第162話 第九章「権利が渡った七分」後編
ミラの偽物目録を、もう一度並べた。
北受領台。
南受領台。
塩霧洗浄。
金属器具禁止。
到着一刻前倒し。
七音試験を無音振動へ変更。
反応したのは六枚目だけ。
「どうしてこれ」とハル。
「最終受領者が、箱の開け方を知ってた?」
「開封ではない」とユラ。
老女が骨白の箱へ近づく。
「七つの名を聞かせる。箱は音へ反応しない。受け取る者が聞く」
「機械試験じゃない?」
「人の試験だ」
「じゃあ無音へ変わっても、箱は困らない」
「受け取る者は困る」とミラ。
「何で」
「七つの名を聞かずに済むよう、遠隔受領を選んだなら」
会場が静かになる。
ユラの指が、箱の溝をなぞる。
「最初に受け取る者へ、七つの名を伝える。それが売却条件だった」
「第五契約に残ってる?」とハル。
セレナが契約板を確認する。
「原文では『原保管者の来歴説明を受領前に聴取』」
「第五は」
「『必要な確認を代替手段で実施可』」
「短くなった」
「第三で圧縮され、第四で代替可となり、第五では『受領試験済みとみなす』」
「七つの名が消えた」とカイル。
「字は残ってる」とミラ。「意味が減った」
「親文字とルビみたい」とハル。
「何の話」とエリア。
「気分」
偽物目録は「七音」を「無音振動」へ変えると告げた。
七つの名を機械的な音試験へ置き換えた者にとって、その変更は自分の受領手順を狂わせる。
だから確認した。
だから受信塔へ返答した。
「罠に反応したのは、箱の材質を心配した人ではない」とセレナ。
「七つの名を、ただの試験音へ変えた人」とハル。
「または、その変更を知る代理人」
「代理、便利すぎ」
「便利だから存在します」
ミラは六枚目の目録を折る。
「私、盗品の来歴は気にしないって言ってた」
「言ってた」とジル。
「売る相手が払う。奪う相手が強い。そこだけ見る」
「弱い者から奪わない掟」とハル。
「相手が弱いか知るには、今の顔を見ればいいと思ってた」
「違った?」
「箱は喋らない。持ってる人が金持ちでも、その前で誰かから取られてるかもしれない」
「王家の物って言えば、もっと前が消える」とカイル。
「だから来歴」
「全部?」とハル。
「全部は無理」
「じゃあどこまで」
「少なくとも、誰かが『聞け』って条件にした場所までは」
ユラがミラを見る。
「聞くのか」
「仕事として」
「値段は」
ミラは風鈴を握った。
「後で決める」
無償とは言わない。
だが先に金額を置かなかった。
ジルが咳のように笑った。
候補船《グレイ・リターン》の位置を求める。
エリアは円形会場の床へ、三層の路図を描いた。
第一層。
九の鐘二十五分、ラナの航路。
第二層。
受信塔と外部受信器を往復した伝羽の飛行時間。
第三層。
回収小艇の舵が現在指す絶対方位。
「船が事件時から同じ速度で航行していたと仮定」とエリア。
「仮定の根拠」とセレナ。
「受信器方向が、ラナの旋回後も相対角を大きく変えなかった。固定点なら角度が変わる」
「速度」
「ラナより一刻に一里遅い。後方距離を保つため、旋回内側で短い航路を取った」
「見えた船は」とジル。
彼女は背市の見張り日誌を開く。
「九の鐘前。尾側に『長い雲影』。十の鐘、雷雲縁に『帆に似た白線』。どっちも船として記録なし」
「同じもの?」
「形だけなら」
「断定しない」とハル。
「成長したな」
「褒めた?」
「錆びてないから違う」
ロロは小艇の受領板へ、弱い確認火を入れた。
「受信器が返事すれば、舵の角度だけじゃなく距離差が出る」
「相手に気づかれる」とセレナ。
「もう偽物目録で気づいてる」
「こちらが位置を得ることも」
「分かる」
「罠?」とハル。
「呼び鈴」とミラ。「押せば、向こうも扉の前に誰かいると知る」
「押す?」
「その前に作戦」
カイルが右籠手を左拳で二度叩いた。
「一。ラナを止めない」
サーガが頷く。
「二。鯨の皮膚へ杭、刃、熱を使わない」
「三」とエリア。「体表路は測れた範囲だけ描く。霧で見えない先へ固定線を出さない」
「四」とロロ。「小艇は受信方向を読むため使う。箱は固定。舵へ追加命令なし」
「五」とセレナ。「レム・オルデンを容疑者と断定しない。受信器、契約履歴、来歴説明の原本を保全する」
「六」とミラ。「船を沈めない」
「相手が撃っても?」とカイル。
「沈めたら紙も人も落ちる」
「人がいると決まってない」
「いないと決めない」
「七」とジル。「戻る時間。雷雲外縁の横風が変わるまで二十六分。過ぎたら追わない」
「逃げられる」とハル。
「生きて次に追え」
「八」とエリア。「ハルは単独で飛ばない」
「個人規則!」
「過去の統計に基づく」
「何回」
「数えたくありません」
「九」とハル。
全員が彼を見る。
「分からないことが増えたら、止まって言う」
「誰が」とセレナ。
「全員」
「あなたも」
「俺も」
ミラが指を鳴らす。
「成立」
「十」とユラ。
老女の声は小さいが、全員が聞いた。
「箱を受け取る者は、七つの名を聞く」
「今から?」とハル。
「受け取る前に」
「俺たちは回収した」
「回収と受領は違うと、あんたたちが教えた」
セレナが僅かに顎を引く。
「正確です」
カイルがユラへ向き直った。
「聞く。だが今、所有を主張しない」
「王子として?」
「保管責任を引き受ける候補として」
「候補」
「法廷が決めるまで」
「なら、まだ名は言わない」
「なぜ」
「箱を開ける場所で言う」
「条件?」
「私の選択」
「受領」とセレナ。
小艇の確認火を入れた。
淡い銀の手形が舵板へ浮かぶ。
一秒。
二秒。
三秒。
外の霧は白い。
雷雲の残光で、時折内部が青くなる。
舵が動いた。
南西へ一度。
わずかに上。
「返答」とロロ。
エリアの路図へ角度が入る。
「距離、推定四・八里」
「近い」とハル。
「近づいた」とジル。
「向こうから?」
「受け取りに来た」
会場外で警報鐘が鳴った。
尾側見張り台。
『霧中、灯火一! 船影らしきもの!』
「らしき」とセレナ。
『帆なし。甲板人影なし。旧式船体!』
「人影なしは、いない証拠じゃない」とハル。
「採用」とセレナ。
全員が外へ走る。
背市の尾側。
ラナの巨大な背びれの向こう。
霧の中で、一つの灯が点いた。
赤でも青でもない。
契約確認に使う、冷たい白。
次の雷が雲を照らす。
船が見えた。
細長い旧式艦。
雲灰色の船腹。
畳まれた白帆。
王立契送部の古い冠印は、半分削られている。
甲板に、人の姿はない。
船首の受信器だけが、左右から閉じる黒い括弧の形に光った。
右下の線が、短い。
「《グレイ・リターン》」とベルナ。
呼び鈴へ、返事が来た。
無人に見える古い船は、ラナの後方四・八里で、王獣鈴の欠片を受け取る手だけを開いていた。