーガが答えた。
「内吹路へ落ちた」
雷が鳴る。
ラナは治療のため、さらに深い雲へ潜った。
そして彼らの宝もまた、鯨の呼吸の、さらに内側へ落ちていった。