第163話 第十章「鯨を傷つけない追跡」前編
追跡という言葉は、逃げる者と追う者の二人だけを想像させる。
だが街中の追跡には、道を渡る老人がいる。
空戦には、その下で暮らす町がある。
森を走れば木を踏み、海を渡れば魚を散らす。
最短距離とは、追う者にとって短い道でしかない。
その道を地面として生きる者にとっては、傷かもしれない。
英雄譚は、近道を好む。
歴史は、近道の下敷きになった者を数え忘れる。
だからカンティレーナの鯨守は、追跡を始める前に一つだけ問うた。
何を捕まえるか、ではない。
何を踏まないか。
最初の砲声は、霧の中で鳴らなかった。
光が先に来た。
《グレイ・リターン》の右舷が白く開き、圧縮された風の塊が背市へ走る。弾丸ではない。旧王立契送艦が雲氷を割り、郵便航路を開くための風圧砲。
人を殺すために作られていない。
人へ向ければ、十分に殺せる。
「伏せろ!」
カイルの声。
保管台の周りにいた人々が床へ落ちる。
風圧弾は骨白の箱ではなく、小艇の左固定具へ当たった。
金属が歪む。
安全枠が一つ外れる。
小艇の舵板へ、銀の手形が強く浮かんだ。
「受信器が呼んでる!」とロロ。
「停止中じゃ」とハル。
「契約は止まってる! でも舵は最後の向きを覚えたまま! 固定具が外れた!」
白い小艇が保管台を滑る。
折れた翼は一枚。
飛べる形ではない。
それでも受領板が、残った操舵翼へ「向こう」を与える。
ラナの背を走る風が、小艇の底へ入る。
「止めろ!」
ハルが前へ出る。
ミラが横から肩を取った。
「触るな」
「箱が!」
「今止めたら舵板が割れる」
「証拠より箱」
「箱より誰が命令したか」
「箱が鯨から落ちる!」
「だから選ぶ」
ミラは風鈴を一度鳴らした。
「小艇を走らせる。三本でつなぐ。行先を追う」
「宝を囮に?」とカイル。
「箱は二重固定。外輪を追加。最悪、舵板を切る」
「最悪の判断者」
「ロロ」
「何で俺!」
「作ったものを切れるから」
ロロは一瞬、黙る。
呼吸の揺り籠を切ったのは、まだ一刻も前ではない。
「料金、倍」
「成立」
「早い!」
第二の砲口が開く。
「時間なし!」とジル。「尾側へ運べ! 背市の中で飛ばすな!」
サーガが伝声管をつかんだ。
『全区へ。霧中船より風圧砲。狙いは保管小艇。尾側二番路を閉じる。住民は建物内へ。外へいる者は、知らないと叫べ』
遠くから声が返る。
『知らない!』
『西屋根、固定方法知らない!』
『南宿、客が二人足りない!』
助けを求める言葉が、町を走る。
隠さないことが、最初の防壁になった。
三本の安全索を小艇へ付けた。
一本目、ジルの太い結索。
進行を止めず、左右へ逸れすぎないため。
二本目、エリアの銀糸入り路索。
どこで切れたか光が残る。
三本目、ロロの巻き取り索。
舵板を切る時、小艇を引き戻す。
「三本あれば安心?」とハル。
「一本ずつ違う理由で切れる」とロロ。
「安心が減った」
「同じ理由で全部切れないためだ」
「それ、少し安心」
「少しでいい」
骨白の箱へ、柔布の外輪を追加する。
ユラが自分の青い髪紐を一本外し、結び目へ通した。
「それで強くなる?」とハル。
「ならない」
「じゃあ」
「どの結びを、私が見たか残る」
「証人の印」
「持ち主の印じゃない」
「分かってる」
「何度でも言う。守った者と持つ者は違う」
カイルが箱の前へ膝をつく。
「七つの名は、まだ聞かない」
「受け取ってないからね」とユラ。
「必ず戻す」
ユラの目が細くなる。
「必ずを安く言うな」
カイルは返事を変えた。
「戻せない時は、戻せなかった理由と、どこまで追ったかを残す」
「それなら聞いた」
ハルは赤いマフラーを短く結ぶ。
「俺も」
「何を」とエリア。
「戻れない時は」
「今、家族の話へ広げない」
「広げてない」
「顔が広げています」
「顔、勝手」
