第159話 第八章「噴気孔の小艇」前編
発明の歴史は、できることを増やした歴史として語られやすい。
遠くへ飛べる。
重い物を運べる。
深い穴を掘れる。
速く殺せる。
しかし文明を長く支えた道具の多くは、できないことを決めるために作られた。
鍋の取っ手は火へ触れない。
戸の蝶番は開きすぎない。
子供の薬瓶は簡単には開かない。
橋の欄干は、人が空へ踏み出せない高さに置かれる。
壊さずに使う。
傷つけずに届く。
持つ力より、止める形を作る。
修理工ロロ・ピクスにとって、それは発明より難しかった。
彼は壊れた物を見ると、動かしたくなる。
動かすためなら、削り、切り、穴を開ける。
今回は、その三つを禁じられた。
「刺せば取れる」
「刺すな」とサーガ。
「分かってる。可能性の説明」
「口にした可能性は、急ぐと手へ出る」
「じゃあ言わずに考えろって?」
「考えたものを全部使うなと言ってる」
「一番嫌いな注文!」
ロロの四本の補助腕が、本人より先に頭を抱えた。
雷雲潜航中の背市。
右噴気孔から二十歩離れた鯨守作業棟で、床いっぱいに部品が広げられている。
柔材輪、帆布、空気袋、巻き取り軸、逆止弁、古い魚籠、細い縄、太い縄、縄と呼ぶには心許ない糸、糸と呼ぶには高価すぎる銀索。
机の中央には、ロロが最初に描いた案があった。
先端へ三本の爪。
小艇へ食い込ませ、巻き上げる。
速い。
確実。
内吹路の柔らかな壁へ刺さる可能性が高い。
サーガが紙を裏返す。
「終了」とミラ。
「お前が言うな!」
「終了は、次を始めるためにある」
「格好いい言い方で捨てるな! その爪、三時間掛かった!」
「三時間前、ここに来てない」とハル。
「設計時間を体感で請求した!」
「市場に染まってる」
ロロは二枚目を出す。
膨らむ輪を小艇へ被せる案。
「投げる。箱の周りで膨らむ。柔らかい。引く」
「内袋のひげに絡む」とジル。
「短くする」
「小艇の折れた翼へ届かない」
「長くする」
「絡む」
「どっちだよ!」
「どっちも駄目だ」
「役立たず一航士!」
「褒めるな」
「褒めてない!」
ロロは三枚目を出す。
小さな人型器具を歩かせる案。
「吸盤で壁を」
「吸うな」とサーガ。
「触るだけ」
「ラナは雷を浴びて皮膚が敏感だ。人間なら目の裏へ吸盤を付けるようなものだ」
ハルが自分の目を押さえた。
「想像させるな」
「理解したなら良い」
ロロは三枚目も裏返した。
紙が三枚、失敗側へ積まれる。
「できない条件、多すぎる」
「生き物だから」とエリア。
「船なら穴を開けて塞げる」
「人にも穴は開けないでしょう」
「手術は」
「本人のためで、同意と必要がある」
「鯨に聞けない」
「だから減らす」
「聞けない相手には何もするなってこと?」
「何もしなければ、小艇が内側を傷つける」とハル。
「どっちでも傷つく」
「傷の少ない方」
「測れない」
「測るのがお前だろ」
ロロの補助腕が止まる。
褒められた時ほど、彼は疑う。
天才。
便利。
何でも直せる。
そういう言葉は、できなかった時に一番先に剥がれる。
「俺が分からなかったら」とロロ。
「一緒に分からない」とハル。
「役に立たないぞ」
「器具が?」
「俺が」
「今、誰に話してる」
「お前」
「じゃあ器具じゃなく、ロロに頼んでる」
「言葉だけで負荷は減らない」
「何を持てばいい」
ロロは返事をしなかった。
代わりに、失敗案をもう一度表へ返した。
三枚とも、使えない部分がある。
使える部分もある。
爪は駄目。
投げ輪は絡む。
歩行器は触れすぎる。
「歩かせない」と彼は言った。
「何を」とエリア。
「呼吸に運ばせる」
