第160話 第八章「噴気孔の小艇」後編
噴気孔の内側は、暗くなかった。
雷がラナの翼を走るたび、薄い青光が皮膚の下へ流れる。
内吹路の壁には半透明のひだが重なり、血管より太い光筋がゆっくり明滅していた。空気は温かく、塩と雨と甘い樹脂の匂いがする。
「すごい」とハル。
「観光料金取るぞ」とロロ。
「誰が」
「ラナ」
「署名しない」
「じゃあ帰りに寄生苔取る」
二人は呼吸の揺り籠の外側、小さな調整座へ腹ばいで乗っていた。
身体は安全帯で二点固定。足は内側。手は輪の縁。
器具そのものは、噴気孔から下ろされた二本の索に吊られている。
壁へは触れない。
『小咳、一回目まで十二拍』
ジルの低い声が、結び縄を通した骨伝声で届く。
『右索、半寸緩め』
「半寸!」とロロ。
外でカイルたちが巻き取りを調整する。
揺り籠が左へ傾く。
「右って言った!」とハル。
「右を緩めたら左が下がる!」
「地図と同じで分かりにくい!」
『聞こえています』とエリア。
「褒めた!」
『訂正を要求します』
「帰ってから!」
最初の小咳。
内吹路を風が逆向きに走る。
揺り籠の底袋が膨らみ、二人の身体が一間持ち上がった。
壁のひだが開く。
その奥に、小艇があった。
白い艇体は片翼を失い、もう片方が柔らかな濾過櫛へ引っ掛かっている。骨白の箱は固定帯の中。帯の一つが外れ、箱が斜めになっていた。
「見つけた!」
『位置』とセレナ。
「外鼻弁から三十一間、右内壁から四間、下側の櫛に船首!」
『見た人物』
「俺とハル!」
「ノクスも!」
ハルの胸元から、黒い頭が出る。
「何でいる!」
「勝手に入った!」
「戻せ!」
「今?」
ノクスは二本尾を別々の方向へ伸ばし、くしゃみをした。
「ナァ!」
樹脂臭が内吹路全体へ広がっている。
契約板、受領札、小艇の防水塗料、箱の封印。
破約の匂いを追う鼻も、ここでは香料店へ落ちた犬と同じだった。
「どっち」とハル。
右尾は箱。
左尾は小艇の舵。
「意見が割れてる」
「樹脂の年代が違う」とロロ。「箱は古い。舵は新しい。犯人の方角じゃない」
ノクスが彼のゴーグルを噛んだ。
「何で俺!」
「道具扱いしたから」とハル。
「本人に聞け!」
「ノクス、何で?」
「ナァ」
「分からない!」
「成立」とミラの声が外から聞こえた。
「何が!」
『意思確認を試みた事実』とセレナ。
「法官まで!」
小艇へ近づく。
引っ掛かった翼が、呼吸のたび濾過櫛を擦っている。
櫛は骨ではない。柔らかな筋の束で、空気中の氷粒や虫を弾く。擦れた場所が赤くなっていた。
「先に翼を外す」とロロ。
『箱ではなく?』とベルナ。
「今傷つけてるのは翼」
『小艇は証拠です』とセレナ。
「切る位置を記録して」
『あなたが見たまま説明を』
「右残翼、付け根から二寸。折損は外側衝突。今から既存亀裂を広げて分離。新しい切断は最小」
『採用』
ロロは刃を出した。
刃先へ布を巻き、金属が壁へ触れないようにする。
「ハル、艇を押さえろ。右手だけ」
「了解」
「肩、痛み」
「一」
「一は信用しない」
「二」
「正直になった」
「値上げ方式やめろ」
ハルが小艇の船尾を支える。
ロロは翼の亀裂へ刃を入れる。
ぎ、と金属が鳴る。
小艇の舵が動いた。
外へ。
尾側へ。
「受信方向、まだ生きてる」
「電源は」とハル。
「契約札そのもの。L・Oの受領順位は停止してるはずなのに」
「術は?」
「一度命令された舵が、最後の向きを保持してる。賢くない」
「命令だけ残った」
「そう」
ロロは舵の基部を見る。
外部から細かな命令を受ける通信輪はない。
あるのは受領札と、向きを比べる二枚の薄板だけ。
片方が小艇の現在位置。
片方が受信器の痕。
差があれば舵が曲がる。
「単純機構」と彼は言った。
『外部命令ではない?』とセレナ。
「継続命令なし。受信器が動けば、それに合わせて向きだけ変える。止まれも、鯨を避けろもない」
