第164話 第十章「鯨を傷つけない追跡」後編
整備帯を抜けた時、霧の船は二・九里まで近づいていた。
《グレイ・リターン》は逃げていない。
箱を迎えに来ている。
旧式艦の船首受信器が白く燃え、小艇の舵はさらに強く引かれる。
「尾側発着帯まで四百歩!」とジル。
「ゼロスター号は」とハル。
『帆を起こしてる!』とロロ。
「ここにいる!」
『ピコだよ!』
機械鳥ピコの声が伝声管から裏返る。
「いつ覚えた!」
『ロロ、料金! 料金!』
「余計なことだけ!」
ロロ本人は巻き取り軸にしがみついている。
ゼロスター号の起動は、発着帯に残った鯨守と競売院の整備員が進めていた。
「船を他人に触らせた」とハル。
「緊急修理契約!」
「成長」
「金払ってるだけ!」
第五砲。
風圧弾が三本の索の上を通る。
銀糸入り路索が切れた。
空中へ淡青の光が残る。
「一本!」
「切断位置、尾側百二十二歩!」とエリア。
残る二本。
小艇が右へ大きく振れる。
その先は、ラナの尾びれ付け根。
感覚毛より太い平衡毛が並ぶ。
「引き戻せ!」
ロロが巻き取り機を回す。
歯車が空転。
「風圧で軸が歪んだ!」
「直せる?」
「走りながら聞くな!」
「いつなら!」
「部品が止まってる時!」
カイルが小艇の進路へ出た。
右籠手を左拳で一度。
「一回」とセレナ。
「今は二回待てない!」
深紅の盾が展開する。
王盾炎〈レグルス・ガード〉。
守る人数は、背市の住民、追跡班、ラナの感覚器。
盾は大きくなる。
炎の色を持ちながら、熱を外へ漏らさない薄い壁。
小艇は盾へ当たらない。
カイルは直接止めず、風圧だけを受ける。
進路が一尺ずれる。
平衡毛を避ける。
「今!」
ジルが結索を引く。
小艇が尾側発着帯へ滑り込んだ。
カイルの盾が消える。
彼は右腕を下げた。
「肋骨」とハル。
「三」
「信用」
「五」
「上がった!」
「正直の利子だ!」
セレナが彼の脇へ入り、右腕を肩へ回させない。
「一度だけです」
「分かってる」
「あなたの『一度』は、同じ危機の中で数え直す」
「法が厳しい!」
「身体の事実です」
ゼロスター号は、格好の悪い帆で待っていた。
右主帆は自由港で張った深灰。
左補助帆は学院の白環杯で修復した白。
尾帆は黄色い継ぎ布。
完全には直っていない。
それでも風を受ける。
「係留、二本!」とジル。
「一本しか外れてない!」と整備員。
「もう一本は切る!」
「鯨を傷つけるな!」
「船側だ!」
「先に言え!」とサーガ。
ジルが船の古い係留索を斧で切る。
ゼロスター号が発着帯から浮く。
小艇は船尾へ二本の安全索でつないだ。
箱は載せ替えない。
受信器が何を追っているか、まだ完全には分からない。移せば痕跡を失う。
「全員乗った!」とロロ。
「ユラは」とカイル。
「残る」と老女。
「箱を」
「追う者が多すぎる。戻る場所に一人はいる」
「戻す」
「理由も」
「残す」
ユラは発着帯に立つ。
サーガはゼロスター号へ乗らない。
ラナへ残る。
「鯨守、航路選択」とカイル。
「ラナは今の道を進む」
「追跡のために旋回を頼まない」
「頼んでも断る」
「それを先に言う人、多いな」
「王子は頼む顔が騒がしい」
ゼロスター号が飛び出した。
霧へ入る。
世界が白くなる。
エリアの路図は、船の周囲二十間だけ。
先は描けない。
「受信器方向!」とロロ。
小艇の舵が左へ。
「左十二!」とミラ。
「度?」とハル。
「帆索十二目盛り!」
「言葉!」
「今のあんたへ度を説明しても――」
「同じ会話した!」
「相手が違う」
「内容が同じ!」
「なら学べ!」
ジルが舵を左へ切る。
ゼロスター号は霧の谷を滑る。
小艇は後ろで引かれ、時折横へ跳ねる。
残った二本の索が別々に軋む。
ノクスは船尾欄干へ立ち、二本尾を同じ方向へ伸ばす。
「樹脂?」とハル。
「ノゥ」
「返事、便利」