「受領小艇と同じ?」とハル。
「違う。向きを命令しない。上がる息に乗るだけ」
ロロは空気袋を取った。
「小艇を引かない。下から受ける」
「籠」とジル。
「柔らかい籠。二本の輪。触るのは小艇だけ。壁へ当たりそうなら潰れる」
「上げる力は」
「次の呼気」
「強すぎる」
「穴を開けて逃がす」
「その穴は」とサーガ。
「器具に!」
「先に言え」
「言ってる途中!」
ロロは帆布へ円を描いた。
大きな袋ではない。
二本の楕円輪を柔布でつなぎ、底へ小さな空気室を複数付ける。呼気を受ければ浮く。圧が強すぎれば、逆止弁が開いて横へ逃がす。壁へ接近すれば外輪が折れ、内輪だけで小艇を支える。
「呼吸の揺り籠」とハル。
「勝手に名付けるな」
「じゃあ何」
「回収用多孔式柔輪二重――」
「呼吸の揺り籠」
「料金取るぞ!」
「名前代?」
「短縮被害!」
ジルが図へ指を置く。
「二本の引き索は同じ長さにするな」
「傾く」
「内吹路も傾いてる。ラナが左へ翼を下げる時、右索を六寸長く」
「呼吸周期は」
「今から三回、小咳。一回、保息。次に大呼気」
「確率」
「六割」
「低い」
「鯨の身体は契約書じゃねえ。毎回同じなら死んでる」
「違うから生きてる」とハル。
「今いいこと言った顔すんな」とロロ。
「言ってない」
「顔が請求してる」
材料が足りなかった。
柔材輪を二本作るには、鯨守が保管する自然脱落皮が半分しかない。
同じ柔らかさの物は、町の雨除け帆に使われている。
「市場南列の帆を外す」とベルナ。
「競売中止?」
「雷雲中は休場です」
「終わった後は」とミラ。
「修理費を請求します」
「誰へ」
「調査権者」
「保留」
「成立済みです」
「私の同意が」
「調査規約第十二条、現場保全に必要な資材」
「小さい字?」
「標準です」
「市場、嫌い」
「好きでしょ」とハル。
「嫌いなものへ値段を付けるのが仕事」
ミラは自分の左義足から、小さな予備帆を外した。
「これも使う」
「駄目」とロロ。
「理由」
「裂けてる」
「直せる」
「接合部の急減速用だ。なくしたら霧で止まれない」
「今、噴気孔」
「あとで霧」
「未来の修理工?」
「未来の請求先を守る」
「親切、いくら」
「通常整備」
「安い」
「お前の身体を壊さない値段は高く取れない」
「何で」
「壊れた方が修理代増えるから」
ミラが笑った。
三回。
「成立」
彼女は予備帆を戻した。
代わりに、左右で丈の違う赤茶コートの長い側を切った。
「それはいい?」
「服は止まるのに使わない」
「寒い」
「請求」
「誰へ」
「宝の最終受領者」
「会えたらな」とジル。
エリアは路図用の銀糸を一本出した。
「引き索の中心へ」
「高いぞ」とロロ。
「知っています」
「切れる」
「切れた位置が光で残る。内部でどこまで届いたか測れる」
「証拠用?」とセレナ。
「救難用。結果が証拠にもなる」
「順序を記録します」
カイルは盾籠手を外した。
「これは」
「使わない」とロロ。
「まだ何も」
「金属。熱。重い。駄目」
「王家の盾が三語で不採用」
「今日は王家の宝も箱入りだ」
「景気が悪いな」
「じゃあ力仕事」とハル。
「王子の役割、急に庶民」
「王族の筋肉も税金で育ってる。返す」
「その理屈、国で言うな」とエリア。
作業時間、十四分。
ロロは四本の補助腕へ別々の仕事をさせた。
右上腕が柔材輪を曲げる。
左上腕が穴を開ける。
右下腕が弁を縫う。
左下腕が長さ札を結ぶ。
本人の両手は、一番細い銀糸を帆布の縁へ通す。
早い。
速すぎる。
呼吸が浅くなる。
「吸入管」とエリア。
「要らない」
「声が」
「普通」
「専門語が減った」とジル。