『輸送危険の設計責任に関係します。外す前に写しを』
「濡れてるぞ」
『位置を測ってください』
「角度、艇中心から尾側へ百七十三度。黒い括弧痕、右下が短い」
ハルが見る。
舵の薄板に、同じ印が焼けている。
左右から閉じる黒い二線。
中央は空白。
右下だけ、途中で切れたように短い。
「L・Oの印」とハル。
「受信器の傷」とロロ。「同じ印環を何度も付け外しした。右下だけ摩耗してる」
『受領痕として記録』
小艇の残翼が外れた。
濾過櫛が戻る。
赤い擦れはあるが、裂けていない。
「一個、傷を止めた」とハル。
「まだ回収してない」
「止めたのは事実」
「褒めると手が遅くなる」
「速くしてほしい?」
「正確にしろ」
「エリアみたい」
『聞こえています』
「鯨の中まで!」
二回目の小咳。
呼吸の揺り籠が膨らむ。
ロロとハルは小艇の下へ二本の柔輪を通す。
簡単ではない。
輪は壁へ触れないため、自分から形を保てない。風を受ければ開き、止まれば垂れる。小艇の船首が重く、箱が斜め。右輪だけ先に入れば艇が回り、別の櫛へ当たる。
「同時に」とロロ。
「手、二本しかない」
「俺は六本」
「ずるい」
「貧乏人の身体拡張をずるいって言うな!」
「装備が多いって意味!」
「言葉を先に正確にしろ!」
補助腕二本が左輪。
二本が右輪。
本人の左手が弁。
右手が艇の傾き。
ハルは箱を支える。
ノクスは何も支えず、箱の上へ乗った。
「重い!」
「四・八キロ」とロロ。
「降ろして!」
ノクスが耳を伏せる。
「傷ついた顔するな!」
だが、ノクスの重みで箱が水平へ戻った。
右輪が通る。
「そのまま!」
「ノゥ」
「今は役に立った!」
ノクスの尾が得意そうに上がった。
両輪が小艇を抱く。
『小咳、終わり! 保息へ入る!』
ジルの声。
「巻け!」
外で巻き取り軸が回る。
小艇が一尺上がる。
止まる。
「左索が重い」とカイル。
「箱が寄ってる!」とハル。
「違う」とロロ。「内吹路が右へ傾いた!」
ラナが翼角を変えた。
外の地図が動く。
『現在傾斜、右下六度!』とエリア。
「右索を」
『緩めれば壁へ寄る』とジル。
「左を巻けば箱が落ちる!」
二本の張力が違いすぎる。
柔輪が歪み、小艇の船尾が壁へ近づく。
ジルの声が低くなる。
『一度だけ揃える』
「何を」
『二点の張力』
外で結び縄が鳴った。
ジル・カスクの誓星術。
二点の張力を一度だけ均等にする結索〈イーブン・ライン〉。
左と右。
違う長さ。
違う角度。
違う負荷。
それでも一呼吸だけ、二本の索が同じ力を受けた。
柔輪が水平になる。
「今!」
外の巻き取り機が回る。
小艇が三間上がった。
術が切れる。
ジルの咳が伝声索を震わせる。
『次はねえ』
「十分!」とロロ。
だが十分ではなかった。
ラナの内側で、長い震えが始まる。
大呼気の前触れ。
『予測より二拍早い!』
戻る条件の一つ。
ハルがロロを見る。
「撤退」
「あと四間」
「二拍早い」
「取れる!」
「条件」
「俺が決めた!」
「だから守れ!」
ロロの補助腕が、揺り籠へしがみつく。
この器具を捨てたくない。
小艇を置きたくない。
自分が設計したものが、届かなかったという音を聞きたくない。
大呼気が始まれば、揺り籠は空気を受けすぎる。
弁が開いても足りないかもしれない。
壁へ叩かれれば、ラナも二人も傷つく。
「ロロ」
ハルが名を呼ぶ。
「器具を切る」
「何でお前が」
「手伝う」
「俺のだ」
「だから決めろ」
ロロは刃を持った。
切るのは、小艇ではない。
自分の揺り籠の外輪。
外輪を残せば大呼気を受けすぎる。
切れば内輪だけが小艇を抱き、二人の調整座は外へ引き上げられる。小艇は次の呼気に乗せ、無人で上げられる可能性がある。
自分たちは戻る。
道具の半分を、鯨の内側へ残す。
「修理代」とロロ。
「誰に」
「全員」
「成立」
刃を入れた。