「締めます」
エリアがマフラーの結び目を直す。
「また首」
「飛ばされない長さ」
「追跡するのに短くない?」
「あなたを追跡する手間を減らす長さ」
小艇の固定具を外す。
銀の手形が霧へ向く。
「走るぞ!」
小艇が動いた。
カンティレーナの尾側二番路は、道ではない。
ラナの背びれと背びれの間へ渡した、幅三間の市場帯である。通常は香辛料屋、古帆屋、義歯屋、子供向けの雲飴店が並ぶ。雷雲中は屋台を畳み、中央だけが搬送路になる。
今、その中央を白い小艇が走った。
車輪はない。
底へ入る風と、一枚の残翼だけで滑る。
前へ引くのは霧の受信器。
後ろへ引くのは三本の安全索。
追う者は、その間を走る。
「右へ三!」とエリア。
路図が小艇の前へ短く伸びる。
「三って歩?」
「度!」
「言葉!」
「今のあなたに角度を説明した私が悪かった!」
「認めた!」
「喜ばない!」
小艇が左へ振れる。
ジルの結索が張る。
「受信器、移動!」とロロ。
「船が右へ回った」とミラ。
「見えないのに」
「引かれる向きで分かる」
「義足、大丈夫?」
「質問、遅い」
「今聞いた」
「痛み三。走行可」
「エリアみたい」
「数字は値段の親戚」
「全然違います」とエリア。
「近い」とロロ。
「あなたまで!」
第三の砲声。
今度は音が来た。
風圧弾が霧を割り、路上の屋台骨へ当たる。
古帆屋の畳んだ梁が外れ、進路へ倒れた。
「飛ぶ!」とハル。
「単独禁止!」
「小艇がぶつかる!」
エリアは路図を梁の上へ描かない。
梁は鯨の背へ固定されていない。踏めば動く。
「左壁!」
「店の屋根!」
「固定点、二つ!」
「見えた!」
ハルは小艇の横へ走る。
壁の布帯へ右足。
店の低い屋根へ左足。
一、二、三。
跳ぶ。
片手を使わない。
両足で梁の端へ着地し、身体の重みで倒れる方向を変える。
「重い!」
「五十五キロ!」とロロ。
「今いらない!」
梁が小艇の前ではなく、脇の柔網へ倒れる。
ハルは着地で左肩を回しかける。
エリアの路索が腰帯を引いた。
「肩」
「二!」
「申告、採用」
「引くの早い!」
「頼まれました」
小艇が彼の横を抜ける。
ノクスが船尾へ飛び乗る。
「お前、囮に乗るな!」
「ノゥ!」
「本人の選択」とミラ。
「危険!」
「選択と安全は別。だから追う」
彼女は義足帆を開いた。
濡れた板の上を滑り、小艇へ並ぶ。
尾側へ最短で抜ける道は、感覚毛帯を横切っていた。
濃藍の皮膚から、銀白の細い毛が一面に生えている。
一本は人の腕ほど長い。ラナはそこへ当たる風で、雲の密度、船の接近、雷の方向を知る。
人間の町で言えば、目と耳を混ぜた場所だった。
通常の尾側路は、感覚毛帯を避けて大きく右へ回る。
だが第四の砲撃で、右回り路の吊り橋が半分落ちた。
小艇は受信器へ直進しようとする。
三本の索が張る。
「このままだと毛帯へ入る!」とロロ。
「小艇を持ち上げれば」とカイル。
「風が足りない!」
「切って直線にする」とベルナ。
競売主が短い刃を出す。
感覚毛を数本切れば、人も小艇も通れる。
箱を取り戻せる可能性は高い。
「駄目」とハル。
「ラナは死なない!」
「目を数本切っても人は死なない」とサーガ。
ベルナの手が止まる。
「同じでは」
「同じにするな。痛みを小さく言うな」
「品を失えば競売院が」
「院は建て直せる」とカイル。「ラナの感覚は、俺たちの都合で切らない」
「では道がない」
「見えてないに訂正」とハル。
エリアが彼を見る。
「私の言葉」
「使用料」
「後で請求します」
吊り橋は半分落ちている。
右回りは使えない。
左は感覚毛帯。
上は空。
下に、町をラナへ抱かせる幅広い布帯があった。
「建物の下」とハル。
「整備帯」とエリア。「人用ではない」
「通れる?」
「高さ一間。途中三か所、呼吸で狭まる」
「小艇は」
「翼を畳めば」