ロロの手が止まりかける。
「何で分かる」
「嘘の時、お前は難しい言葉を言わねえ」
「今、忙しい」
「それも短い」
「あと二分」
「肺は時計を読まない」とセレナ。
「吸入管使うと手が」
「私が縫う」とエリア。
「間隔、二分の一寸」
「見えています」
「糸を引きすぎるな」
「あなたより裁縫は上手です」
「地図屋が?」
「公爵令嬢には刺繍教育があります」
「役に立つ日あるんだ」
「今の発言を母校へ送ります」
「やめろ!」
咳。
一回。
続いて二回。
ロロの補助腕が全部、上を向いた。
ハルが吸入管を差し出す。
「ロロ」
工具名ではない。
料金でもない。
ロロは受け取った。
吸う。
苦い薬霧が肺へ入る。
「五十秒」とセレナ。
「何が」
「薬が効くまで」
「数えるな」
「数えます」
「三十で動く」
「五十」
「四十」
「四十五」
「成立」とミラ。
「お前が決めるな」
「言葉、戻った」とジル。
ロロは四十五秒待った。
待つ時間は、作業していない時間ではない。
壊さず続けるための部品だった。
呼吸の揺り籠は、格好が悪かった。
左右の輪は色が違う。
帆布は継ぎはぎ。
ミラの赤茶コート、競売院の白帆、鯨守の青い柔皮、エリアの銀糸。
「映像化しにくい」とハル。
「何の話だ」
「気分」
「格好いい武器じゃない」とカイル。
「武器にするな!」
器具は人を乗せない設計だった。
しかし内吹路の入口で、折れた小艇が柔輪へ入る保証はない。先端の向きを調整する者が必要になる。
「俺が行く」とロロ。
「駄目」とエリア。
「作ったの俺」
「喘息直後」
「だから空気袋を付ける」
「年齢」とカイル。
「十四」
「未成年」
「ハル十五」
「一歳で盾にするな!」
「俺が行く」とハル。
「方向音痴」とロロ。
「一本道だろ」
「鯨の肺で迷う奴を、俺は見たくない」
「見たことある?」
「未来予測」
「じゃあ二人」とジル。
全員が彼女を見る。
「揺り籠の外に小さい調整座を付ける。ロロが輪を見る。赤布がロロを見る。私は外で息を数える」
「誰が許可」とサーガ。
「お前」
「嫌だ」
「代案」
「私が行く」
「ラナの身体を読む者が外から消える」
「若いのを」
「内吹路へ入った経験は」
「ない」
「じゃあ同じだ」
「同じじゃない。鯨守は戻り方を知ってる」
「器具はロロしか知らない」
サーガの長杖が床を一度叩く。
決める音ではない。
決められないことを、周囲へ知らせる音だった。
ハルが言う。
「戻る条件を先に決める」
「何」とサーガ。
「呼気が予測より二拍早い。銀糸が二本切れる。ロロの呼吸が三回乱れる。小艇が壁へ当たり続ける。どれかで箱を置いて戻る」
「宝を置く?」とベルナ。
「置く」とカイル。
「王家の」
「町と二人より安い」
「値段を付けた」とミラ。
「今だけ借りた」
「使用料」
「後で肉」
「成立」
サーガはロロへ近づいた。
「自分で戻れと言えるか」
「言える」
「道具を捨てられるか」
ロロは答えなかった。
そこが一番難しい。
壊れた機械を捨てられない。
役に立つかもしれない部品を残せない。
自分が作ったものが失敗した時、最後まで抱えて沈みたくなる。
「捨てる」と彼は言った。
「誰の命令で」
「俺の判断で」
サーガはハルを見る。
「止められるか」
「ロロを?」
「自分を」
ハルは左肩へ目をやる。
「手伝ってって言う」
「遅い時は」
「言われる」
エリアが答えた。
「私が止めます」
「本人へ聞いたか」
「今、聞きます。ハル」
「頼む」
サーガは長杖を上げた。
「許可する。ラナの内側を道だと思うな。道は人が通るためにある。あれは息だ。借りるだけにしろ」