「意味は確定しません」とセレナ。
「今は向きだけ!」
「向きも舵と一致しているという補助事実」
「長い!」
霧の向こうで白い灯が点く。
《グレイ・リターン》。
近い。
甲板に人影はない。
舷窓は閉じ、帆も畳まれたまま。それでも古い推進輪が回り、船は横風へ逆らって進む。
「乗員なしで動く?」とハル。
「機関だけなら」とロロ。「でも砲を狙うには」
第六砲。
「来る!」
エリアが風圧弾の形を路図へ出す。
直線ではない。
霧の濃い場所を避け、少し上へ曲がる。
「右下!」
ジルが舵を倒す。
ゼロスター号が沈む。
風圧弾は上を通り、小艇の後索をかすめた。
ジルの太索が切れる。
「残り一本!」
ロロの巻き取り索だけ。
小艇が《グレイ・リターン》へ加速する。
「巻け!」
「軸が歪んでる!」
「手で!」
カイル、ハル、セレナが索へつく。
「セレナも?」
「証拠保全です」
「力仕事」
「証拠は自分で歩きません」
「さっき権利は走らないって」
「今は物体です!」
三人で引く。
小艇の舵は向こうを向く。
霧の受信器は、こちらより強い。
ロロが歪んだ軸へ工具を差し込む。
「あと三十秒!」
「何が」
「直るか壊れる!」
「差が大きい!」
「機械は正直!」
《グレイ・リターン》の船尾扉が開いた。
暗い格納口。
床に白い受領線。
誰も立っていない。
小艇はそこへ向かう。
「入れたら扉が閉じる」とエリア。
「距離、二百間」とジル。
「ゼロスターで間に入る」とハル。
「箱ごとぶつかる」とミラ。
「じゃあ索」
「切れる」
「盾」
「一度使った」とカイル。
「俺が飛ぶ」
「単独禁止」と全員。
「じゃあどうする!」
ミラが義足の小帆を開いた。
「勢いを盗る」
「距離!」とジル。
「近づく」
「どこまで」
「触れるまで」
「戻り方」
「盗った勢いで戻る」
「それ、戻るじゃなく飛ばされる」とロロ。
「向きを選ぶ」
「止まれない」とジル。
「知ってる」
ミラは船縁へ立った。
右膝の布が濡れている。
義足接合部の痛みで、骨盤が少し上がる。
「痛み」とハル。
「四」
「信用」
「四・七」
「小数やめろ!」
「本気で傷ついてる時の癖」とジル。
「一航士、黙って」
「止める」
「契約外」
「だから止める」
ジルがミラの腕を掴む。
「お前は船長じゃない。全部を一人で決めるな」
「今は客員航路士」
「なら航路を言え。飛ぶ役を相談しろ」
ミラは霧の格納口を見る。
小艇まで百五十間。
「ハル」
「何」
「私を小艇まで投げる」
「俺が?」
「赤布とロープ。カイルが支点。エリアが戻り線。ロロが索を直す。ジルがゼロスターを並走。セレナは」
「同行します」
「来るな」
「証拠」
「重い」
「五十八キロ」
「自分で言う?」
「事実です」
「船に残って記録。私が受信器の印を剥がさないか見て」
「映像距離」
「エリアの光線へ証羽を沿わせる」
「採用」
「ノクス」
黒い獣がミラの肩へ飛び乗る。
「重い」と彼女。
「四・八」とロロ。
「数字、今いらない」
ノクスは降りない。
「本人の選択」とハル。
「危険と別」
「だから一緒に追う」
ミラは笑った。
「真似、成立」
ロープを作る。
ハルの配達鞄から、細い赤索。
エリアの銀糸。
カイルのマント留め。
ジルの結び。
即席の往復線。
「左肩は支点にしない」とエリア。
「分かってる」
「右腰へ」
「投げるのに腰?」
「あなたが飛ばないため」
「俺、投げる側」
「勢いで一緒に行く前科があります」
「前科、何件」とカイル。
「数えたくない」とエリア。
「俺が支点」とカイル。
彼は左手で主索を握る。
右腕は盾の反動で震えている。
「左利き、便利」とハル。
「矯正した礼法教師へ初めて感謝した」
「その言い方、後で問題」
「今は飛ばせ!」
ミラは船縁へ足を掛ける。
義足帆を畳む。
「数える?」
「値段を」
「一」
「安い」
「二」