二本の外輪が外れる。
布が風を逃がす。
調整座だけが索へ引かれる。
「ノクス!」
黒い獣は箱から跳び、ハルの胸へ飛び込んだ。
大呼気。
世界が下から吹き上がる。
内吹路のひだが一斉に開き、青白い光が流れ、雨と塩と雷虫の死骸が空へ走る。
ハルとロロの身体が噴気孔へ向かって上がる。
小艇は、切り離した内輪の中で一度沈んだ。
「上がれ!」
ロロの叫びは風へ消える。
揺り籠の底袋が膨らんだ。
小艇が持ち上がる。
壁へ触れない。
濾過櫛を越える。
折れた船首を先にし、呼気の中心へ乗る。
人が引いたのではない。
ラナが吐いた息が運ぶ。
調整座が噴気孔の外へ飛び出す。
直後、白い小艇が、その下から空へ押し出された。
「受けろ!」
カイル、ミラ、鯨守たちが待っていた。
カイルは王盾を出さない。
四人で柔布を張る。
小艇が布へ落ちる。
重い音。
骨白の箱は固定帯の中。
噴気孔が閉じた。
呼吸の揺り籠の外輪だけが、ラナの内側へ残った。
「取った」とハル。
「取ってもらった」とエリア。
「息に」とハル。
「そう」
ロロは床へ仰向けになった。
補助腕も全部、広がる。
「俺の輪、二本」
「後で自然に出る」とサーガ。「柔皮と布だけなら、次の二呼吸で外へ流れる」
「回収できる?」
「町の北網で拾う」
「捨ててない?」
「戻ってくるかもしれない」
「かもしれない」
「待てるか」
ロロは息を整えた。
「二呼吸まで」
「契約か」
「保留」
小艇の舵を、鯨守作業棟の床へ置いた。
箱は開けない。
封印も切らない。
まず受領機構を調べる。
ロロは濡れた板を乾いた布で押さえた。擦らない。表面の水だけ取る。
「受信器を動かす」とセレナ。
サディの正規受信器を、東へ。
舵は動かない。
西へ。
動かない。
「停止契約だから?」とハル。
「違う」とロロ。「この舵は、最後に登録されたL・O受信器だけを見る」
「今も」
「痕が残ってる限り」
小艇をゆっくり回転台へ載せる。
舵は必ず、同じ絶対方向へ戻った。
ラナの尾側。
霧の向こう。
エリアが地図筆を当てる。
「角度を線へします」
「現在のラナの向き、北東七度」とジル。
「小艇の舵、相対百七十三度。絶対方位、南西百六十六度」
「偽物目録の伝羽は」とセレナ。
「事件時の航路へ戻して換算」
青い線が空中へ伸びる。
一つは、九の鐘二十五分に契約が発効した位置から。
一つは、偽物目録へ反応した伝羽の往復時間から。
一つは、今も残る舵の向きから。
三本は、同じ点では交わらない。
相手も動いているからだ。
代わりに、同じ細い航路帯へ重なった。
ラナの後方を保ち、霧の中を並走する航路。
「包囲してるんじゃない」とハル。
「追尾」とエリア。
「待ち伏せでもない」とミラ。「ずっと横にいた」
「見えなかった」とカイル。
「霧がなかった時も?」
ジルが窓の外を見る。
雷雲の縁から、白い霧が背市を包み始めている。
「見える船なら、誰かが覚えてる」
「見て、船だと思わなかった?」とハル。
「雲影。漂流材。古い帆の列」
「何隻」
「まだ分からねえ」
ノクスが舵板を嗅ぐ。
くしゃみ。
二本尾が、同じ方向へ揃った。
「匂い?」
「樹脂」とロロ。「受信器の黒樹脂。霧の方からも来てる」
「決定打?」とハル。
「違う。風上の確認」
ノクスが不満そうに舵板を叩く。
「本人も分かってる」とハル。
「翻訳の証拠は」とセレナ。
「顔」
「採用しません」
小艇の舵は、さらに一度、霧へ向きを修正した。
受信器が動いたのだ。
会場外。
雷雲の向こう。
白い霧の、そのまた外へ。
ロロは濡れた指で、舵が指す線をなぞった。
「逃げてる」
「違う」とミラ。
彼女の灰緑の目が細くなる。
「私たちが箱を出すのを、見てから動いた」
霧は背市を包囲するように広がっていた。
しかし受信方向は、その霧の内側ではない。
もっと外。
見えない航路を、同じ間隔で進む何かへ向かっていた。