「一枚しかない」とロロ。
「便利!」
「壊れたことを褒めるな!」
カイルが伝声管を取る。
『尾側二区住民へ。右回り路損傷。感覚毛帯は切らない。建物下の整備帯を使う案がある。呼吸中、床が下がる。上の建物へ負担が出る可能性』
『どの建物!』
「香辛料三、帆屋二、雲飴一」とエリア。
すぐ返事。
『香辛料、許可。棚は空!』
『帆屋、許可。梁一本壊れてる! ついでに請求する!』
『雲飴、子供二人まだ中!』
「子供!」
『避難に手が要る!』
カイルが言う。
『整備帯は十拍保留。先に雲飴店を出す』
「逃げる!」とベルナ。
「子供より先に追わない」
「王子の判断で競売品を」
「王子だからじゃない」
カイルは伝声管をミラへ渡す。
「客員航路士。逃走距離」
ミラは小艇の索を感じる。
「十拍で半里。まだ追える」
「成立」
「私の言葉!」
「借りた」
「使用料、肉」
「増えた!」
雲飴店の扉が開かない。
呼吸で枠が歪んでいる。
ハルとカイルが走る。
「肩を使うな」とカイル。
「そっち肋骨」
「俺は王子だから丈夫」
「根拠になってない!」
「冗談なら痛み四以下」とセレナ。
「監視が増えた!」
扉の中から泣き声。
「押す?」とハル。
「引く」とカイル。
「同時」
「逆!」
「枠を広げる!」
二人が左右へ力を掛ける。
扉は動かない。
エリアが床へ路図を描いた。
「下の整備帯から、蝶番へ手が届く」
「俺」とハル。
「一人で行かない」
「誰」
「私」
「踵」
「痛み二」
「信用」
「三」
「正直」
二人は建物下へ滑り込む。
狭い。
ラナが息を吸うたび、背皮と建物床の間が狭まる。
エリアが短い路図を光らせる。
「七歩。次の吸気まで六拍」
「走る」
「這う」
「遅い」
「肩を守るなら膝」
「地図屋、現実的」
「今さら」
蝶番の裏へ着く。
ロロの声が管から飛ぶ。
『上ピンを半回転! 下は触るな!』
「半回転、どっち!」
『錆びの薄い方!』
「色が!」
『匂い!』
「無茶!」
ノクスが整備帯へ頭を突っ込み、右のピンを嗅いだ。
「ノゥ」
「こっち?」
噛む。
「違う?」
「多分、油」とエリア。
「証拠にならない!」
「でも錆が薄い」
ハルが回す。
扉が外側へ一寸ずれた。
上でカイルが引く。
開く。
子供二人が母親に抱かれて出る。
「知らなかった!」と小さい方が泣きながら叫ぶ。
「今は知った!」とハル。
小艇は十拍分進んだ。
だが逃げ切っていない。
町が選んで待った十拍だった。
整備帯へ小艇を通す。
人が上から三本の索を持ち、下の小艇を前へ送る。
呼吸のたび、帯の高さが変わる。
「吸気!」とサーガ。
全員が小艇を伏せる。
建物床が下がる。
箱の上、指二本分。
「高い!」とハル。
「頭?」
「箱!」
「お前の方が高い!」とロロ。
ハルは首を横へ曲げる。
エリアの三つ編みが床へ擦れそうになる。
彼女は片手で押さえ、もう片手で路図を維持する。
淡青の線が揺れた。
「踵」とハル。
「三」
「止める?」
「次の固定柱で地図を渡す」
「誰に」
「ミラ」
ミラが後ろから来る。
「私は地図屋じゃない」
「線を描けとは言わない。私が測った次の三点を覚えて」
「値段」
「地図紙一枚」
「安い」
「私の地図紙よ」
「高い。成立」
エリアは三点を言う。
「黄色柱。割れた梁。低い白帯」
「色は困る」
ミラには赤緑の色覚差がある。
エリアは即座に言い直す。
「柱に切れ込み三。梁は鈴なし。白帯は麻の匂い」
「受領」
「進路を言って」
「切れ込み三まで直進。鈴なし梁で右。麻帯で上」
「正確」
「褒めるなら地図紙二枚」
「交渉は後」
エリアは路図を消した。
踵を休める。
地図を手放すことは、彼女にとって道を失うことではない。
他人へ道を渡すことだった。
ミラが先へ出る。
「切れ込み三!」
小艇を導く。
道は光っていない。
それでも進める。