「まだ」
「三!」
ハルとカイルが線を引く。
ミラが飛ぶ。
霧の中へ、赤茶のコートが一本の刃のように伸びた。
ただし刃ではない。
鯨を切らないための、人間の身体だった。
小艇まで十間。
ミラが義足帆を開く。
横風を受ける。
ノクスが肩から跳び、小艇の箱へ着地。
ミラの右手が船尾へ触れた。
「成立!」
青い風輪が広がる。
移動物から勢いを盗む風術〈スティール・ゲイル〉。
小艇の前進速度が落ちる。
《グレイ・リターン》の格納口まで七十間。
「取った!」とハル。
「全部じゃない!」とミラ。
勢いは消えない。
彼女の身体へ入る。
義足の小帆が震える。
右膝が曲がる。
小艇は遅くなったが、止まらない。
受信器は向こうで呼び続ける。
「巻け!」
ロロが修理した軸を回す。
巻き取り索が戻る。
一間。
二間。
《グレイ・リターン》の左舷砲口が開いた。
「ミラ!」
風圧弾。
狙いは彼女ではない。
小艇とゼロスターを結ぶ、最後の索。
セレナの証羽が黒く光る。
「切断予測、中央三分の一!」
エリアが路図を投げる。
索の切れる場所へ淡青の輪。
「ハル!」
「見えた!」
彼は往復線を腰へつけたまま、船尾へ走る。
一、二、三。
跳ばない。
欄干へ両足を掛け、配達鞄から予備縄を投げる。
風圧弾が巻き取り索へ当たる。
切れる。
同時に、予備縄が小艇の後輪へ掛かった。
「取った!」
反動。
ハルの身体が船外へ引かれる。
左肩ではなく腰帯。
カイルが支点。
エリアの銀糸が張る。
「一人で取ってない!」とエリア。
「分かってる!」
小艇が再びゼロスター側へ戻り始める。
だがミラは戻らない。
盗んだ勢いが、彼女の中で逃げ場を探している。
「線へ乗せろ!」とジル。
「無理!」
「何で」
「小艇へ返したら、また鯨側へ飛ぶ!」
ゼロスター号と《グレイ・リターン》の下。
霧の切れ間から、ラナの四枚翼が見えた。
小艇の進路を少し誤れば、巨大な後翼の縁へ当たる。
ミラは盗んだ勢いをどこへ返すか選ばなければならない。
自分へ残せば、身体が壊れる。
小艇へ戻せば、箱が鯨へ落ちる。
ゼロスターへ返せば、船が横転する。
《グレイ・リターン》へ返せば、衝突して証拠も人も失う。
「上!」とエリア。
「雷雲!」
「雲は傷つかない!」
「私が傷つく!」
「戻り線で引く!」
ミラは上を向いた。
義足帆を最大へ開く。
「一航士!」
「聞いてる!」
「船を三度、右へ!」
「三度?」
「角度!」
「今それを言うな!」とハル。
ジルは舵を切る。
ゼロスター号が右へ三度。
往復線の角度が変わる。
ミラは盗んだ勢いを上へ放った。
青い風柱が霧を貫く。
彼女の身体が反対方向へ落ちる。
戻り線が張る。
「引け!」
カイルとハルが引く。
線の結び目が、風圧で傷んでいた。
一本、ほどける。
ジルの結びではない。
即席で足した、ハルの赤索。
「結びが!」
「直す!」とロロ。
距離がある。
ミラは霧の中で一度、ゼロスターへ近づく。
手を伸ばす。
ハルも伸ばす。
届かない。
「左肩を出すな!」とエリア。
「でも!」
「右手!」
「短い!」
「私が半歩!」
エリアが腰帯を引き、ハルの身体を前へ送る。
指先が、ミラのコートへ触れた。
赤茶の布が裂れる。
ミラの右手から、硬貨が一枚落ちた。
「その親切!」
彼女が叫ぶ。
「いくら!」
「後で決めろ!」
「保留!」
戻り線の最後の結びが外れた。
ミラの身体が白い霧へ吸われる。
ノクスが小艇から跳ぶ。
届かない。
二本尾が空を切る。
「ミラ!」
返事はない。
銅色の髪。
赤茶のコート。
星晶義足の淡い光。
それらが一瞬ずつ霧に見え、次の瞬間には全部消えた。
小艇はゼロスター号へ引き戻された。
箱は残った。
ラナの翼にも当たらなかった。
守ろうとしたものは守られた。
その代わり、勢いを盗んだ少女だけが、止まれないまま霧へ投げ出された。